HODGE'S PARROT

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モーリスたちの夢精



ジェイムズ・アイヴォリーの映画は観たことがあるのだが、原作の E.M.フォースターの小説『モーリス』(Maurice)は読んだことがなかった。『眺めのいい部屋』がなかなか面白かったので──かなり以前に読んだ『ハワーズ・エンド』はいまいちピンとこなかったが、今読むと違った印象を持つかもしれない──今度は『モーリス』を読み始めた。
すごく面白い──というより身につまされる。え、これオレのこと? なんて思ってしまうシーン多数。もっと早く読めばよかった! 例えば、

あらゆるものの輪郭が不鮮明、非現実的で、それは夢にまことに酷似していた。モーリスには学校で見る夢が二つあった。それらはこの時期の彼をよく象徴するであろう。
最初の夢の中で、モーリスはひどく怒りっぽい気分を感じている。誰だかわからぬが、うんと嫌なやつを相手にラグビーをしている。誰だかわからぬその相手を見きわめようとすると、そいつは例のジョージに変身する。だが気をつけないとまたさっきのやつが出てくるだろう。


ジョージはモーリスに向かって駆けてくる。裸で、薪の山を飛びこえながら。「今また彼が別の誰かに変わったらぼくは頭がおかしくなる」とモーリスは声に出していう。タックルする瞬間にそれは起こる。そこでモーリスは夢精特有の味気なさを感じつつ目を醒ますのだ。




E.M.フォースターモーリス (扶桑社エンターテイメント)』(片岡しのぶ 訳、扶桑社) p.30-31

プルーストの紅茶に浸したマドレーヌじゃないけれど、なんとなく、あの、冷たく濡れた下着の感覚が蘇ってくるような素晴らしい名文だと思う──しかも同性/男を想っての夢精(Nocturnal emission、Wet Dream)がこれほど繊細に、そして何より「実感を伴って」描かれているなんて、そうざらにはない。さらにモーリスがこれを「病気の前兆」だとか「何か悪いことをした罰」と考えることも、やはり「実感を伴った」納得の描写だ。



実は、米国版『Queer As Folk』を観て以来、こういったゲイ・ライフ/セックスをコメディタッチに──もちろんときにシリアスに──描いたTVドラマは、もはや「文学」も映画をも凌駕した、と思っていた。

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(これ、国内アマゾンで手頃な価格で買えるし、字幕がなくてもストーリーは十分に追えるし、リージョン1だけどPCならば一度ぐらいリージョンを替えてもまた戻せばいいわけだし、何よりブライアンがイケメンだし……とりあえず「基本資料」としてお奨め)



だけれども、『モーリス』のような小説を読むと、やはり「実感を伴った」共感というのも大切だな、と思う。アメリカ的なもの──その自由奔放さ──に憧れながらも、しかしヨーロッパの比較的地味な小説や映画にグッとくるような感じ。性に合っているというか、ほとんど肉体的に好きだというか、何か捨てがたい「過去の感覚」が蘇るというか、そういったことに再会(リユニオン)することで安らぐというか。

第二の夢を説明するのはもっと厄介だ。そもそも何も起こらないのである。誰かの顔が見えるわけではない。ただ、ある声が「それがきみの友だ」と言うのを聞いたような気がするだけでそれは終わってしまう。だがモーリスは、これだけで美とやさしさに満たされたのだ。そのような友のためなら死んでもいいし、そのような友になら自分のために死んでもらってもいい。二人は互いのためにいかなる犠牲もいとわず、世間をものともせず、死も距離も行き違いも二人を引き離すことはないだろう。なぜなら、「それがぼくの友」なのだから。


その頃モーリスは堅信礼を受けた。そして、この友というのはきっとキリストなのだと信じようとした。





『モーリス』 p.31

Modern Classics Maurice

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