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表象暴力と「やおい」、あるいはサルトルの「見るか見られるか」の戦い



永野潤 著『図解雑学 サルトル』(ナツメ社)を読んだ。ジャン=ポール・サルトルについての解説書で、絵と文章でプレゼンテーションされている。平明でわかりやすく、サルトルの多彩な思想・活動を、改めて、概観できる。

図解雑学 サルトル (図解雑学シリーズ)

図解雑学 サルトル (図解雑学シリーズ)


とくに興味を惹いたのが、第4章『存在と無』の哲学。「まなざしの問題」「対人関係の根本的なあり方としての相克」と題された部分である。サルトルによれば「他人のまなざしが向けられることによって、人間はモノに変えられてしまう」のだという。

私は今、かぎ穴から中をこっそりのぞいている。私は、まさに「我を忘れて」部屋の中を「見ている」。私はこのとき、世界に関わっている。ところが、突然廊下で物音が聞こえ、誰かが私に「まなざし」(regard)を向けていることに気がついたとする。その瞬間、私は「見られている」モノ(対象)に変化したのである。つまり、私は世界に関係する存在から、他人に関係される存在に転落してしまう
このとき私は激しい恥ずかしさを感じるわけだが、サルトルは、「恥」とは対象となった自分をとらえる意識だと考える。


私はまなざしによって対象となり、モノとなってしまう。ギリシア神話には、まなざしによって相手を石に変えてしまうメデューサという化け物が登場するが、それと同じように、他人のまなざしは、私をモノに変えてしまうのである。




「まなざしの問題」p.100

他人の「まなざし」は、私をモノにしてしまうのだが、それは、私が他者にとって何もの「である」かが決まってしまう、ということでもある。我を忘れて部屋をのぞいているとき、私は「何ものでもない」存在だった。ところが、他人に見られた瞬間、私は、他人にとって私はのぞき魔「である」ものとして存在しはじめる。つまり、意識としての人間が「他人に関係される存在」(対他存在)であるということは、否応なく他人にとって何ものか「である」という人間の宿命を示しているのである。


(中略)


他人に「見られ」、他人の「まなざし」に支配されてしまった私が、そこから逃れ、自由を取戻すにはどうすればいいか。サルトルによると、それは、私が他人を見返し、まなざしを返すことによって相手をモノにしてしまうしかない。
サルトルは、私と他人との関係は、お互いに相手を見ることによって自分の自由を守ろうとする戦いのようなものにならざるをえない、と考える。こうした、私と他人の「見るか見られるか」という戦いのことを、サルトルは「相克」と呼ぶが、サルトルによると、それは対人関係の根本的なあり方なのである。




「対人関係の根本的なあり方としての相克」 p.102

ここで賭けられているのは「自由」である。「他人にとって」何もの「である」、のではなく、「私にとって」何もの「である」かを決められる存在。それが「自由な存在」なのである。


このようなサルトルの主張を、現在 nogamin さんが問題にしていることへの、とりあえずの、ご返事とさせていただきたい(他にもいろいろとあるんだけどね)。


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