HODGE'S PARROT

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N響アワー

お、ウィーン楽友協会大ホール(ムジークフェラインザール)での演奏だ。指揮はウラディーミル・アシュケナージ

http://www.nhkso.or.jp/archives/oversea/europe2005_1013.shtml

武満徹の『鳥は星形の庭に降りる』は良かった。こういうキラキラした響きの曲は大好きだ。

また、ヴィオラとピアノのための《鳥が道に降りてきた》(94年)では、《鳥は星形の庭におりる》のテーマが用いられている。後者のオーケストラ曲は、マルセル・デュシャンの後頭部を星形に剃った写真からの連想だろうか、作曲家の夢にでてきた星形の庭に、鳥たち(a flock)が舞い降りてくるというイメージであり、冒頭のオーボエのメロディーが、鳥の群れ、すなわちオーケストラのその後にづつくひびきを率いるとされる。



小沼純一武満徹 その音楽地図』(PHP新書)p.169-170


武満徹:カトレーン

武満徹:カトレーン

武満徹―その音楽地図 PHP新書 (339)

武満徹―その音楽地図 PHP新書 (339)

ジョシュア・ベルのインタビューより

断トツのイケメン・ヴァイオリニスト、ジュシュア・ベルのインタビューが『レコード芸術』(2005年9月号)に載っていた。

注目したいのは、彼の楽曲に対する「解釈」についての発言だ。ベルは最近、チャイコフスキーの協奏曲をマイケル・ティルソン・トーマスベルリン・フィルと再録音した。

Tchaikovsky: Violin Concerto

Tchaikovsky: Violin Concerto


前回の録音では「伝統的な」カットを施した。しかし今回は、作曲者チャイコフスキーの「オリジナル」に忠実なものだという。

──私の印象では、お2人とも(ベル、ティルソン・トーマス)典型的なチャイコフスキー解釈とは一定の距離を置いているように感じたのですが……。


ジョシュア・ベル 私はもはや伝統的という言葉の意味づけが困難な時代に入っていると思うのです。何よりいわゆる「伝統的解釈」というものは、作曲者が本来望んでいたものと一致しない。テンポをはじめ詳細な指示というものが「伝統的解釈」で守られているでしょうか? 先ほどもお話したカットの問題についてもしかり。今日ではカットを施さないのが一般的になりつつあります。

また、ロジャー・ノリントンモーツァルトの演奏をする場合ピリオド楽器の奏法は意識するか、という質問に対して、ベルはこのように応える。

私の楽器が作られたのはモーツァルトが生まれる前です。その意味ではピリオド楽器ですが(笑)、もちろん弓は違います。
知識としてはヴィブラートをはじめとする音の奏法を知ることは大切です。その意味ではノリントンはきわめて大きな影響を与えてくれた。でも私は音楽に対して常に正直な気持ちで望むことが大切だと考えます。


今日ではオーセンティックということにこだわりすぎて、様式化してしまう傾向がある。グレン・グールドのピアノ演奏を聴くとよくわかると思いますが、素晴らしい音楽というものは様式を超越する存在なのです。役者でいうならば、その役柄に与えられた方言にこだわりすぎて、肝心の演技がおろそかになってはつまらない。それと同じことが音楽についてもいえるのです。


Romantic Violin

Romantic Violin

Essential Bell

Essential Bell

Gershwin Fantasy

Gershwin Fantasy

Violin Concerto

Violin Concerto


[ジョシュア・ベル 関連サイト]

ベルは『レッド・バイオリン』や『アイリス』など映画音楽にも積極的。本人も映画が大好きだそうだ。 Imdb にも載っている。

The Red Violin: Original Motion Picture Soundtrack

The Red Violin: Original Motion Picture Soundtrack

Iris

Iris

ホロヴィッツの『展覧会の絵』

これもアナログレコードで聴く。1951、1953年のカーネギーホールの実況録音が中心になっているアルバム。レーベルはRCA(RVC)。モノラル録音。


スクリャービンホロヴィッツの18番だけあって、それは甘美で妖しくて素晴らしいのだが、なんといってもこのアルバムでは『展覧会の絵』だな。このホロヴィッツ編曲による超絶技巧『展覧会の絵』には度肝を抜かれる。あの「バーバ・ヤガー」から最後の「キエフの大門」への盛り上がりはいったい何だ? ピアノって暴力的な楽器だと、つくづく思う。

即興という言葉を頭の片隅に置いていただけるなら、演奏とは、単純な話、一回ごとの編曲作業である。ホロヴィッツの変化に富んだ演奏を聞いていると、編曲作業のまっただなかに放り出され、聞き知った曲という慣れに基づく安定感をうばわれて手に汗握り聴き込んでいる自分にハッとすることが多い。
ホロヴィッツにヴィルトゥオーソという言葉が用いられる場合、ただ指の回転速度や表情の巾振の大きさへの比例関係でのみ理解されるべきではないのだ。名技性は、ここでは聴き手の手の汗とも結び付き、演奏家のひたいの汗を消し去ってしまう。《展覧会の絵》に特別に記載された『ホロヴィッツ編』の編の字は、先の編集作業の編と相互に関係しあうのであり、音楽よりもテキストを好む学者潔癖主義の精神とあい入れない。




吉田耕一 レコード解説より

Mussorgsky;Pictures at An E

Mussorgsky;Pictures at An E

ブレンデルのバッハ

LPレコードで聴く。「名盤」だけあってCDは現役で出ている。

Bach: Piano Works

Bach: Piano Works

曲は、

  • イタリア協奏曲 BWV971
  • コラール・プレリュード:イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ BWV639(ブゾーニ編)
  • プレリュード(幻想曲)イ短調 BWV922
  • 半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV903
  • コラール・プレリュード:来たれ、異教徒の救い主よ BWV659(ブゾーニ編)
  • 幻想曲とフーガ イ短調 BWV904


ブゾーニの編曲版が「平然と」ラインナップされているように、演奏はチェンバロの模倣に終始するのではない。現代ピアニストによるピアニステックな演奏だ。プレリュードはピアノの弱音が美しく、『半音階的幻想曲とフーガ』では素晴らしくダイナミックな演奏が聴ける。装飾音は少ない──これもピアノ的だ。


レコードの録音データを見ると、1976年5月27日となっている。(グールドと違って)たった一日でLP一枚分の楽曲を録音したということか。

注目されるのは、裏ジャケットの解説にブレンデルのインタビューが載っていること。題して「ピアニストとバッハ」。バッハをピアノで弾くことについてのブレンデルの主張だ。

 バッハの鍵盤楽器の曲をピアノで演奏すると、どんな利点があるのでしょうか。


ブレンデル まず第一に、ピアノの音は現代のコンサート・ホールに適しています。古い楽器の音は、そうではありません。バッハの演奏は古楽器に限るべきだと考える批評家は、バロック時代の大理石のホールに聞きに行くか、または自宅のレコードで演奏を聞くように要求しなければなりません。
さて私の考えでは、バッハは現代のコンサートのレパートリーに残るべきだと思います。批判的な意見のために、彼の音楽はピアノのリサイタルからほとんど消えてしまいました。かつてはひじょうに重要とされ、フーガのような緻密な対位法の構成の各部分を個性的に弾くのに、きわめて役立っていたのですが──。


バッハの鍵盤楽器には、かくれた可能性がたくさんあります。どの鍵盤楽器のために書かれた曲であるかを決めるのがむずかしいこともあるのです。たとえば、イ短調の「幻想曲とフーガ」は、オルガン曲の特徴をたくさん備えています。いっぽう、彼の鍵盤楽器の曲のなかには、もっと多彩な楽器の音や声の音色、デクラメーション、ダイナミックスなどを失っても、鍵盤楽器を必要とするような典型的な室内楽曲、管弦楽曲、協奏曲、アリアなどもあります。それらは、三次元のものを二次元に縮小したように思えます。それらの曲は、どうしてそうなったのでしょう。それは、鍵盤楽器の奏者が、演奏仲間たちと妥協せずに、一人で作品全体をマスターすることができるからです。
現代のピアノは、音色やダイナミックスに対するもっと大きな感受性のおかげで、時には第三の要素を復元することができるのです。

さらにブレンデルは、音楽的に必要と思われれば、オクターブの重音によってダイナミックのコントラストを強化することもあえて辞さないし、ブゾーニなどのトランスクリプションもそれはすべて「編作と演奏しだい」だと看破する。