HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

ジャック・デリダの同性婚への言及・署名

HODGE2005-10-01




『パピエ・マシン』でもパクス法(PACS)に言及していたデリダだが、『生きることを学ぶ、終に』では、同性婚/PACS に対してより踏み込んだ発言をしている。

私は今「政教分離」と言いました。ここでよろしければ長い括弧を開かせてください。問題にしたいのは学校におけるヴェールではなく、「婚姻」のヴェールです。
ノエル・マメール*1の時宜にかなった勇敢な率先行動(イニシアディブ)を、私はためらわずに私の署名によって支持しました。もっとも、同性愛者間の婚姻は、前世紀[十九世紀]にアメリカ人が市民的不服従の名のもとに創始したあの素晴らしい伝統の一例なのですが。


それは大文字の法への挑戦ではなく、法律的規定に対する、よりよい法──来るべき、あるいは憲法の精神ないし条文にすでに書き込まれている法──の名における不服従です。よろしいでしょうか、私が「署名した」のは、この現行の法律的コンテクストにおいてです。
私にはそれが──同性愛者の権利にとって──不正であり、その精神においても条文においても、偽善的で曖昧いに思われたからです。


私が立法者なら、世俗的な民法典から、「婚姻」という言葉と概念を、ただ単に消滅させることを提案するでしょう。

(中略)

「婚姻」という言葉と概念、この曖昧さや宗教的で聖化された偽善、世俗的な憲法=政体[constitution]にはいかなる場も持たないそれを廃止して、契約にもとづく「市民的結合」に変えるのです。それは<連帯の市民契約(パクス)>を全般化させ、改善し、洗練させたようなものであり、性も数も強制されないパートナー間の、柔軟で調整された結合です。


厳密な意味で「婚姻」──それに対する私の敬意は、とはいえ揺ぎないものですが──によって結ばれることを欲する人々については、その人々が選んだ宗教的権利の前でそういうことができるでしょう。同性愛者の婚姻を宗教的に受け入れている他の国々では、そもそもそのように行われています。


宗教的なものか世俗的なものか、どちらかの様式で結ばれる人々もあれば、両方の様式で結ばれる人々もあり、また他の人々は、世俗的な法でも宗教的な法でも結ばれなくてもよいというい具合になるのです。




ジャック・デリダ『生きることを学ぶ、終に』(鵜飼哲 訳、みすず書房)p.49-50

デリダは2004年10月9日に亡くなっているから、2004年6月5日に執り行われたノエル・マメール市長によるフランス初の同性結婚とそれに伴う政府の対応について、マメール支持の「署名」をしたのは彼の死の数ヶ月前ということになる。

生きることを学ぶ、終に

生きることを学ぶ、終に

パピエ・マシン〈下〉 (ちくま学芸文庫)

パピエ・マシン〈下〉 (ちくま学芸文庫)

*1:ノエル・マメール(Noel Mamere, 1948- )はジロンド県選出の緑の党議員。2004年6月5日、ベーグル市の市長としてステファン・シャパンとベルトラン・シャルパンティエの婚姻を認めた。内務大臣はこのフランス初の同性愛者間の婚姻を違法として、マメールの市長職を一ヶ月の停職処分とした。

ガールフレンド、ディスタンクシオン

Jump Rope』に続き、”Commercial Closet”より、ゲイ・マーケットに参入している企業のコマーシャルを見てみたい。

日本を代表する自動車メーカー、トヨタ自動車によるカローラのCM。2005年に北アメリカで放映。レズビアンカップルの「アット・ホーム」な関係を扱った、とてもよい感じのコマーシャルだ。

Girlfriend

このCMを見ていてちょっと思い出したことがある。それは竹村和子フェミニズム』に書いてあったのだが、最近のアメリカ合衆国の調査によると(セス・サンダーズによる国立衛生研究所委託研究)、レズビアンの所得はストレートの女の所得よりも35%以上も多いという結果だ。
従来、レズビアンは社会的に抑圧されているために、所得は低いと見られていた。したがってこの結果は、「きわめて驚くべき」ものだという。

アンケートに基づく統計なので数値に変動があるのだろうが、それに付されたサンダーズのコメントと竹村の分析(ブルデューの理論を用いた「ハビトゥスの傍流─主流の転倒」)が興味深い。

彼によれば、この統計は、市場がレズビアンを高遇しているということではなく、「レズビアン異性愛の女よりも、家計や子供の養育に経済的にも責任をもたねばならないと自覚しており、おそらくそのことが、経済的に有利な伝統的な男社会にレズビアンを進出させている」ことを語っている(『アドヴォケイト』2000年7月4日号)。


少なくとも女の場合は、ジェンダー化しジェンダー化されているハビトゥスを内面化、身体化しない(できない)者ほど、公的領域に出る可能性が高くなる場合があると言えるだろう。



竹村和子フェミニズム (思考のフロンティア)』(岩波書店)p.79

ジェンダー化されジェンダー化するハビトゥスがわたしたちの慣習行動を「身体の必然」として構造化しているものならば、そのホモソーシャルなハビドゥスの内部で、わたしたちは新しいハビトゥスをはたして構築することなど、できるだろうか。

(中略)

しかしおそらく、それは可能である。それを可能にしているものは、ハビトゥスが「構造化する構造である」ということ──つまりどのような慣習行動がハビトゥスによって構造化されていようとも、慣習行動=実践(プラクティス)という個々の行為によってしか、そのハビトゥスは存在することも、存続することもできないということ。
したがってホモソーシャルな共同体は、精神と身体、公と私、男と女、異性愛と同性愛を安定的に分断しているのではなく、じつは強迫観念的なパニック(「同性愛パニック」)によってかろうじて両者を分離しているにすぎない、きわめて不安的なものであるためである。



竹村和子フェミニズム (思考のフロンティア)』(岩波書店)p.80-81

「反進化論」の台頭? じゃあ「精神分析」の台頭はいいのか?




「反進化論」米で台頭 渡辺久義・京大名誉教授に聞く [産経Web]

ダーウィンの進化論を批判する「インテリジェントデザイン(ID)」論を学校教育に取り入れる動きが米国で広まっている。IDとは、人間の存在は進化論では説明できず、何らかの「知的存在」がデザインしたという理論で、従来の反進化論と違って多くの科学者が支持。ブッシュ大統領も、進化論以外も学校で教えるべきだとの姿勢を示している。日本で早くからIDを紹介している渡辺久義京大名誉教授に聞いた。

別にどーでもいいことなんだが、しかし、このニュースの内容に対しては、批判口調が多い気がする。
しかし……だったらなぜ、「精神分析」には、同様の批判が起きないのだろう。あんな似非科学。「エディプス・コンプレックス<理論>」なんて、「ノアの箱舟<理論>」といったいどこが違うのか──いうまでもなく「精神分析」は学校で教えている。しかもその似非科学が「診察・治療」をしてきたという事実を、どうして誰も「問題化」しないのだろう。

精神分析」は明らかに人権侵害級の差別を孕んでいる。<差別語>を使用している。「信じる者は救われる」の教えどおり、「精神分析医を信じたため」に数人が救われたかもしれない。だからといって、精神分析の<犯罪性>は「免罪」される……のか?

メディアリテラシーと『ハッカー宣言』




メディアリテラシーの練習問題;室井尚の奇妙な反・嫌煙運動プロパガンダ論 by 山形浩生

そうだな……「ポモ」の代表みたいなドゥルーズじゃな。ま、僕も「研究者」という偉そうに振舞っている──態度のすこぶる悪い──「特権階級」(あるいはリフォーム業者)には心底アタマにきているから、以下はまったく頷ける。

要するに、ハッカー階級と称する連中だって、しょせんベクトル階級とやらと同じ穴のムジナでしかないのだ。はっきりした質の差があるわけじゃない。ただの程度問題。さらに社会に対する得体の知れない思いこみときたら頭痛がするほど。「金儲けは卑しいものであるという倫理観を取り戻すことは重要である」!! この低級な「倫理」とやらが、ヨーロッパにおけるユダヤ教徒迫害につながり、ポルポト政権下でも商人弾圧・虐殺につながり、最近ではインドネシアにおける華僑迫害をもたらしたという認識は、もちろん室井にあるわけはないが、情けなや。まったく、金儲けが卑しいというんなら、室井は給料や印税返上してごらんよ。「株式市場で利益を生み出している人たちは「何も生産しておらず」単に、「博打打ちの親玉」(by 西垣通)、「剽窃者」にすぎない」!! 株式市場の仕組みもろくにご存じないのだねえ。さらに自分が資本主義の余剰にたかって生かしてもらっている滑稽の一種でしかないという自覚もないのだねえ。たぶんこの「ハッカー宣言」は、何一つ生産せずにご託をたれているだけの学者に「あんたも生産者だ!」と言ってあげて、自分は社会的に無意味な存在じゃないかという口舌の徒にありがちなコンプレックスを慰撫して人気を得ようとしたんじゃないかと思う。そしてそれにまんまとはまった人もいるわけだ。

『ハッカー宣言』の誤解説 by 白田秀彰

ハッカーは、こうしたベクトルの統制を嫌い、統制から逃れようとする。ハッカーの利益は、統制から逃れた自由な抽象化による価値の抽出に依存しているから、統制を利益の抽出原理としているベクトルとは、根源的には対立せざるえない。こうして、ハッカーは、ベクトルから反社会的存在、犯罪的存在と名指しされることになるだろう。これは、ベクトルによって定義された「現在ここにある世界」の価値観から見た場合の呼び名だ


ハッカー/ベクトルの二項対立は、恣意的な「名づけ(の暴力)」に他ならない。脱構築すべき……かな。