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事実が小説より奇であるために、小説をこのように読んだ 〜 イアン・マキューアンの『蝶々』と高橋たか子の『人形愛』


高橋たか子の『人形愛』を2回読んだ。1度目で、どのような小説であるのかをおおよそ理解した。一言で言えば、それは夫の自殺により絶望した中年女性の異様な心理状態を幻想的に描いたものであった、と1行で済ませることができるだろう。ただ、これだと、「ネオリベラリズムと親和性がある」(by 「アメリカの新興学問」)というキャッチフレーズと同じくらい内容空疎で無責任な棒読み感が否めない。
だからもう少しその内容を思い出してみると、そこで示唆されているある主題が気にかかる。イアン・マキューアンの『蝶々』を思い出した。マキューアンの短編小説を読み返し、再び、高橋たか子の長めの短編小説をマキューアンの小説の主題に沿うようにして読んだ。以下、2つの小説が同じような主題を扱っているものと想定して読んだときの、2つの小説に関するメモである。


イアン・マキューアン『蝶々』
一人称小説で「わたし」が語り手である。「わたし」は水曜日、木曜日、日曜日の3日間の出来事を語る。現在は日曜日である。現在の日曜日から木曜日、水曜日の出来事を回想する構成になっている。
木曜日に「わたし」は川で溺れた9歳の少女の死体見分を警察で行った。そして日曜日の今日、少女の遺族に会うことになっている。なぜなら「わたし」が川で溺れている少女を見つけ、警察に報告した第一発見者だったからだ。「わたし」は厄介ごとに巻き込まれたと思っている。誰もが「わたし」のことをうさんくさく思っている、と思っている。誰もが「わたし」を疑ってかかっている、と思っている。だから「わたし」が泳げなかったために少女を救うことができなかったことに対し世間は冷たい目で「わたし」を見ている、と「わたし」は思う、ことにしている。
「わたし」は厄介ごとに巻き込まれた日のことを思い出す。それは水曜日のことだった。少女のことはずっと前から知っていた。どういう子であるのかも知っていた──木曜日に警察官が微かに仄めかしたように。
その日……その9歳の少女が「わたし」に近づいてきた。おそらく「わたし」は危険なものを感じたのだろう。少女が危険を感じるのではない。「わたし」が少女に対して危険なものを感じるのである。なぜならば少女の存在が「わたし」を支配するからであろう。しかし「わたし」は少女から離れることもしないし、少女に近づくなと命じるわけではない。そういう少女であることを「わたし」は知っていたからだ。そういう少女であるから「わたし」は人形を買い与え、アイスクリームを食べさせてやった。アイスクリームで汚れた少女の口を「わたし」は自分の指で丁寧に拭ってあげる。それが合図のようなものだった。それがサインだった。もう駆け引きめいたものは必要ない。もう少女に対し危険を感じていない。その少女はやはり「わたし」が知っていた通りの少女なのである。「わたし」は少女に友だちになってもらいたかった。あの日、「わたし」は少女に友だちになってくれるよう説得しなければならなかったのだ。だから「わたし」は蝶々を見せてあげると川原のほうへ少女を誘う。信頼関係を構築した以上、少女はそれに従う。信頼関係を了承する「何かのサイン」を少女が示した以上、それに従ってもらわなければならない。蝶々を探しに、二人は川部を奥へ奥へと進む。そして、そういう少女であっても、ようやくそこに蝶々なんていないことを知る。
木曜日に「わたし」は少女の死体と初めて対面した。
日曜日の今日、サッカーをしている少年たちを見て「わたし」はその仲間になりたがっている自分を見据える。あの少年たちと友だちになりたかった。彼らと友だちになっていたら、こういうことも、ああいうこともできただろう。友だちになりさえすれば。友だちになりさえすれば。しかしそんな機会はめったにないことも「わたし」は理解していた。そういう〈機会〉はめったにない──それは、手を伸ばすと、もう消えている、まるで蝶々のようなものだからだ。



高橋たか子『人形愛』
とても文学的な作品だと思う。文学的というのは、通常ならば原理的に理解の及ばないこと、すなわち理解する術をもたない他人の心理を明晰に秩序立てて納得がいくように説明しているからだ──それは証明のような作業なのかもしれない。理解の及ばない、理解する術をもたない、あるいは理解したくないから「そのように」理解しているあることについて描いているため、ここでは特別な技巧を施して「そのように」描いている。夢だった、「狂人」の妄想だった、嘘偽りだった、ということである。夢ならばそういうことが理解できるかもしれない。「狂人」の妄想ということならばそういうことが理解できるかもしれない。嘘偽りならばそういうことが何だって理解できるかもしれない。読者にそういう条件を指し示しつつ、そこに、その条件のもとに、その条件のもとでしか描くことができないと作者が判断したであろう「あのような」心理の動きを秩序立てて明晰に描き出す。「そのレベル」において、であると読者に対して半ば強制的に了解させているので、「そのレベル」の枠内で大胆に踏み込んだ描写でまるで「それ」を間近で見て来たかのような臨場感をもって読者に現場の状況を説明する。しかし、最終的に、「そのように」描いているので「そのように」──つまり、夫の自殺により絶望した中年女性の異様な心理状態を幻想的に描いたように──読めることになる。

もう一歩踏み込もう。『人形愛』をそのタイトルに沿って一言で言えば、それは中年女性による蝋人形の少年への偏執的な愛情を描いている、になるだろう。ただ、気になるのは、著者自身は、この『人形愛』という作品を幻想作品(シュールレアリスム)と言っていることだ。ファンタジーの幻想ではなくシュールレアリスムの幻想であること。シュルレアリスムといえば……思い浮かべるのはルネ・マグリットの『これはパイプではない』である。だからそれに倣えば『これは人形愛ではない』とも言える、かもしれない。そうとも言えるような技巧を叙述に施している。おそらく、そういう作為なしでは一人称で「この内容」を語りえないと作者が判断したのかもしれない。なぜそう思うのかと言えば、タイトルのように「人形愛」を描いているのだとしたら、このような作為めいた構成にする必要はないと思うからだ。このような作為がある以上、タイトルの『人形愛』でさえ、その作為を構成する一つの要素に思えてくるからだ。小説にかぎらず、ある説明に微かな作為を感じたら、そこに不穏なある何かを覆い隠しているのではないか、と警戒すべきであろう。そうすることによって、あるとき、そのパターンがふと見えてくる。

だからまず著者が作中で施した作為を解明したいと思う。下記のそれは単なる一例であって、やるべきことは、とにかく複雑なものを(複雑に見えるものを)、単純な平易なものに分解するだけである。何が事実で、何がその事実の解釈であるかを区別するだけである。それが導くものと、これが導くものを区別するだけである。それとこれがどのように合流しているのかを確認するだけである。そして……無意味な部分、例えば「ニッチな」専門用語の羅列、あのアメリカ人はこういっている、このアメリカ人はああいっているということだけを論拠にした断定、独りよがりのイメージを多用し自分だけがそれをわかっている風に見せかけるもの、Xを主張したいためにAという一連の流れを紹介しておいてそこにBというものをそれに近似させるべく誘導すること、どっかから拾ってきた占星術の図表みたいなものをこの社会の構造を表したものだとありがたく拝み予言者のように振る舞うこと、前提に「それ」を含んでいるからこそ「それ」が導かれるのに、それをまるで帰納的に導かれたかのように見せるお約束の強引な導出、お約束の知ったかぶり、お約束の学問領域自慢(なぜその学問領域があるということから「それ」を崇敬すべきだという話になるのか? ある国に国王が存在していればその国の国民はすべて国王を崇敬しろみたいな話なんだろうか?)……などを無視することである。


例えば……『人形愛』では玉男という名の少年が3つの異なったレベルで登場する。玉男という少年が登場する3つの場面は(次元というかレベルというか、その存在する位置というべきか)それぞれ異なっている、ように描いている。ただし視点人物である語り手はすべて中年女性の「私」である。

整理しておく。

  • 最初に登場する「私」を"ω0"とする。
  • 次にこの"ω0"が見る夢の中に登場する「私」を"ω1"とする。
  • "ω0"を「亡霊」と見なす「私」を"ω2"とする。

するとそれぞれの「私」に対応するそれぞれの玉男も──玉男"ω0"、玉男"ω1"、玉男"ω2"とすることができる。

  • 玉男"ω0"は受験のためにホテルに一人で滞在している少年である。
  • 玉男"ω1"は蝋人形の少年である。
  • 玉男"ω2"は「私」の息子である。

ここで「私」"ω1"を「私」"ω0"と区別したのは、玉男と対応づけるためである。文中では「私」"ω0"と「私」"ω1"は同一人物として描かれている。こうすることによって組み合わせ(カップリング)が明確になる。(「私」"ω0", 玉男"ω0")、(「私」"ω1", 玉男"ω1")、(「私」"ω2", 玉男"ω2")である。

もし、この『人形愛』という小説がファンタジーではなくてシュルレアリスムであるならば……。この『人形愛』はシュルレアリスムである以上、曖昧なことは何一つ書かれていない、と考えるべきだろう。著者は最初から、この小説がどのようにプログラムされているのかをきちんと書いている、と読めるはずだし、そう読まなければならない。
では、この小説はどのようにプログラムされているのか。それは最初の方で、占い師に説明させている「死の円」と「生の円」というイメージが補助線のようなものになるだろう。簡単に意訳して言えば、それは負の向きに回転する円(「死の円」)と、正の向きに回転する円(「生の円」)についての説明である。円についての説明がある以上、読者は様々な円をイメージし、円のイメージを小説の様々な部分に当てはめ、さらには円のイメージを小説の全体に当てはめることを試みるべきである。円というものの本質は何か。その円の本質から導かれる性質を小説の構造と同一視すること──すでに京極夏彦の小説を読んでいれば、バラバラ殺人の説明があったら、バラバラ殺人のイメージをその小説全体に当てはめ、その解を得、蜘蛛の巣の説明があったら、蜘蛛の巣のイメージを小説に当てはめ、その解を得るという既出の解法を思いだし、この問題にも積極的に適用しよう。ここでは生と死は単なる正負であって円のイメージこそが重要だと思う、ことにする。この円の性質に注目することで、「私」も玉男もその回転する円の円周上にいる、という幻想的=シュルレアリスム的イマージュを獲得しよう。その円の軌道上のどの位置にいるかによって、"ω0"と"ω1"と"ω2"というそれぞれの現れ方をする。「私」の意識が変化することによって、玉男もそれに連動して一定の同じ量の変化を遂げ、円周上を移動する。(「私」"ω0", 玉男"ω0")、(「私」"ω1", 玉男"ω1")、(「私」"ω2", 玉男"ω2")は、「死の円」あるいは「生の円」をきれいに三分割したときの円周上のイマジナリーな3点であると見なす。それにより、その3点を頂点とする円に内接する正三角形が浮かび上がってくる。そうすることによって物語は、ω0→ω1→ω2、あるいはその反対方向に展開し、これを繰り返す。実際、この小説は、最初のプロローグを除けば、ある場面が最後の場面に繋がり、もう一度同じストーリーが始まるような構造になっていることは(そしてそれが周期である)、容易に確認できるだろう……。

結局、長々と書いてきて何が言いたいのかといえば、「私」も玉男もすべてそれぞれ一人の同一人物で、それを別人のように描いているのが、この小説の作為であるということだ。そう見なす。そう見なさないとわけがわからなくなる、だからそう見なす。そう見なして以下を続ける。


『人形愛』という小説の構造上の問題を上述のようにスッキリと解決させたので(解決したと想定して)、やっと本題に入ることができる。描かれている内容のレベルに踏み込むことができる。一言で言えば、それは少年に性的虐待を加えている中年女性の心理の動きを描いたものである、と1行で要約できる。イアン・マキューアンの『蝶々』と接点をもつのは叙述の作為を剥ぎ取ったこのレベルにおいてである。

原因のわからない夫の自殺によって「私」は彷徨うようにT市にやってくる。ある女に(後でこの女は「私」"ω2"だとわかる)Tホテルを奨められ、そこに滞在する。最初の夜、少年の等身大の蝋人形がホテルの部屋に立っている夢を「私」は見る。「私」はいつのまにかその蝋人形の少年を玉男と名付けていた──ずっと以前から「私」は玉男と一緒に生きてきた思いにとらわれる。ずっと以前から玉男と一緒に生きてきた、ということは、ずっと以前から「こういうこと」をやってきたと読める。つまり、これがホテル滞在の初日の出来事だとすれば、ホテル滞在以前に「こういうこと」を「私」はやってきた、と読める。「こういうこと」とは何か。読み取るべきは「私」が「こういうこと」をどういう風に描いているか、である。例えば、「なぜか衣服がすべり」と「私」は、玉男との行為をまことしやかに叙述するが、「私」が玉男の服を脱がし、性的虐待を行ったことは明らかである──なぜならば、もし玉男が本当に人形ならば、自然と衣服がすべり落ちることはないからだ。こういう不自然な「私」の叙述は、読者がその不自然さに気づくために、作者がわざと仕組んだものだろう。「私」は事実と事実認識を使い分けながら、自分自身の心理の動きを説明しているのである。

次の日の遅い時間に「私」は同じホテルの「同じ階」に滞在している少年に出合う。少年は受験のためにホテルに滞在していた。「私」はその少年に「玉男さんですね」と声をかける。否定されなかったので、その少年は玉男と名付けられた、と私は叙述する。この命名の儀式はいったい何なのか? 1つの解答は明快である。それはこの少年が本当に「玉男」という名前だからである。つまり、この少年は「私」の息子の玉男なのである。18年前に「私」が実際にそのような命名の儀式を行ったのである。しかしこのエピソードから読むべきものは、それだけじゃない。現在、新たな命名によって、ここに玉男が二人いるように「私」が叙述する意味は何なのか? ということである。これはこう考えれば説明が上手くいく。「私」自身が別なところで述べているように、これは「理性の最後の間切り」で同じ玉男を昼の玉男と夜の玉男に分けただけある。夜の玉男は蝋人形である、と。こういう事実と事実認識を使い分けることの意味は何か? それはおそらく、理性的に考えれば自分のしていることは間違っている、だから、それを否定する形で「夜の玉男」(蝋人形)を創造するのである。それは夢の中の出来事だと見なすのである。夢の中の「私」は、自分のしている性的虐待を明晰に秩序立てて、自分に納得がいくように説明する。夢の中で出来事であるからこそ(夢の中の出来事であると読者に断っているから)、「精魂をこめた愛撫」によって玉男に命の温みを与え、それは人形でありながら人形のようではなくなる、と事実と事実認識を自然に混ぜ合わせることができる。
だから読者が注意して読み取るべきは、「私」の事実認識──それは幻想風に、つまりシュルレアリスムのように叙述されている──の依拠している事実と、それをどのように覆い隠して、どのように別の何事へ変換させているか、である。すでに「私」がしていることは少年への性的虐待であると充分に判断できる証拠はそろっている。だとしたら、分析すべきは、「私」は、それをどのようにしてそうに思わせないよう叙述しているか、である。事実と一見異なるように語られる事実認識は決して虚偽ではない。それは事実をそのように捉えうることが可能だということだ。そう事実を捉えることが可能だ、ということから、それによって何をどのように導くことも可能にしているのか。読者である私たちは、すでに犯人のわかっている推理小説を再読しているのであり、しかもその推理小説の犯人は語り手だった──その犯人=語り手の手法を学んだ私たち読者は、今度は探偵として、その犯人の手口を分析し、その犯人を追いつめるのである。今は、小説を相手にこのような訓練をしておくのである。事実と事実認識を巧妙に混ぜ合わせ、それでもって他人の自由意志を奪おうとする者たちの手口を知るために。

性愛によって命の秘密が顕現される、と「私」は語る。そのとき「私」は徹底的に主体なのだ、と。このことを逆から考えれば、被害者は徹底的に客体になり、性的虐待によって生殺与奪を握られ、人間でありながら人間でないものへ、すなわち人形に成り果てる。人形は被害者としての地位を意味しているのである。被害者は人形のように扱われるのである。この意味で「私」の事実認識は、ある真理を語っている。
「私」は人形である(人形のように扱われる)玉男の唇に口紅を塗る。「私」は玉男からくっくっと痙攣的な息が返されてくるのを感じる。「私」の唇よりもなめらかでしなやかである、と、もし、それが本当の人形だったらありえない描写をする。そして裸身に唇だけが赤く化粧されて「男をあらわす器官に命があつまっているといった姿の」玉男を嘆賞する。ここでの唇への執着は、マキューアンの『蝶々』で「わたし」がアイスクリームで濡れた少女の唇を拭うのときに感じた〈機会〉を得た、という充足感を思わせる。この被害者を客体化する「私」の理路は、シュルレアリスム的な幻想に彩られながらも、明晰で秩序だった叙述をし、それを完璧なものにする。「私」は玉男を植物に代置させるのだ。
植物は官能的なのである。なぜなら徹底的に受身だからである。玉男は植物的官能を持っている。官能的な植物とは何か。それは曼珠沙華である。玉男は行動しない。受身そのもので、「私」の愛撫を受けている。曼珠沙華が玉男から生えているのである。うつくしい全裸の玉男の股間から、蕾と茎だけの曼珠沙華が生えでている絵を描きたいと願う──そのとき、そこにいるのが「夜の玉男」ではなく「昼の玉男」であることを「私」は確信する。
ここに至り「私」の剥き出しの支配欲が露わになる。「私」の事実認識から、読者はその事実を導き出さなければならない。おそらく実際に「私」は実家でこのような状況の最中で、この戦慄すべき状況に酔い痴れながら、このような状況がずっと続くよう願いながらまるで絵を描くように自分の行為を隅々まで記録していたのだろう──実際に写真を撮ったのかもしれない。そして、おそらく妻と息子のこのような関係を知った「私」の夫は、このことが原因で自殺したのだろう。


最初の恋、最後の儀式 (Hayakawa novels)

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