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それで、天使はどこに? 〜 出口裕弘『天使扼殺者』


ジョリス=カルル・ユイスマンスやエミール・シオランジョルジュ・バタイユの翻訳でも知られているフランス文学者の出口裕弘が小説を書いていたことを最近知った。その一つが『天使扼殺者』だという。天使扼殺者──その強烈なタイトルに心を鷲掴みされた。どういう内容なんだろう? ミルトンの『失楽園』みたいな堕天使が出てくるのだろうか? あるいはダンテの『神曲』のような地獄めぐり……。
ネットで検索しても『天使扼殺者』の感想らしい感想はなかった。あまり読まれていないようだ。そういう読者を選ぶような、そういう秘儀的な感じも、ますます、気になる。もしかしたら天使というのは象徴的なものでドストエフスキーの『悪霊』みたいな小説なのかもしれない。多くの人が死に、殺される。屍の山が築かれ、それを怜悧な目で見つめるスタヴローギンのごとき天使。なんといってもユイスマンスシオランバタイユの翻訳者なのだから。そしてタイトルが『天使扼殺者』なのだから。
で、『天使扼殺者』を手に入れた。長さは約220ページ。長編にしてはそれほど長くはない。興奮しながらページをめくる。この小説はミルトン、ダンテ、ユイスマンスシオランバタイユドストエフスキーらの作品とどのように同じでどのように違うのか? そんなことを考えながら一気に読んだ。

読んだ後、思った。やっぱりこの本についてネットに情報があったほうがいい、と。『天使扼殺者』というタイトルがあまりに魅力的すぎるから。以下『天使扼殺者』の簡単な概要と感想をサクッと記しておきたい。


舞台は60年代のパリのようだが意図的にその言及はない。地名もフランス語も出てこない。ただ外国の街というだけ。しかし「学生街」から「河岸」に歩き橋を渡ると「島」があり、そこには「大寺院」があって、さらに橋を渡るともう一つの「島」があり、そこは瀟洒な建物が並んでいる……とくればどこの都市だかすぐにわかるだろう。
語り手の「私」は日本人の中年の男性で、主に少年向け小説を書いている作家である。「私」は文壇のボスと対立し干される。それで東京からこの外国の街へ逃げるようにやってきた。「私」は場末のエレヴェーターがないアパートの最上階の屋根裏部屋を借りる。偶然にも、隣室に住んでいたのは20歳ぐらいの日本人青年で、名前は天馬だという──ペガサスの「天馬」です、と天馬青年は紹介する。学生なのか、どういうわけでこの街に滞在しているのかはまったくわからない。

(そうか、この天馬が天使なのかもしれない。字面からも容易に「そうだ!」と推定できる。こんな変わった意味深な名前をつけるのは何か意味があるに違いない。なにしろアパートの最上階に住んでいる天馬=ペガサス。あまりにも出来過ぎた偶然。この天馬青年が天使に違いない。だた、作者は天馬をさほど魅力的に描いていないのが気になる──つまり絶世の美青年という風ではないのだ。天馬は片足が不自由らしく、足を引きずっている。そこには天馬青年の過去の秘密でもあるのだろうか?)

「私」は天馬青年を見て、学生時代の友人、高杉を思い出す。高杉は戦後成金の裕福な家の出であるが、父親に反抗するためにあらゆる退廃に浸っていた。「私」に春画を見せ、女をあてがったのも高杉だった。ただ高杉は政治的には右翼思想の持ち主で、「私」をはじめ左翼学生とも議論を闘わせていた。そんな高杉であったが、ある日、「私」の目の前で飛び降り自殺をする。それもあって以来「私」は高杉に対して特別な感情を抱いている。特別な感情を抱いていることを隠さない。天馬を見て高杉を思い出す。高杉を思い出すと天馬が気になる。外国の街で学生時代の男友だちのことばかり思い出す「私」……。小説は、現在のパリらしき街での出来事と過去の「私」と高杉の思い出が交互に描かれる。

(わかった。高杉が天使かもしれない。いや、高杉も、と言ったほうがいいかもしれない。なにしろ「私」の目の前で飛び降り自殺をした高杉……その場面は意図的なんだろうがどこか曖昧でどこかもどかしく描かれている。本当に自殺だったのか、もしかして「私」が殺したのかも……と読者に思わせたいのではないか、と思わせる。それにしても金持ちの出で退廃好みで、それでいて右翼思想の持ち主で自殺……なんか三島由紀夫を思わせる。ちらっとウキペディアを見たが、出口裕弘ユイスマンスを訳したのは三島に薦められたからとあった。この小説は雑誌掲載の後、1975年に単行本で刊行された。三島の自殺は1970年。)

天馬の紹介、という天馬の策略で「私」はある日本人女性と知り合う。「私」はその日本人女性をどういうわけかシャオと呼ぶ。天馬は「私」のことをどういうわけかボースンと呼ぶ。どういうわけか、みんなそれを了解する。
「私」が思うには、天馬とシャオは何かいかがわし仕事をしているらしい。おそらく春画だろう推測する。(ここでやっとこの小説では「春画」はポルノを意味することがわかった。「私」と高杉も「春画」を介してより交友を深めたような記述があった。そんなこと馬鹿正直に書く必要もないのに、と思ったが、「春画」→「酒」→「女」を経て、「私」は高杉に反撃するすべを知ったと「私」は述懐している。「私」の行動原理のパターンとしてそれを記憶しておこう。)
「私」が気になるのはシャオと天馬の関係だ。天馬とシャオの家で夜を明かしたとき、天馬が全裸の上に革のスーツを着たシャオのボタンを一つ一つ外しているいるのを「私」は目撃、したように思う。本当にあったことなのか夢なのか、それはわからない。ただ、そのイメージに「私」はとらわれる。

(なるほど、シャオが(も)天使かもしれない。彼女が天使だとすれば、これで天使候補者は3人。天馬、高杉、シャオ。天使候補者が複数いれば、真の天使と贋の天使、という構図も考えられる。ところでシャオが素裸に革のスーツを着るイメージ、よほど作者が気に入っているようで、「私」は繰り返しそれを回想するのだが、どこかでそれと似たようなイメージを見たことがあるような──それってアラン・ドロンとマリアンヌ・フェイスフルの映画『あの胸にもういちど』じゃないか。あの映画には「春画」としての要素もあったはずだ。)

天馬の策略はシャオの策略でもあった。シャオは「私」に恋人役を務めてほしい、そしてこの家に一緒に住んでほしい、と乞う。なぜなら夫である本城四郎が息子の正身とともにこの外国の地へやってくるから、自分を連れ戻しにくるから。本城四郎がこの家へ踏み込んできたとき、この家に「私」がいてほしい、と。
「私」はシャオの強引な要求に驚いただけではなかった。「私」が真に驚いたのは、シャオが本城四郎の妻、本城明子であったことだ。「私」は同世代の作家、本城四郎の作品をなめるように読んでおり、「本城の精密な読者」として本城のことはよく知っていた。本城のことは作品を通してよく理解していた。「私」は本城という人気作家の仕事を20年間も追跡してきた。本城自身も知らぬことでも「私」は知っていた。

(え、もしかして本城四郎が天使? 「私」によると本城は文武に優れ、しかも美貌の持ち主だという。たしかに「私」の本城に対するストーカーめいた言動は単なる「読者」を超えている。「精密な読者」である「私」は、「精密な読者」であるという武器によって本城の仕事を崩壊させようと画策する。「私」もいちおう作家であるから、ここはメタフィクションみたいな感じと読めないこともない。本城四郎が天使で「私」が贋天使だろうか? それともその逆か。)

本城四郎が息子の正身とともに日本からこの(パリらしき)街にやってくる。4人、そして天馬を合わせて5人は、とりたてて大騒ぎすることなく、話し合ったり会食を取ったりする。ただ、正身少年は異質の存在で、「私」のことを避けるような受け答え、「私」のことを避けるような身のこなし、「私」のことを避けるような表情を「私」は見逃さなかった。

(5人目の天使候補者はこの正身だ。容貌からすると天使にはうってつけだ。もし、正身少年が天使だとすれば、その扼殺者は誰なのか? 小説も半ばを過ぎ、こうなってくると、もう、この小説はファンタジーではない。天使や堕天使、悪魔そのものが出てくる余地はもうない。神学的主題も、この流れでは、出てこないだろう。このパリらしき街の日本人5人組は、米ドラマ『フレンズ』みたいに仲間内で愚だ愚だやっている、だけのように思える。おそらくそういう小説でもあるのだろう。本城四郎がきてからは高杉の影が薄くなるのは必然か。)

本城四郎と「私」との鍔迫り合いが数ページに渡って描かれる。「私」がシャオと肉体関係を結んでからは、「私」はより大胆に振る舞う。だが、紳士協定のごとく一線を引き、大きな問題が起こることはない。「私」には余裕がある──なぜならば、「私」は本城四郎の「精密な読者」だからだ。本城のことはよく理解している。その行動原理のパターンも把握している。こうすれば、そうするだろう。そうすれば、こうするだろう。これは「私」のゲームなのだ。

(外国人がこの様子をみたら日本人同士が腹の探り合いをしながら商談でもしているように思うだろう。)

事態は特に進展することなく、本城四郎と正身は一時帰国する。結局、妻を日本に連れ戻すことができなかったのでこれは本城の敗北とも取れる。しかし「私」はなぜか浮かない。本城が帰国してからは心にぽっかり穴が開いたよう気がする。だからシャオを連れベニスらしき街へ旅立つ。ベニスらしき街で「私」が嬉々とすることは──本城へ手紙を書くことだった。何通も。合計30通近い長文の手紙を本城に送りつける。そしてこの「私」から本城宛ての手紙の中で、やっと天使が登場する。ベニスらしき街の観光を綴った手紙の中で唐突に。

この贋天使、もう何百体も柔媚な本物の天使たちを縊り殺しながら、彼自身は世にも優しく甘く寂しげな面持ちをしている。どうして僕はこんな変な奴を見てしまったんだろうね。見た以上、もう二度と脳裏から消すことはできやしない。この誰にも見えない扼殺者と僕はきっと生涯にわたってつきあうことになるんだろうね。天使たちを断首し、天界にパニックを捲き起こすがいい。流血は歴史に書きとどめられ、末の世まで語りつがれるはずだ。縊るとはまたなんという陰気な殺伐だろう。なんといういかがわしい殺しであることだろう。ぜめて血を流すがいい。邪悪な剣が肉を断つ音を響かせるがいい。


出口裕弘『天使扼殺者』(中央公論社)p.201-202

(どうしてこんな変な奴を見てしまったんだろうね、と言われても……本城さんは返事のしようがないんじゃないかな。天使は「顔も躰もはっきりと若く凛々しい男子であるべきだ」と言われても……同じく。もし、それが「私」と自分の関係を示唆しているのだとしても、おそらく本城さんは妻を寝取ったぐらいの男にそこまでの過剰なイメージを実際には抱かないと思う。本城四郎のような売れっ子作家なら、誰かがそう思っていることを、まるで自分の懊悩であるかのようにいくらでも書けるだろし……もしかして、本城は「そのようなこと」をどこかに書いていたのかもしれない。もしかして「私」は本城四郎がある小説で描いた「その懊悩」を、本城自身の懊悩として理解しており、このように書けば、そのように思うだろうと、「精密な読者」としての武器をここぞとばかりに発揮しているつもりなのかもしれない。本城四郎はある小説の中で「このようなこと」を書いていた、「私」の手紙は、それに対する、それに当てつけた返答である。だから出口裕弘の『天使扼殺者』しか読んでいない僕のような読者にはわからないことが──わからなくてもいいことが──書いてある。そうでなければ、この唐突に描かれる天使と贋天使の話の挿入の意味が、本当にわからない。)

本城四郎は再びこのパリらしき街へやってくる。今回は息子の正身を連れていない。「私」、シャオ、本城、天馬の4人は会食をし、それが済むと、みんなバラバラに帰る。

(え、これで終わり? 天馬って結局何している人だったの? 高杉の自殺の件はどうなった? シャオが精神を病んでいてそれを思わす偏執的な絵ばかり描いているという説明もあったが、それは? 「私」とシャオの行為を正身が見ているという夢に意味はないの? そもそも本城って何しに来たの? もしかしてこれがヌーヴォー・ロマンってやつ?)