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「殺人幇助」か「善きサマリア人」の二つに一つを他人に選ばせること 〜 グレッグ・ルッカの『守護者』を読んで(2)



(1)からの続き

【自由意志を奪われないために 〜 「殺人幇助」か「善きサマリア人」の二つに一つを選択させる者への抵抗】

「あながたがの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることはできず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側と通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐みに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」 そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」


ルカによる福音書 10.23-37 新共同訳聖書


自由意志を奪われないために──ドクター・ロメオは命が狙われていることを知っていながら共通基盤会議に出席する。グレッグ・ルッカは『守護者』において、ロメオ医師の共通基盤会議での演説を小説のクライマックスにもってくる。主要登場人物のほとんどが──中絶反対派のクロウエルらも含め──会議に参加する。不特定多数の人間が集まる場は、それだけ暗殺の危険が増す。そこでルッカは、ドクター・ロメオの命を守るために、もう一人の守護者を追加する。元イスラエルの総合安全保障機関シン・ベトに所属していたヨッシ・セッラである。ドクター・ロメオのクリニックでの騒乱がイラクの攻撃によるテルアビブの様相をアティカスに思い出させたならば、ここで、かつてイスラエル保安庁で働いていた人物がアティカスらに加勢するのは自然な流れであろう。
そしてグレッグ・ルッカは、中絶反対派の中において、クロウエルら〈声なき者の剣〉のメンバーと他のプロ・ライフ派の人々を明確に区別していく。ロメオ医師の娘ケイティが殺されたこと対して「クリスチャン・マザーズ・フォア・ライフ」は医師に対し心の籠った哀悼の意を捧げる。「共通基盤」の文字が刺繍された手編みのスカーフもドクター・ロメオに送られた──「寒いときはこれで温もってください」というメッセージとともに。
さらに、ヴェロニカ・セルビーは、神の名において、その絶対の権威に訴えて「そのようなこと」を行使するクロウエルを次のように強い口調で非難する。

「『”余、かの人(イエス)を知る”と言ひて、かの人の誡めを守らぬ者は、偽者にて、まことその裡になし』」セルビーはいった。「ジョナサン・クロウエルは、われらが主の御名において行動し、主の命ずることをおこなっている、と主張しています。ジョナサンは、主の絶対の権威に訴えていますが、自分はその権威に身をゆだねることを拒んでいます。そして、それは罪なのです、コディアックさん。それは恐ろしい、許し難いほどの罪なのです」


『守護者』p.306

セルビーが引用したのは『ヨハネの第一の手紙』からのものであるが、同書簡にはそれに続いて以下のことが記されている。

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやってくると聞いていましたが、今や既に世に来ています。子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしには耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。


ヨハネの手紙 一』4:1-6

『守護者』の中でヴェロニカ・セルビーは明示していないが、ここにおいて『ヨハネの第一の手紙』に言及があるということは、クロウエル(ら)を反キリストである偽預言者と見做している──そのことに気がつき始めている──と解釈できる。「著者が気にかけているのは自分が携わっている共同体に影響を及ぼす異端的な思想を持つ教師たちのことである。このような人々、かつて共同体のメンバーだったにもかかわらず正当な教えから逸脱した教師たちは「反キリスト」(2:18-19)とみなされている。これらの人々が教えていたのはキリストは体の実体を持たない霊のみの存在(4:2)であったということで、彼らはイエスの十字架上の死に贖罪の意義を付与するのは間違いである(1:7)と考えていた。」*1

クロウエルらの仕掛ける洗脳的な議論は偽預言者のものなのである。驕り高ぶった教師が仕掛ける洗脳的な議論なのである。「何か」と同一視させ、それとの対応で「赤ん坊」を殺すのか、「赤ん坊」を殺さないのかという二項対立へ持ち込む論法、「何か」と同一視させ、それとの対応で「ホロコースト」を認めるのか、「ホロコースト」を認めないのかという二項対立へ持ち込む論法、それは、そういったことを何度も何度も何度も行うことによって、共同体のメンバーに自らの権威を認識させ、知らしめ、広め、教え諭すこと自体を可能にする──他人に対して「その名」を付与することのできる何か特別の権能を有しているかのように振る舞う──詐術なのである。「子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る。」*2


すでにアメリカの事例を学習した私には、今や多くの偽預言者が現れてきている理由を理解している。なぜなら、偽預言者になるのはすこぶる簡単だからである。私と同様、アメリカの事例を知っていると「知ったかぶり」をすればいいだけなのだから。「「神を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。わたしは、あなたがたを惑わす者たちについて、これらのことを書きおくった。」*3


アメリカではそうなのだから、恣意的に選んだアメリカの事例から「何か」を読み取り、それに則り、それを基準にし、それに従うのは当然なのだから、と、あなたがたを惑わす者が現れてくる。「その名」において「その名」の下に、すべてにおいて「善きサマリア人」であるか「殺人幇助者」であるか二つに一つを選択するよう他人に強要する──まるで自分たちは他人に「自己犠牲」を強いる権能を持ち合わせているかのように。一度でも、ある問題について「線を引くこと」を否定したことがあるならば、この問題に対して「線を引くこと」は齟齬があるとされ、結局どの問題についても従わなければならなくなる状況に追い込まれる──「あなたはホロコーストを否定する歴史修正主義に反対していましたよね、だったら中絶にも反対しなければなりません、そうでなければ、あなたは人道主義を使い分けているのです」と。
果たしてその通りなのだろうか。かつて私がその人道主義を意味していたという記憶でもって「この」人道主義に従うというべしという規範はどうやって導かれるのか。そこには常に解釈が生じる──「この」人道主義は、何に基づいた人道主義なのか。ホロコーストを否定する歴史修正主義への非難は、中絶を擁護することと同じことになるのだろうか? 
問題は齟齬があることなのか。
(聖書の最初の書である『創世記』、すなわちキリスト教の「起点」となる天地創造でさえ普通に読めば第1章と第2章には齟齬があり、それぞれ別の人間の創造がなされたように記されている。解釈なしには齟齬は解消されない。しかもその解釈は万全ではないし、そうであったとしても科学との齟齬は明らかである。その齟齬をめぐる激しい論争がずっと続いており、そのことに関するアメリカの事例を、私は『神は死んだのか』という映画によって学習した。)
単に齟齬があることが問題ならば、中絶に賛成するために、ホロコーストを否認すればいいのだろうか? クロウエルが得意げに言い放ったようにオール・オア・ナッシングなのか? 「そのような問いは、それ自体ア・プリオリに与えられるような答を想定しているか、あるいはア・プリオリな前提から発せられている。いずれの場合にも、この問いはわれわれの自由と責任の両方を拘束する」。*4
このような理不尽さはどのように考えれば理解できるのだろうか。

次のように想像してみてほしい。朝、あなたが目を覚ますと、意識不明のヴァイオリニストと背中あわせにつながれた状態で一緒にベッドの上にいた。意識不明の有名なヴァイオリニストだ。彼が命にかかわる腎臓病であると判明したため、「音楽愛好家協会」の人々は入手しうるあらゆる医療記録を調べあげ、血液型が適合し彼の命を救えるのはあなたしかいないことを突き止めた。そこで彼らはあなたを誘拐し、昨夜のうちにヴァイオリニストの血管をあなたの血管につなぐことで、あなたの腎臓を使ってヴァオリニストの体内の老廃物を濾過できるようにした。病院長がやってきてあなたにこう言う。「いやあ、音楽愛好家協会の連中があなたにこんなことをしてしまったのは遺憾です──知っていたら、決して許しはしなかったのですが。だが、とにかく彼らはやってしまったし、今やヴァイオリニストはあなたとつながれております。あなたを外せば、彼は死んでしまうのです。でもご心配はいりません。ほんの9ヶ月のことですから。それまでには彼の病気は治ってあなたから離しても大丈夫な状態になりますから」。
この状態を受け入れることは、あなたの道徳的な義務だろうか? もちろん、受け入れるのであれば、あなたはとてもすばらしい人だし、たいへん親切なことである。だが受け入れねばならないのだろうか? もしそれが9ヶ月ではく、9年間のことだったら? あるいはもっと長期だったら? もし病院長がこう言ったらどうだろう。「まったくひどい話だとは思いますが、もはやあなたはヴァイオリニストとつながれたまま生涯ベッドの上にいなければなりません。なぜって、いいですか。すべてのひとは生命への権利をもっており、また、ヴァイオリニストもひとだからです。たしかにあなたには、自分の身体内で起こることや身体に対して行われることを決定する権利がありますが、ひとの生命への権利はあなたの身体をめぐる権利に優先するものです。だからあなたを彼から外すことは決してできないのです」。
これは常軌を逸した話だと思われるだろうし、そうであるならば、もっともらしく聞こえた先の議論にも、何か大きな間違いが含まれているはずである。


(中略)

生命への権利についてもっと厳しい見方をする人々もいる。その見解によれば、生命への権利には何かを与えられる権利は含まれず、むしろそれは誰にも殺されない権利に等しく、それ以上のものでない。だがここでも前と同様の問題が浮上する。誰もがヴァイオリニストを殺してはならないのであれば、誰もが非常に多くのさまざまな行為を控えなければならないことになる。誰も彼の喉を切り裂いてはならないし、誰も彼を撃ち殺してはならない──そして誰も彼とあなたをつなぐプラグを外してはならないのである。しかし、彼は皆に対して、あなたから彼のプラグを外すことを控えさせる権利をもっているのだろうか? プラグを外すことを控えるということは、彼にあなたの腎臓を使わせ続けるということだ。そうなると、彼は私たちに対して、あなたの腎臓を使い続けることを要求する権利をもっていると論じることも可能になる。つまり、かつて彼は私たちに対して、あなたの腎臓を彼に提供させる権利はもっていなかったのに、今や彼は私たちに対して、あなたの腎臓を使用している状態に介入されたりそれを奪われたりしないという権利をもっていると主張できるかもしれない。
だが、ここで確かなのは、ヴァイオリニストは、あなたが腎臓を自分に使わせ続けることをあなたに強要する権利はもっていないということである。すでに述べたとおり、もしあなたが彼に腎臓を使わせるのであれば、それはあなたの側の親切にすぎず、あなたがしなければならないことではない。

(中略)

この時点で、生命への権利とは殺されない権利ではなく、不正に殺されない権利だという修正意見が提出されるかもしれない。これは循環論法の危険を冒しているが、気にする必要はない。そう考えることで、ヴァイオリニストが生命への権利をもっているという事実と、あなたが彼と自分をつなぐプラグを外し、結果的に彼を殺すことになっても彼に対して不正をはたらいたわけではないという事実を両立させることができる。あなたが彼を不正に殺すのでないなら、彼の生命への権利を侵害したことにはならず、彼に不正をはたらいたことにもならないのは、ちっとも不思議ではない。
しかし、彼にこの修正意見を受け入れるなら、中絶反対の議論の欠陥があからさまになる。つまり、胎児がひとであることや、すべてのひとは生命への権利をもっていることを示すだけでは、まったくもって不十分なのである──胎児を殺すことがその胎児の生命への権利を侵害することになるということ、すなわち中絶は不正に殺すことだということも示されねばならない。実際、そうだろうか?

(中絶)

実際、ある顕著な例外的集団を除いて、世界中のどの国の誰一人をとっても、他のひとのためにそれほどの犠牲を払うことを法的に要求されてはいない。その例外的集団とは自ずと明らかである。私がここで最も関心があるのは中絶に関連した法律の現状の方ではなく、この国のどの州であろうと、男性は誰一人として他のひとに対して最小限良識的なサマリア人になることを法的に強制されてはいないという事実の方である。




ジュディス・ジャーヴィス・トムソン『妊娠中絶の擁護』(塚本久美 訳、勁草書房、江口聡 編・監訳『妊娠中絶の生命倫理 哲学者たちは何を議論したか』所収)p13-31

男性は、中絶の問題に限っては、誰一人として「善きサマリア人」であることを強要されない。それなのになぜ、女性は、胎児に対して、「殺人幇助」か「善きサマリア人」であることの二つに一つを選ばなければならないのか。「その人たち」はなぜ、ヴァイオリニストに対して、「殺人幇助」か「善きサマリア人」であることの二つに一つを選ぶことを強要されなければならないのか──他の人はそれを強要されることないのに、だ。しかも「その人たち」は、多くの人が「善きサマリア人」であることを選んだとしても、一部の人がそうしなかったことにより、「その人たち」全体が、ヴァイオリニストに対して酷薄で冷血で、したがってその人たちは道徳心がないものとされるであろう──そういうプレッシャーを第三者によって強いられている。自分たちの権利を求めることが、どうしてトラウマを残すようなネガティヴなものになってしまうのか、そうさせられてしまうのか。このトムソンの寓話は、そこで選ばれた対象がヴァイオリニストではなくて「ホームレス」だったら、時と場合によっては、「ここ」において、より「理解しやすい」かもしれない。

この(トムソンの)論文は、プロライフ派の「胎児は生命をもつ」という主張を命題として仮定し、そこから「中絶は許されない」という結論が導かれないことを明らかにして、最終的に当初の仮定を棄却するという論法を用いたものである。

(中略)

トムソンはいくつもの独創的な寓話を用いているが、最も有名なものの一つは、自らの知らぬ間に瀕死のヴァイオリニストに身体を繋がれてしまった「あなた」の視点から、その状況の理不尽さを様々に描いた話である。たとえばトムソンは、自分の意図とは別に他人の生命維持装置にされてしまった「あなた」が、ヴァイオリニストのためにそのままの状態でいることを仮に受け入れたとしても、それは「親切」というものであって「義務」ではないと論じる。「一部の人が──おそらく生得的要因で──善きサマリア人になることを強制されること」は差別にあたり、是認できないと、トムソンは考える。
後にバイオエシックスの教科書で必ず言及されるようになったトムソンの論文とそこに散りばめられた寓話の数々は、多種多様な論点から解釈され、議論され、批判されてきた。そのうち、女性差別という観点から最も見逃せないのは、女性しか経験しえない妊娠について、第三者の信念(たとえばプロライフ派の主張する「胎児は受精時から人間である」という信念)のために、多大な犠牲を払うこと(たとえば妊娠継続とその結果としての出産による人生の大幅な変更)を女性のみに法的に義務づけるのは不公正であり、性差別だという論点である。これは、「善きサマリア人論」として知られている。
この論点の重要性は、男性を含む複数の論者から指摘されてきた。トムソンの主張とそれに対する膨大な反論を詳細に検討し、トムソンの論文名を借りた著書『中絶の擁護』にまとめたデヴィッド・ブーニン(David Boonin)も、善きサマリア人論は、「トムソン自身が思っているよりはるかに強力な主張である」と言う(Boonin[2002:134])。つまり、多大な自己犠牲を伴う行為がいくら道徳的に望ましくても、その善行が非常に多大な犠牲を払うことを要求するのであれば、それを一部の人々(女性たち)のみに法的に義務づけるのは不当だとする議論を評価したのである。憲法学者のローレンス・H・トライブ(Laurence H. Tribe)も、ブーニン同様にこの論点を最も重要視した。トライブは、妊娠を終わらせるかどうかを決定する権利を否決された女性は、単に別のパーソンを殺さないように要請されるのではなく、重大かつ親密な犠牲を払ってそのパーソンを救うことを要請されるとして、それは女性に対する「非情な差別だ」と述べている(Tribe [1992:130-1])。



塚本久美『中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ』p.199-200

グレッグ・ルッカは「この線」で、ドクター・ロメロに、共通基盤会議で発言させる──それがアビゲイル・アダムズへの彼の応答である。ロウ対ウェイド事件以降、中絶問題が引き寄せたマスコミの関心の嵐のなかで、女性の権利という核心が見失っている、と。患者にとっても女医は必要である。医者が女性だからこそ、クリニックに相談することのできる女性が多くいる。「わたしが営んでいるクリニックでは、広範な家族計画サービスを提供しています。教育とカウンセリングにはじまり、医療サービスやAIDS検査にいたるまで。たしかに、わたしどものクリニックでは、中絶手術をおこなっています。それと同時に、広範な受胎調整方法や、胎児検針、パップ塗抹標本検査(子宮頸癌検査)、性病検査、受胎計画などを……」

「自己決定権は、けっしてなくなりません」ドクター・ロメロはいった。「何千年も存在してきたのです。中絶はそのごく小さな一部に過ぎません。自己の肉体に対する権利の戦いは、これからもつづきます。これらのサービスのいずれかを違法なものとし、不道徳や退廃の主張によって制限しようというのは、自由意志という生得の権利をただ奪い去ることになるだけです」


『守護者』p.394、398-399


守護者 (講談社文庫)

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アメリカの新興学問」=クィアの横暴と欺瞞とセクシュアルハラスメントと薄汚い包摂のやり方に断固として抵抗するために

*1:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99%E4%B8%80

*2:ヨハネの手紙 一』2:18

*3:ヨハネの手紙 一』2:4、2:26

*4:『中絶論争とアメリカ社会 身体をめぐる戦争』p.47