HODGE'S PARROT

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『死者の祭壇』(The Altar of the Dead, 1895)


ときどき彼(ジョージ・ストランサム)は、友人の誰かが今すぐにでも死んでくれないものかと思っている自分に気づく。そうすれば、こんなふうにして、生きていたときに享受していたよりはるかに魅力的な関係を、彼らにたいして、打ちたてることができるだろうから。


『死者の祭壇』(野中恵子 訳、審美社)p.30 *1

生身の、とりわけ一対一の関係がほとんど不首尾に終わるヘンリー・ジェイムズの作品にあって、幽霊などの非現実なものとの「交感」は、それに対しほとんど艶めかしいまでに描かれることがある。この小説では「死者たち」との親密で秘儀的な関係に(結局、最後には)自身の命までも賭すことになる初老の男ジョージ・ストランサムの視点から組み立てられている。
ストランサムはメアリ・アントリムという女性と婚約をしていた。が、正式に結婚をするまえにメアリは病気で亡くなってしまう。しかしストランサムが「感じている」のは、結婚による愛情を失った悲しみよりも、結婚をせずに(結婚を回避して、回避することによって)「あっちの人」に成ってしまったメアリとの魅力的な関係を「それ以上に」享受できること──「青白い幽霊の支配を受けづつけ、至高の存在からの命令を受け続けている」という意識に満たされていることである。しかも彼の人生にはメアリ・アントリム「だけではない」、数々の人々との「面識」と思い出があった。

彼にはしだいに、自分の死者を数える習慣がついていた。彼らのために何かしなければならないという気持ちは青年のときからあった。死者は、その極端に単純な、強烈な本質の状態で、そこにいた。わざと姿をくらまし、意味ありげに辛抱強く、ただ口が利けなくなっただけとでもいうように、一人一人がくっきりと、そこにいた。知覚はなくても、声は出なくても、彼らの煉獄だけは、依然としてこの地上にあるとでもいうように。彼らはほんのわずかしか求めない。だから、かわいそうに、一層わずかにしか与えられない。そうしてほんとうに死んでしまう。毎日死んでいく、この世界の無情な仕打ちのために。



p.7

そのために、「あっちの人たち」=「死者たち」のことをたえず考慮するための、そのことを「習慣」とし、彼らとの交感を「育む」ための何か特別な宗教のようなものを創設しようとストランサムは思い付く──既存の教会の一隅を借りて、彼の考える「特別な信仰」と「秘密の儀式」を執り行うために*2。星に似たろうそくを灯し、その数を数え、名前をつけ、グループにわける。彼は「彼の礼拝」に割く時間をできるだけ作ろうとする──それを彼は「潜伏」と呼ぶ。「あっちの人たち」=「死者たち」との交流を、作者はストランサムの視点を通じて不思議なリアリズムで描写する──まるで「どこか似たような場所」を知っているかのように。深海の洞窟よりももっと静かな深淵へ「潜伏」し、「交わりの実践」を育むための秘密の空間を。

ろうそくの一本一本が彼には名前を持っていた。ときどき新しいのがともされた。それだけは基本的な合意を見ていたことである。彼ら全部を収容できるだけの余地は、いつなんどきでも、確保させてほしいということは。通りすがりの人やあたりをぶらついている人の眼にうつったのは、ただ、突然、生きかえったように使われだした祭壇が世にもまばゆい光を放って輝き、そこに一人の物静かな年配の男が、あきらかに忘我の境地でしばしば腰をおろし、迷宮か睡魔宮をさまよっている姿である。しかし、この不思議な、発作的な信者にとって、この場所が与えてくれる満足の半分は、自分の人生の歳月をそこに見出せるということにあった。さまざまな絆や愛情、闘争、服従、そしてそんなものがあったとするなら征服、の数々を。そんな冒険にみちた旅行の記録、人間関係の始めと終わりがまるで里程標のように記されている記録がそこに見出せる、ということであった。


p28

しかし一人だけ、ストランサムの「死者たちの祭壇」から拒絶されている人物がいる──アクトン・ヘイグという男である。ストランサムにとって「かつて親しいと思ったただ一人の人物」でありながら、ストランサムとアクトン・ヘイグの間に「何か」があって二人は仲互いをしていた。そもそもジョージ・ストランサムが祭壇を築こうと思ったのは、この物語の時系列に従えば、アクトン・ヘイグの死亡記事を偶然にも新聞で知り、かつてあった二人の関係の思い出が怒涛のように──密林の獣のように──ストランサムを襲った翌日に、彼が偶然にも見知らぬ教会を訪れたからに他ならない。ただし二人の間に実際に「何があったのか」は、まったく、意図的に、説明がない──読者は二人の関係を想像するしかない。
そして(だから?)アクトン・ヘイグを自身の祭壇=親密圏から拒んでいることを「認識している」ストランサムは、その聖なる場所で「喪服を着た女性」と出会う。彼女こそ「同志」だと彼は認識する──彼女も「存じております」と否定はしない。(これだけで、これだけの理由で)二人の交流が始まる。彼は彼女を「祭壇」の管理人に指定する。もし自分が「あっちの人たち」の仲間になったら彼のためにろうそくの火を灯してもらいたいと彼女に乞う。彼女は応える「それでは私は、いったい誰にともしてもらえばいいのでしょう?」。
そして(だから?)彼女は彼の思っている──と記される──以上の「同志」だったことが明らかになる。彼女が「祭壇」で蝋燭を灯しているのは一人の男のため──アクトン・ヘイグのためだった。「あなたの人生も、やはり、あの人でいっぱいなのじゃありませんか?」「それはもう、誰の人生だってそうでしょうよ。あの男を知るという類い稀な経験をした人ならね」。
二人はアクトン・ヘイグと過去に「何かしらの関係」をもった男女だった──しかし二人の立場には差異がある、アクトン・ヘイグを「許した」女と「許していない」男という状況の違いという。「では、祭壇のあのろうそくの中には──?」「アクトン・ヘイグのろうそくなどありはしません!」「でもあの人もあなたの死者の一人だとしたら?」
彼女はアクトン・ヘイグに形づくられた女性だと彼は思う──だとしたら、彼もアクトン・ヘイグに形づくられた男性なのではないか、と読者に思わせる。二人の間には、二人の交流には、アクトン・ヘイグが介在している。しかし、アクトン・ヘイグが彼らにとって何者に相当し、二人と「どのような関係」にあったのかは、不自然なまでに省略されている。ただ、そこにスキャンダルめいた「何かしら」があったことの痕跡が仄めかされているだけだ。アクトン・ヘイグのために蝋燭を灯してほしいと懇願する女、それを拒否する男。二人の男女の友情はアクトン・ヘイグをめぐって決裂する。

実際、六か月もすると、前にはあれほど魅力的で、楽しかったこの友情を、彼は事実上放棄していた。彼の欠如には二つの顔があった。彼がその友情を復活させようと最後の努力をふりしぼっていたとき彼の方を向いていた顔は、実はいちばん彼の眼につかないものだった。それは彼が与えた欠如だった。そしてもう一つは自分が耐えなければならない欠如である。彼女がもうけっして口にしない条件を、彼は、一人になると、よくそっとつぶやいてみた。「もう一つ、もう一つ──あと一つだけ。」


p.80-81

彼がいて、彼女がいて、彼ら二人がいて、はじめて欠くことのできない「媒体」ができあがる──何かが狂うとすべてが狂う。「あっちの人たち」=「死者たち」との祭壇=媒体は存在しなくなってしまう。教会はからっぽになってしまう。気がついてみると、彼の友人は一人残らず世を去っていた。気がついてみると、「あと一つだけ」残っていた。
ジョージ・ストランサムは病気になる。あの女性の声が聞こえる──「あの人のために」。衰弱しきったストランサムはそれでも教会へ向かう──あと一つだけ。祭壇には「あと一つだけ」ろうそくを灯す余地があった。メアリ・アントリムが天の栄光から微笑かけていた。メアリ・アントリムの降下がストランサムの「心をひらいた」──アクトン・ヘイグのための。最後の、最終の力を振り絞りストランサムは蝋燭を灯す「あと一つ、もうあと一つだけ」。



フランソワ・トリュフォーはこのヘンリー・ジェイムズの小説を『緑色の部屋』(La Chambre verte、1978)のタイトルで映画化している。
Chapel Scene from Truffaut's Le Chambre Verte (The Green Room)



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*1:

死者の祭壇

死者の祭壇

*2:訳者あとがきで紹介されているニューヨーク版序文によれば、ジェイムズは以下のように書いている──”この物語の主題は、あきらかに、ごく当たり前のことであるが、一つの状況を呈示することだった。それは、死者のことをたえず考慮する習慣を身につけ、はぐくむ(このはぐくむというのが肝心だ)状況ということである。”