ゲイのセクシュアリティ、さらにいえば、セクシュアリティのもつポテンシャリティは、それが社会的なものを破壊するというところにこそある。「直腸は墓場か?」でベルサーニは、マッキノンやドウォーキンのセクシュアリティ理解を絶賛し、セックスを非暴力的なものと見なそうとするフェミニストや、レズビアン、ゲイの理論家たちを批判する。たとえば『ジェンダー・トラブル』で、ジュディス・バトラーがジェンダーのパフォーマティヴィティを強調し、ドラァグ・クィーンがジェンダーの規範をパロディ化しているのだと述べている。パロディに現存の社会関係や権力関係を転覆するポテンシャリティを見ているのである。パフォーマンスをパフォーマンスとして演じることで、自然な本質と思われていたもの(男であることや女であること)が構成されたにすぎないことを暴露する戦略である。このような戦略は、SMの非暴力性を強調するひとびと(フーコーも含めて)にも共通している。自分が置かれているポジションを「身振り」というかたちで自分の存在から分離可能にすれば、そこに自由の空間が開けるというわけだ。
ベルサーニはこういった立場を批判する。それは社会関係のなかでポジションを取り替えることにしかならないのではないか、という疑念があるからだ。セックスを非暴力的なものと見なしたいこれらの理論家たちは、ベルサーニからするなら、セックスのもつポテンシャリティを削ぎ落としている。セクシュアリティは、彼によれば、社会のなかでひとびとが互いにポジションを取り替えたり、あるいはせいぜいポジションのあいだの布置を少しばかり変更することにしか関わらないのではない。そうではなく、それは、社会とは別の関係を作り出すのである。セックスは、まさに暴力だからこそ、革命的なのである。
おそらく、このようなベルサーニの立場に一番近いフェミニストは、レズビアン・フェミニストを名乗るテレサ・デ=ローレティスだろう。彼女も、ベルサーニに似て、マッキノンを、セクシュアリティ(この場合は欲望)によってジェンダーを規定した点で評価する。そこから、デ=ローレティスが引き出してくる課題は、女の欲望をどのように積極的に語るか、というものである。
(中略)
彼女自身は、『愛の実践』(Teresa de de Lauretis, The Practice of Love: Lesbian Sexuality and Perverse Desire)で、女を対象として欲望する女の欲望の、他の欲望の構造(男の女に対する欲望、男の男に対する欲望、女の男に対する欲望)には還元できないその固有性を論じている。
ベルサーニとデ=ローレティスに共通しているのは、多元主義的な多様性(それはしばしば一般的な概念の順列組み合わせであり、「何者性」でしかない)の称揚によって、むしろ、自己の固有の存在が抹消されてしまうことへの怒りである。
[関連エントリー]
*1: