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フランシスコとフランシスコ学者とは峻別されなければならない


「原初の無垢のことを忘れてはいけない」と語りかける、無垢に通じる名前を持つ教皇ローマ教皇庁という制度の両義性

アシジの聖フランシスコと聞けば、すぐさまフランコ・ゼフィレッリ監督1972年の伝記映画『ブラザー・サン、シスター・ムーン』を思い浮かべるかたは、決して少なくないだろう。

(中略)

映画終盤、フランシスコに「主の説いた教えどおりに生きるのはまちがっているのかどうか」と尋ねられ、感銘を受けた教皇(インノケンティウス三世)は、このように語って相手の足元へ身を屈める──「原罪(オリジナル・シン)に囚われるあまり、わたしたちは原初の無垢(オリジナル・イノセンス)のことを忘れがちだ」。(…)

ところが、そのかたわら、教皇を取り囲む聖職者のひとりが、もうひとりにこう囁くのだ──「安心しろ、教皇はちゃんと自覚してやっておられる。貧乏人どもに声をかけてやれば連中も教皇庁に従うようになるって算段さ」(日本語字幕では「安心しろ、教皇は役者だ。これで貧乏人どももおとなしくなる」)。

右のやりとりが高度にレトリカルに響くのは、インノケンティウス三世はいうまでもなく英語表記でいう「イノセント三世」(Innocent III)であるからだ。あたかもフランシスコの思想へ共鳴するかのように「原初の無垢(Original Innocence)のことを忘れてはいけない」と語りかける教皇は、じつはまったく同時に「無垢(イノセンス)に通じる名前を持つ教皇本人のことを──いわば教皇庁そのものの制度のことを──忘れてはならない」という強烈な皮肉を放っているようにも聞こえる。こうした二重の響きがあるからこそ、背後で囁かれる邪悪な会話もがぜん意味を増し、観る者の心に明るいロマンス以上の思想的陰影を残してやまない。ゼフィレッリの映像構成は、フランシスコの人生自体が決して一枚岩ではなかったことに対する、最も正確な20世紀的再解釈のひとつであったと思う。

(中略)

かつてニーチェはキリストとキリスト教を区別したが、フランシスコも以後のフランシスコ派最初の哲学者ボナヴェントゥーラに代表される旧スコラ哲学系フランシスコ学者とは峻別されなくてはならない(下村寅太郎アッシジの聖フランシス』、南窓社、1965年)。何しろ、誰よりもフランシスコ本人が、書物や知識をも含むいっさいの所有概念を葬り去り、理論よりは実例を、言葉よりは実践を重んじた聖人なのだ。G・K・チェスタトンも言及しているように、フランシスコが死の床にあってすら裸の大地に裸で横たわらんとしたのは「彼がもつものであることと彼が無であることを証ししようとした」結果である。フランシスコを知るには、いっさいのフランシスコ学を知らないままに向き合うことこそが最もフランシスコ的な姿勢なのである。


巽孝之「聖貧の騎士」(イエンス・ヨハンネス ヨルゲンセン『アシジの聖フランシスコ』解説、平凡社ライブラリー

アシジの聖フランシスコ (平凡社ライブラリー)

アシジの聖フランシスコ (平凡社ライブラリー)


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