HODGE'S PARROT

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バッハとバーリン



大村恵美子の『バッハの音楽的宇宙』を読んでいる。ヨハン・セバスティアン・バッハカンタータを中心とした宗教音楽について書かれたもので、楽曲の解説とともに、その背景となる宗教、政治、社会、歴史についても興味深い指摘がなされている。
その第三章、国家と政治。著者はカンタータ《この同じ安息日の夕べ/Am Abend aber desselbigen Sabbats》BWV42 で歌われるマルティン・ルターが1524年に作ったコラールを引いて、戦争と平和について述べる。しかしなぜここでルターなのか。
プロテスタンティズムは「普遍的な」自然法を揺るがした。「自然法」とは、人間の本質は静的で普遍であり、あらゆる時代、あらゆる人間に対して普遍的(カトリック)に妥当する目的を持ち、知識を得ることによってそれを実現することができる、という歴史認識である。宗教改革は、これに反対する──「個人の信仰」「個人の理性」の反抗であった。
そしてさらに「別の普遍性」をも見直しを迫ることになる。別の普遍性とは「啓蒙主義」のことである。

バッハはよく、「啓蒙主義思想」の時流に乗り切れずに、旧時代の者として生前から葬り去れる道を辿ったと言われる。この「啓蒙主義」とは何だったのだろうか。科学万能で、旧い教会を批判した点では中世ヨーロッパに直結するものではないが、超時間的な自然法理論を受けついだことにおいては、中央集権主義国家であるフランスに花咲いたこの啓蒙主義は、ローマ・カトリック教会の理想の継承者なのである。科学的知識だけが人間を解放することが出来ると彼らは信じた。





大村恵美子『バッハの音楽的宇宙』(丸善ライブラリー) p.51


この啓蒙主義は人間の性善説に基づいている。つまり、キリスト教の中心的理論である原罪観念の否定だ。「知ることが出来るものは、行うことも出来る」という楽観主義をこそ、聖書が厳しく戒めていたものだ。著者は、バッハの時代の「現時点」と同様、私たちの「現時点」においても「問い直し」が迫られているのではないか、と記す──人間自身の「原罪」を鋭く見つめることのない主義主張は、どんなに美しい理論であっても、砂上の楼閣ではないか、と。

たとえば一つのイデオロギー、一つの国家、一つの理想、一つの国連、その他地上にあるどんなものにも、自分の魂と良心を委託することは、許されていない。どんなに苦しくても、自分の一日々々を自分で負って生きてゆくのが人生である。これがバッハの信念だった。




p.52


ルターのコラールがどんなに旧弊なものに映ろうとも、神と自分との間にいかなる権威も介在させないことににおいて、それこそが、自分の分をわきまえた正当な祈りであり、したがってそれは「新しい」と言えるのではないか。時代の思潮に「乗りきる、乗りおくれる」とは無意味な評価なのではないか。
そこで大村氏は、イギリスの政治哲学者アイザィア・バーリン/Isaiah Berlin の論文『ジョゼフ・ド・メストルとファシズムの起源』を引く。メストル(ジョゼフ・ド・メーストル、Joseph de Maistre、1753-1821)は、啓蒙主義を強く批判した人物だ。

平和と現実とはまったく別のものである。メストルは問うている。『戦いの太鼓が鳴るや否や、人はいつでも何ら抵抗感なしに、否、しばしばある種の熱意(この熱意がまた特有の性格のものだ)を以てすら戦場に赴く準備を整えるのは、いったいなんと驚くべき魔術がこれを為さしめるのだろうか。しかし何のために行くのかといえば、未だこちらになんの害も与えていない同胞、ただそちら側でも同じようにできるなら打ち負かしてやろうと進軍してくる同胞を戦場で木っ端微塵に吹き飛ばすためなのである。』

鶏を殺さねばならぬとなれば涙を流す連中が戦場では平然と人を殺す。そうするのは純粋に共通の善のためであり、苦痛に満ちた利他主義の義務として、自分の人間的感情を押し殺すのである。死刑執行人はごく少数の罪人、親殺しとか偽札づくりとか、そういう連中を殺すだけである。兵士は何千という無辜の人間を、無差別に、むやみやたらと、荒々しい熱狂にかられて殺す。別の惑星から何も知らぬ訪問者がやって来て、死刑執行人と兵士とではどちらが忌み嫌われ、軽蔑され、どちらが評価され、賛嘆され、褒美を得ているかと聞かれたら、われわれは何と答えるべきか。
『この世でもっとも褒め称えられること──一つの例外もなく人類全体の考えでおいてそうであるもの──が、罪なき者の血を流して罪にならない権利はいったいなぜか。その理由を説明してもらいたい。』(岩波書店バーリン選集』4)

18世紀のメストルと、20世紀のバーリンが口を揃えて描き出しているこの戦争観は、何百年たっても変わらない人間性の日常的具視を、私たちの眼前にまざまざと映し出して見せてくれる。





p.53-54


バッハも「自由のため、正義のため、信仰のために剣を取れ、銃を取れ」とは言っていない、と著者は述べる。拠ってたつべきは、次のような聖書の「エペソ書」の教えである。

「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、み霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。」


敵は、外からやって来るおそろしい軍勢のみとは限らない。甘い感触をもった、自分自身の肉体から出て来るもののほうが、いっそう滅びに近い。それゆえ、自分の内に向かっても、「たえず目ざめよ」ということになるのである。





p.55-56

バッハの音楽的宇宙 (丸善ライブラリー)

バッハの音楽的宇宙 (丸善ライブラリー)