HODGE'S PARROT

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「それゆえ」



それゆえ、「規則に従うこと」は実践(プラクシス)である。そして、規則に従っていると信じることは、規則に従っていることではない。それゆえ、規則に「私的に」従うことはできない。そうでなければ、規則に従っていると信じることが、規則に従っているのと同じことになってしまうであろうからである。


ウィトゲンシュタインの診断は、「解釈ではないような規則の把握のしかたが、どのようにして存在しうるのか?」という問いを呼び起こす。そして、私の考えでは、規則に従うことは実践であるというテーゼこそが、この問いに対する答えとなることを意図されたものなのである。
つまり、推論(冒頭の「それゆえ」)を媒介しているのは次のような思想である。すなわち、解釈ではないような規則の把握のしかたが存在することを、理解可能なこととみなさなければならないとすれば、規則に従うことは実践であるということを、はっきりと理解しなければならない、という思想である。(中略)

「それでは、私が何をしても、それは規則に一致していることになるのか」。──ひとつ私に質問させてほしい、規則の表現──たとえば道標──は、私の行動とどう関係しているのか、そこにはどのような結びつきがあるのか、と。
まあ多分、次のようなことだろう、私はこの記号に対してある特定のしかたで反応するように訓練された、そして今、私はそのように反応する、と。
「しかし、それだけでは単に因果関係を述べただけ、すなわち、どのようにして今われわれは道標に従うようになったのかを説明しただけである。そもそも何が記号に従うということの本質をなしているのかを説明してはいない」。──そんなことはない。私はまた、人が道標に従うのはその道標が常時使用されている場合、つまり慣習が存在する場合に限られている、ということも示したのである。




ジョン・マグダウェル「規則に従うこと ウィトゲンシュタインの見解」(永井均 訳、青土社現代思想 総特集 ウィトゲンシュタイン』 vol.13-14 より)p.78


Ludwig Wittgenstein's Language Game


ウィトゲンシュタインは、少しもためらうことなく、数列は「規則に従って行動することへの訓練によって……定義される」と言ってのける。そして彼は、『断片』308節では次のように書くのである。

「以下同様のかわりに、彼は「今や君は私が与えようとしている意味を知っている」と言ってもよかった。その場合、彼の説明は「+1 という規則に従う」という表現の定義そのものであるということになるだろう。



「規則に従うこと ウィトゲンシュタインの見解」p.92




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