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何かについての真理、何かのための真理



今村仁司の『アルチュセール』から、「問題設定」(プロブレマティック)と「イデオロギー」についてメモしておきたい。
ルイ・アルチュセールによる「問題設定」という概念は、「問いあるいは問題を立てること」という文字通りの意味から、「問いを立て、その問いに応答する、問い─答えの統一ある全体」へ転じたものだ。すなわち「どのような問いを出し、どのように答えるか、をみちびく特定の思考様式」である。
「問題設定」は「理論的前提」でもある。

この「前提」は、ある思想家の思想や思考スタイルをみちびくもの、つまり「自己の諸問題の意味と方向、したがってそれらの解決の意味と方向をそのなかで決定する」ものである。だがとくに注意すべきことは、「問題設定」とか「理論的前提」は、ふつうは、思想家自身にも自覚されておらずかくされたままで現実に作用しつづける、という事実である。

この点が最大の特徴点である。

だから、あるひとが自分を「唯物論者」であるとか「観念論者」であるとか自己主張するとしても、この自己宣伝ないし規定は大した意味をもたない。唯物論者が実は観念論者であったり、マルクス主義者がブルジョワ思想のもち主であったりすることがしばしばあるからである。


一般に、あるひとつの思想を見定めるとき、そのひとが自分についてどういっているかは大した意味をもたず、そのひとがどんなかくされた「問題設定」・「理論的前提」で考え行動するかが一番大事なことである。




今村仁司アルチュセール』(清水書院) p.104-105

イデオロギー」の概念については、

  • 「それぞれのイデオロギーは、固有の問題設定によって内的に統一され、またその意味を変化させることなしには、一つの要素も抽出できないような現実的全体と考えられる」
  • 特定のイデオロギーあるいは一個人の思想がもつ「意味」は、何らかの「真理」にかかわらせて理解されるのではなく、イデオロギーに反映する社会問題や社会構造に照らして理解されうる。
  • 特定のイデオロギーの「発展の原動力」は、イデオロギー自身の内部にはない。そのイデオロギーを担う個人が具体的に生きている社会的現実または歴史のなかに、「原動力」が見出される。(p.106)

マルクスのために (平凡社ライブラリー) あるイデオロギー(厳密にマルクス主義的な意味で──つまりマルクス主義イデオロギーでないという意味での)は、まさしくこの点で(プロブレマティックそのものを考えることなく、プロブレマティックにおいて考える、という点で)、それ自身のプロブレマティックが自己を意識していないという事実を特徴とすると考えられる。

マルクスがわれわれに、あるイデオロギーの自己意識をそのイデオロギーの本質とみなしてははならないと言い、また絶えずそれをくりかえすとき、マルクスが同時に主張していることは、イデオロギーというものは、それが答える(あるいは答えを避ける)現実の諸問題を意識していないということより以前に、まず「理論的諸前提」、すなわち現に作用しているが隠されたままのプロブレマティックを意識していないことを言おうとしたのである。

ところでプロブレマティックこそ、自己の諸問題の意味と方向、したがってそれらの解決の意味と方向をそのなかで決定するものである。つまりプロブレマティックは、一般に本をひらけばただちに読みとれるものではなく、隠されているが現にそれが作用しているイデオロギーの深みからひきださなければならず、しかも多くの場合、イデオロギーそれ自体に反して、その主張や宣言にもかかわらず、そうしなければならない。





ルイ・アルチュセール「若きマルクスについて」(平凡社マルクスのために』より) p.106


ところで、今村氏は同書で、「カトリシズムとマルクス主義」と題された、アルチュセールキリスト教についての一節を設けている。上流階級知識人の下層階級への「同情」や「負い目」は、社会主義思想を受け入れたから、ではなくて、生まれながらのキリスト教精神という宗教的動機がまずあるのではないか、と。だからフランスにおける「転向」は、まずクリスチャンからマルキストへ、そして「再転向」してカトリック信者になり、マルクス主義キリスト教を調停する立場になる。
アルチュセールカトリックからマルクス主義への第一の「転向」をやりとげた。

無神論者になったからといって、神の存在から目を離せるわけではない。マルクス主義無神論者は、たえずカトリック的有神論とのたえざる対立・緊張を生きなくてはならない。有神論者も、無神論者にまけず劣らず、いやそれ以上に、下層階級への《負債》を返済しているのだから、どちらがよく「返済」できるかは、日々の行動、政治行動などのなかで試される。




アルチュセール』 p.23