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ジョン・ロールズのルール=実践観



川本隆史 著『ロールズ 正義の原理』を読んでいる。興味を惹いたところがあったのでメモしておきたい。
ロールズが《ルール》という用語を明確化した論文「二つのルール概念」について。この論文で彼は、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」にヒントを得、「ある実践(プラクティス)を正当化することと当該の実践に含まれる個々の行為を正当化すること、その両者の区別の重要性を指摘する」ことを目指したのだという。

彼は行為功利主義者が陥りがちなルール観を「ルール=要約観」と名づける。これは、ルールなるものを<個々のケースに功利主義を直接適用した結果得られた過去の諸決定の要約>と考える見解であって、ケースごとの意思決定がルールより論理的にも先行する。たとえば「約束を守るべきである」とのルールをこの「要約観」で説明しようとするなら、これまで各種の約束を履行した場合にすべて有利な帰結がもたらされたので、約束の遵守がルールに格上げされた、となる。




川本隆史ロールズ』(講談社) p.73 

これは経験則としてルールを捉え、「不利な結果が出そうな場合は約束を破ってもかまわない」という例外を許容する見解だ。したがって約束遵守の責務=強い拘束力を説明できない。
そこで、「実践」を定義するものとしてルールを把握する──それが「ルール=実践観」だ。ルールは個別事例に功利・効用の原理をあてはめた意志決定を一般化したものではなく、ルールのほうが個々のケースよりも論理的に先行する。

たとえば約束とはそれ自身、一つの実践なのだから、ある人がいったんこれに参与し約束者としての役目を引き受けたのならば、彼は功利主義にのっとって行為する権利を放棄し、「約束を守るべきである」というルールを原理とせねばならない。ただし、約束という実践は功利・効用の原理に照らしてその正当性をテストされるものだから約束者となる以前ならば当該の約束の有用性を問題にできる。





p.74

この「実践」という概念が、ウィトゲンシュタインから影響を受けたものであると著者は述べ、『哲学探究』から該当する部分を挙げる。有名なセンテンスで、僕もすごく気に入っている部分なので、同じように引用しておきたい。

  • それゆえ<ルールに従う>ということは一つの実践である。そして人がルールに従っていると考えることは、ルールに従うことではない。だからルールに<私的に>従うことは不可能である。さもなければ、ルールに従っていると考えることがそれに従っていることと同じになってしまうであろうから。(第202節)
  • 「チェスのゲームをしよう」という表現の意味とそのゲームのルール全体との間の結合はどこでなされるのか。──そう、ゲームのルールの表の中で、チェスを教えることの中で、ゲームをするという日々の実践において。(第197節)
  • 結局のところ、ゲームは諸々のルールによって定義されているはずである! だからチェスのゲームに先立って王将が抽選に使われるべきであることを、ゲームのルールが命じるとすれば、それはゲームの本質的な一部なのである。(第567節)


p.75-76

そしてウィトゲンシュタインが「私的言語」の不可能性を粘り強く論証してみせたように、ロールズの「ルール=実践観」も、個々人がルールに<私的に>従えることを前提にした「ルール=要約観」への対抗軸として打ち出されている。さらにロールズはこの「ルール=要約観」が「哲学の思弁に耽る」ときに生じやすいと警告しているが、この哲学批判もウィトゲンシュタインが『哲学探求』で繰り返し用いた言辞にならっている。




p.76

ロールズ (「現代思想の冒険者たち」Select)

ロールズ (「現代思想の冒険者たち」Select)




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