HODGE'S PARROT

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ゲミュートリヒな世界/ドイツ・ロマン派

Aus dem Leben eines Taugenichts. Novelle.

Aus dem Leben eines Taugenichts. Novelle.

俗にロマン派の人々は中世へのあこがれに生きたといわれる。『秋の幻惑』も中世の騎士時代の物語として書かれている。それを人は過去への逃避という。しかし、逃避する精神からは建設的なものが生まれはしない。過去への逃避というのは、現代の現実に目と心を奪われることに慣れすぎた人々のいいぐさにすぎまい。遠い過去にもそうであった、ということによって、現代における森の自然がふくみつづけている、人間の打算的な知性の及びがたい魔力を言葉でつたえようとする強い意志なしには、アイヒェンドルフの、ときに底抜けに明るく、ときに底知れずに深遠な森の描写は生まれなかったはずである。それが遠い過去であるはずの中世でなくて、アイヒェンドルフ自身の青春時代の体験を貴重なものとして胸にはぐくみ、言葉にもあらわそうとする動機ではなかったか。




宮下啓三「アイヒェンドルフの旅と森」(国書刊行会『アイヒェンドルフ  ドイツ・ロマン派全集第6巻』月報3)

デムスのピアノによる「ロベルト・シューマン ピアノ曲全集」リスニングマラソンを決行中。気分はまさにゲルマンの森を彷徨っている状態だ。あの『幻想小曲集 作品12』(とくに「夜に」)の焦燥感と湧き上がるような情熱、何気なく沈む『アラベスク』、『森の情景』の神秘。

もし夜がなかったら、我々は宇宙を知っていると言えるだろうか。私が「夢を見ている」といつ断言できるだろうか。いつ目覚め、いつ眠るのか。わたしの前には絶対に互いを相入れることのない二つの世界がある。
「昼」の世界は(カントが言ったように)歪められた現実でしかない。我々の感覚と理性そして我々の肉体的構造は日中に感じたり考えたりするという働きの法則によって、歪められた現実でしかない。
一方反対に、夜と夢の世界には根拠がなく疑わしいというところは、もはや見あたらない。我々はこの世界に、「自分」について、より真なるより基本的なる何かを感じるのである。




マルセル・ボーフィス『シューマンのピアノ音楽』(小坂裕子・小場純子 訳、音楽之友社)p.18-19

『花の曲』ってこんなに良かったんだ。『子供のためのアルバム』も「楽しき農夫」(懐かしいよね)をはじめ、素晴らしい感興に満ちている色とりどりの作品集だ。マルセル・ボーフィス曰く「ヴィルトゥオーソたちはこの曲を弾くうちにその単純性が隠し持つ落し穴に落ちるのではと恐れている」。

そして『子供の情景』の詩情。もちろんそれは大人のための詩情だ。

たとえ歌うのが子供だとしても、それを模倣すべきではないのだ。音楽の声そのものが子供に<なり>、同時に子供は音に、純然たる音に<なる>。そんなことのできる子供はいたためしがない。もし子供にそれができたら、それはまた子供以外のものに<なる>ことによって、不思議な、この世とも思えぬ官能的な世界に住まう子供に<なる>ことによって達成されると考えるべきだろう。
要するに、脱領土化するだけでなく、声が子供に<なる>と同時に、子供のほうもまた脱領土化され、どこから生まれたかもわからないまま生成変化をとげるのだ。


「子供に羽が生えた」とシューマンは言う。音楽をとらえる動物への生成変化にも、やはり同様のジグザグ運動を見いだすことができる。




ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ千のプラトー』(宇野邦一 他訳、河出書房新社)p.349

子供たちが一緒に遊んでいるときには、「二つの幻想が、二つの炎のように、並んだり交じり合ったりしながら、結ばれることなく」遊んでいる、とジャン・パウルは『レヴァーナ』の中で述べている。ほとんどすべての「自然民」に広まっている成熟した若者の破瓜儀礼、教会が一般的堅振礼の慣習を借用した破瓜儀礼は、とりわけイディオパーティッシュ[固有受苦的=独感的]な年齢からズュンパテーティッシュ[共有受苦的=共感的]な年齢への移行を示す祭祀的表現なのである。




ルートヴィッヒ・クラーゲス『宇宙生成的エロース』(田島正行 訳、うぶすな書房)p.66-67

大作、難曲、大形式の類。すなわち『交響的練習曲』、『クライスレリアーナ』、3つの『ソナタ』、『謝肉祭』、『ダヴィッド同盟舞曲集』の興奮と抑鬱の夢のもつれ。ここでは、「喜劇と悲劇が、2つの宿命のライヴァルのように、別個に向き合っているのだ」。

カント以降、美しい錯覚はもはやなくなった。我々は歪んだ鏡となった。見本市にあって前に立つと姿が巨大に長くグロテスクに写る鏡となった。我々は身体的所与に従って、ものをとらえる。「三次元」「時間」「原因」と「結果」の因果関係を知るようになった。もし絶対的実在があるとしても、それは我々の手の届かないことろにある。
すなわち、我々が自分の世界の創造者なのである。



マルセル・ボーフィス『シューマンのピアノ音楽』p.19

痛快無比
迅速無類
戦の庭の
軽騎兵
閃光爆音 雷もかくや
銃弾に 朱の薔薇咲き
返り血潮 目に浴びて
軽騎兵は 酔いしれる。



ブレンターノ&アルニム「少年の魔法の角笛」(国書刊行会『ブレンターノ/アルニムⅡ  ドイツ・ロマン派全集第14巻』)p.90

ズュンバテーティッシュな興奮形態こそ、最も本来的な意味で詩的なものとなりうるように見える。このことは、「抒情詩」(リュリーク)という廃れつつある語や「歌」(リート)という廃れていない語の意味内実の上音が今日でもなお想起させるところである。

(中略)


イディオパティーシュな情感の表現として、単調さや単声性を挙げることができるが、これは未開人の音楽ばかりでなく、古代の音楽さえも特徴づけている。他方ズュンパテーティッシュな情感の表現として、多声性を挙げることができる。多声性は民族移動の後に支配的となったという事情から、北方民族に、人類は夢想的な魂の愛から生まれた宿命的贈り物を負っているのである(魂の愛は、多声性と同様に両義的であり、宿命的である。というのも、多声性は計測精神の闖入によって、一切を消化する和声の名人芸に堕落し、魂の愛はキリスト教の決まり文句によって誘惑されて、後で問題にする排他的情熱にまず堕落し、結局は普遍的「人間愛」という愛を殺す化け物に堕落したからだ)



L・クラーゲス『宇宙生成的エロース』p.71

Schumann und Eichendorff: Studien zum Liederkreis Opus 39

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少年の魔法のつのぶえ―ドイツのわらべうた (岩波少年文庫 (049))

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宇宙生成的エロース

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アイヒェンドルフ (ドイツ・ロマン派全集 6)

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