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シュタージ関連書籍

1949年10月、ドイツ民主共和国DDR)が成立した。ソ連は一部軍隊を撤退させ、行政機能を東ドイツ政府当局に委譲。首相には、ドイツ社会主義統一党SED)党首オットー・グローテヴォールが就任した。

エリヒ・ミールケ(別名フリッツ・ライスナー)は、ドイツ共産党中央委員会の警察・法律部の責任者となり、内務省の経済保護中央局と国民警察の警察署5部の指導者も兼任した。経済保護中央局はシュタージ設営のための偽装機関であった。

東ドイツが直面した問題の一つは、対外情報の不足だった。激動する国際情勢の中、他国の思惑を的確に諜報し、党中枢機関に伝える組織造りが必要だった。


関根伸一郎『ドイツの秘密情報機関』(講談社現代新書)p.178

1950年2月8日、ソ連KGB を手本に国家保安省(MfS)──シュタージ──が設立され、長官にヴィルヘルム・ツァイゼル、次官にミールケが就任した。西ドイツにはすでに「ゲーレン機関」が発足しており、これがヨーロッパ最大の情報機関「BND」(連邦情報局)に継承される。

その後、ベルリンのチャイコフスキー通りのビルの一室に、社会主義統一党(SED)本部中央委員会から選ばれた数人の若い要員が終結するようになった。この事務所の表看板には、「経済・科学研究所」(IWF)と書かれていた。この看板はあくまでも偽装で、終結したのは、後に国家保安省の中央偵察管理局を背負って立つ、党から選ばれた幹部候補生だった。

祖国建設の意欲に燃えた青年たちで、KGBの指導のもと、社会主義経済や思想的講義とともにスパイの実習を受けた。彼らは、再軍備をはじめた堕落した資本主義の国、西ドイツへの憎悪と敵意に満ちていた。若い科学者や技術者たちは、その後、経済復興を遂げ、驚異的な科学的進歩を果たした西ドイツの企業や研究所にスパイとして潜入していった。



『ドイツの秘密情報機関』p.177


ドイツの秘密情報機関 (講談社現代新書)

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ファイル―秘密警察(シュタージ)とぼくの同時代史

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ドイツの憂鬱 (丸善ライブラリー)

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シュタージ(旧東独秘密警察)の犯罪

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The Stasi (Themes In Modern German History)

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Man Without A Face: The Autobiography Of Communism's Greatest Spymaster

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Stasiland: True Stories from Behind the Berlin Wall

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Stasi: The Untold Story Of The East German Secret Police

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マックス・ヴォルフは、国家保安省の対外諜報部である中央偵察管理局(HVA)を指揮していた。「経済・科学研究所」(IWF)は、1952年に正式に活動し、主に西ドイツの政策方針に関する諜報を行った。西ドイツ側の政治家、その協力者、アシスタントまで、すべての人材を分類、記録するカードが作成された。

当時、ソ連の秘密警察は、東ドイツに1200人ほど駐留していた。中央偵察管理局は、カールスホルストに駐留するKGBから、ソ連のスパイ方法を忠実に学び、その精神を引き継ごうとした。1917年に組織されたソ連のスパイ組織の正式名は「全露反革命怠業取締非常委員会」(1917年〜1923年)で、「国家保安部」(1922年〜1934年)を経て、KGBとなる恐怖の情報機関だった。

スパイ活動のコンセプトは、「いかに西側ブルジョワ社会で資本家が民衆から搾取し、いかに抑圧と劣悪の状態で市民が生活しているかの証拠を探り出す」こと、そして、西側を叩く政府首脳の演説材料を提供することだった。ヴォルフのスパイ陣は、西側首脳を黙らせる爆弾情報をしばしば提供した。



『ドイツの秘密情報機関』p.179-180