HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

不在の神を敢えて愛せよ、勇気を持って




笠井潔の『サマー・アポカリプス』。この推理小説は、シモーヌ・ヴェイユの思想が刻印された力作である。矢吹駆シリーズの中で僕が最も愛しているものだ。

その後半、カケルはシモーヌ・ヴェイユの化身とも言うべきシモーヌリュミエールに問う。「無神論者で唯物論者だったはずのあなたが、初めて教会堂の床にひざまづいた時、その神秘の瞬間に、他人は存在しましたか、世界は存在しましたか」と。
シモーヌは応える。

……一年以上を看護婦として過したパレスチナ人の難民キャンプを去ったのは、わたし自身がひどく躰を壊してしまったからでしたが、もうひとつ、学生時代からの思想と生き方について深く悩ましい疑惑にとり憑かれ、そこからの脱出の方途さえまるで判らない激しい精神の混乱と衰弱に陥ったからでもありました。わけもなく蔑まされ、ほとんど人間とは思えないほど惨めな生活を強いられている人びとの側に立つと称する組織や集団に、わたしはいつも同情的であろうと努めてきました。
しかし、階級闘争や暴力革命や権力奪取を得意気に口にするこうした集団の中心には、わたしの共感を真に絶望させるようなものが深く根を張っていることに否応なく気付かされてしまったのです。


(中略)


それが、孤立した抵抗者の唯一の態度表明の方法であることを超え、国家権力獲得のための政治機械にまで組織され動員されていく時、事態はほとんど絶望的になるようでした。紛れもない解放のための暴力が、たちまち打ち倒した邪悪な敵のものと同質の、残忍な抑圧の暴力に変容していってしまうという怖ろしい逆説を、いったいどう考えたらいいのでしょうか。


(中略)


……それは、療養をかねて滞在したとある北イタリアの田舎町に残っていた、ちっぽけで、見窄らしいとしかいいようのない粗末な礼拝堂で、不意にわたしを訪れたのでした。黝ずんだ壁と低い円天井の暗がりのなかで、仄黄色い裸電球の光にぼっと浮き上がっていたのは、正面祭壇の三角形をした聖母子像図だけでした。どんな轟音よりも耳を圧するような怖ろしい静けさのなかで、光と影が織り出す吸い込むような光景のなかで、突然に何かがわたしを襲ったのでした。
わたし自身よりも強い何ものかが、疑いもない現実感をもってわたしの前に現れたのでした。自身への不遜なこだわりが、自我の鎧が一瞬のうちに破砕され、まったく自然に、わたしはひざまづいてそのものに心から祈りました。聖堂の闇のなかで、頑な唯物論者が打ち倒されたのでした。
その時から、わたしは霊的なものの実在を、あるいはむしろ実在という言葉の真の意味を確信するようになりました。





笠井潔『サマー・アポカリプス』(創元推理文庫)p.390-393


しかしカケルは、シモーヌ『バイバイ、エンジェル』の犯人を否定しながらも、「抑圧されたものへの愛のために」世界と闘争することを、矛盾だと断じる。

「……シモーヌリュミエールシモーヌリュミエール、僕は今、ほんとうのことを聞きたい。君の信仰は完璧なのか、絶対に揺らぐことはないのか」


(中略)


「他人の悲惨、他人の不幸が隙間なく君の心を占めつくす時、他者への愛が発作のように君を鷲掴みにする時、神への愛は……」カケルがここまでいった時だった。シモーヌの惨めなほどに薄い肩がぴくりと顫えた。そして、まるで引きづられるように、その先はシモーヌが呟いた。耐えられないほどに悲惨な呟きだった。
「……不可能になるの」




『サマー・アポカリプス』p.397

また、田辺保の『シモーヌ・ヴェイユ』には、こんなことが書かれてある。

不幸は神のつくられた巧妙な装置である。金づちで打たれた衝撃が、釘の細い先端に伝えられて行くように、盲目的な、荒々しい、冷酷な無限の力が、小さな釘の先端をとおしてたましの中心に穴をうがとうとする。しかし、たましいが正しい方向へ向おうとしているかぎり、この一点はついにそこなわれることはないのである。


愛とは、まさにこういう「努力の方向」にほかならない。どのように釘をうちこまれても、じっとたましいを神の方へ向けている人は、いわば世界の中心に釘づけられているようなものである。それこそ真の中心、神そのものだと彼女はいう。ひたとただ一つのものを見すえつつ、自分の身にくい入るこの釘の痛さを堪えている彼女の、すさまじいばかりな努力を思うべきであろう。こういう愛が、人間には可能なのであろうか。
「愛は神的な事柄である。愛が人間の心の中にはいるとき、それは人間の心を砕く」(『超自然的認識』)と彼女自身も書いている。その愛を、かよわい一身で死に至るまで持ち堪えて行ったこと、シモーヌ・ヴェイユの使命はここに尽きるであろう。




田辺保『シモーヌ・ヴェイユ―その極限の愛の思想』(講談社現代新書)p.189-190

……わたしの苦痛、わたしの不幸、それらはただ、ますます強く神の愛を自覚するためのものです。たとえわたしが不条理に地獄に堕ち永劫に苦しむことになったとしても、それがなんでしょう。それでもわたしは、たった一瞬でもこの世でわたしを生かしてくださった神に、そして永遠の、完全な、無限の歓びである神の愛を知らしめてくださった神に、永劫の感謝をささげることでしょう。
どんな苦痛、どんな不幸の裡にあってさえ、むしろその裡にあるからこそ、神の愛を知り、神への愛に生きるだけで、わたしの魂は歓びに満ち、わたしは永遠の、語ることさえできない至福に撃たれるのです。


しかし、それなのに、この確信が根元から揺らぐ、いいえ、自分では何もわからなくなってしまう場合があるのです。それは、……不幸な人を眼前に見る時です。想像のなかでも同じか、それ以上なのです。


(中略)


痛む歯ならば引き抜くことができる。その痛みでさえ、神的なものに触れているという体験を深めこそすれ、神への愛を忘れさせるものではありません。しかし、苦しむ他の人たちの存在だけは、引き抜いてしまうわけにはいかない。
この激痛が極度の残酷さでわたしに襲いかかる時、……神への愛も、ほとんど、ほとんど不可能になってしまうのです……




『サマー・アポカリプス』p.398-399


サマー・アポカリプス (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

サマー・アポカリプス (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

シモーヌ・ヴェイユ―その極限の愛の思想 (講談社現代新書 165)

シモーヌ・ヴェイユ―その極限の愛の思想 (講談社現代新書 165)

アントニオ・ピリコーネの《イギリス組曲》




English Suites 1-6 Bmv 806-811

English Suites 1-6 Bmv 806-811


購入したのは、上記 Classico からのライセンスで、「Scandinavian Classics」という北欧系の廉価CDレーベルのもの。米アマゾンでは、「Scandinavian Classics/Membran」と表記されているので、Membran 系列であるのがわかる。

[membran International GmbH]

ま、そんなのどうでもよい。声を大にして言いたいのは、このアントニオ・ピリコーネ(Antonio Piricone)の弾く J.S.バッハの《イギリス組曲》が、素晴らしいということだ。
何よりもまずピアノの音が美しい。テンポも速すぎず遅すぎず。装飾音の付け方にもセンスがある──例えば第6番の「ガヴォット」なんて小気味いい。決してロマンティックな演奏ではないのだけれども、そこに「抒情」が感じられる。買って良かったと思わせるCDだ。

料理女と人喰い

青山ブックセンター本店に、現在、「80年代とは何だったのか」を考えるための書籍がセレクトしてあるコーナーがある。そのセレクトぶりに感心し、何冊か手に取って、ニヤリとさせられた。やっぱり本屋には足を運ぶべきだな。

ただこのコーナーに、笠井潔ユートピアの冒険』がないのは、残念だ。まあこの本は現在品切れなので、仕方がないのだが(残念だ)。しかし80年代の「軽佻さ」を総括するこの本の「マジメさ」は、80年代を考えるうえで、重要な参照点になりうると思う──たとえこの本が、女子大生とカバ先生の対話というポップな体裁になっているとしても。

1950年代の「アメリカの夢」(それはスピルバーグの映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」で神話的に作品化されています)に照応するポップ感覚には、おそらく矛盾した二面性がある。制度の産物であると同時に、制度を逸脱する欲望でありうる二面性を、露骨な矛盾にまで展開しなければなりません。けれどもいまのところ、だれひとりこのような、繊細きわまりない野蛮さが要求されるであろうイデオロギー批判の作業に、具体的な成功はおさめていないのです。


1970、1980年代の新しい社会運動にたいして、ぼくがガタリ*1の過大評価に賛成できないのは、この点と無関係ではありません。エコロジーフェミニズムも、いずれにせよ糞真面目すぎる。糞真面目であること(倫理主義的倒錯)の陥穽について、あまりにも無自覚でありすぎる。それは五月革命の精神にも刻印されていたポップ感覚からさえ、むしろ後退しているのではないか。
同時に、ヒッピー・ムーブメントがシャロン・テート事件に帰結したような、ポップなカウンター・カルチャーでさえ陥らざるをえない観念的倒錯について、ぎりぎりの方法的反省を回避しているのではないか。つまるところ、こんなふうに感じているようです。




笠井潔ユートピアの冒険』(毎日新聞社)「あとがきにかえて」よりp.311


そこで──先日エントリーした、秀逸なる「フーコー追悼文」を書いた──アンドレ・グリュックスマンである。『ユートピアの冒険』第4章は「マルクス主義と収容所国家」と題されたグリュックスマン論で、マルクス主義が必然的に生み出す「収容所」の問題を、デリダフーコーの提出した観点を踏まえながら、論じる。

マルクス主義の収容所国家は、たんなる蛮行において批判されるだけではない。筆舌につくしがたい蛮行なら、アッチラもジンギスカンも、教科書的な完璧さで実行したろう。しかしそれらは、たんにアジア的な蛮行にすぎない。ヨーロッパ的な蛮行は、それとは決定的に違っている。
アジア的な蛮行は、たんに野蛮であるにすぎないが、ヨーロッパ的な蛮行は、野蛮や無知を克服したと称する至高の理性の名において、逆説的にも、アジア的な野蛮でさえ鼻白むような徹底的な野蛮を実現するんだから。



▽それ、わかるような気がするわ。カバ先生も『テロルの現象学』で書いてたけど、倫理を排他的に主張する倫理主義は、無倫理や没倫理よりも徹底した反倫理に帰結するってことね。倫理は正義でもあるし、理性でもある。



▼近代的な理性の権力や、その内面化システムについては、すでにフーコーが『狂気の歴史』や、『監獄の誕生』で克明に批判していた。近代という理性の時代は、前近代的な非理性や反理性を社会秩序の外部に排除する「大いなる幽閉の時代」だった。つまり、徹底的に理性的たらんとした近代社会こそが、労働監獄や精神病院や、つまるところナチス・ドイツソ連で典型的に実現される強制収容所の原理を生みだしていた。
(中略)



▽こういうことかしら。社会主義が、というよりマルクス主義が、歴史的な人間解放の理念をかかげていたとしても、それが歴史的真理を所有していると称し、真理の名のもとに社会を再組織する理性の言説として君臨するかぎりにおいて、形而上学的な抑圧的全体の原理にならざるをえない。そこにこそ、マルクス主義の収容所国家を可能ならしめた究極の原理がある……。





p.127-128


グリュックスマンの著著に『料理女と人喰い』(邦題『現代ヨーロッパの崩壊』)がある。「料理女」というのは、「権力の抑圧と支配にさらされた人々を比喩するものとして、かつてレーニンが好んで使っていた言葉」であり、「人喰い」は「レーニンをはじめとして、権力の座についた革命エリート」のことだ。

「なるほど、まったく圧政を受けたくないという欲求が自らを保持するのは困難であって、古代ローマの地下墓地のなかで、蜂起せる代々のパリ市民のそれのなかで、コルイマの極北の砂漠のなかで、その欲求は追い求められている。しかしながらそれは持続する。なるほどこの持続そのものが不利な結果を招くこともある。
実際、私どもは偽り(フォス)のコミューンの名において何と多数の共同洞穴(フォス・コミューン)を掘らなかっただろうか。しかしながら、それもやはり異議申し立ての一つなのだ。国家破壊は明日には完了しないだろう。それでも、その破壊はずっと前から始まっていて、世紀から世紀へ私どもの知恵をつくり、誰もがけっしてその破壊を完全に中断することはできなかった。よしんばロシアにおいてさえも」(『料理女と人喰い』)




p.130


観念的倒錯は、「料理女」を「私たち」という名の下に収奪し、「真理」の名において利用する。それは「革命エリート」が「人を貪り喰う」前段階である。
収容所群島』を書いたソルジャニーツィンは「嘘だけはよそう」と書いていた、とある。もはや「私たち」はレーニンアジテーションを信じることはできない。
嘘だけはよそう、「私たち」は「あなたたちの私たち」と違うのだから。
強要はよそう、「私たち」は「あなたたちの私たち」と同一化する義務は一切ないのだから。

グリュックスマンは「全体主義を戸外に追い出せ? ところが全体主義はそういう者たちの戸口に来ているのだ!」と語る。




p.132

アンドレ・グリュックスマンが書いたフーコー追悼文『<測量士フーコー』の仏タイトルは「En horreur de la servitude」であった。



[関連エントリー]

ユートピアの冒険 (知における冒険シリーズ)

ユートピアの冒険 (知における冒険シリーズ)

*1:山猫スト、自主管理闘争、移民労働者の闘争、少数民族の闘争、学校・牢獄・精神病院などの反乱、性的自由への闘争など」(『分子革命』)