HODGE'S PARROT

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偶発性とスキゾフレイニー

tummygirlさんの「理論」に対する僕の「異論」への反論であるが、やはり、どうしても、納得がいかない。
なにより、「嗜好」を持ち出す「メリット」が理解できない。異性愛規範へ抗するのに、どうして、SMや「髭好き」といった「嗜好」が持ち出されるのか。

異性愛」が<嗜好>になれば、同性愛への差別がなくなるのか。
現実的に、異性愛/同性愛が、SMや「髭好き」といった<嗜好>と「同列」になるとは、思えない。
むしろ、歴史的には、異性愛の「代補」である「同性愛」が、「単なる<嗜好>」として、見なされてきた結果、「同性愛者」の社会的「認知」が遅れた、というのが本筋だろう。だから、現在西欧やアメリカでは、「同性愛」が「異性愛」と(完全ではないが)同等の<資格>を持つ、<指向>として「認知」され、同性結婚同性カップルの法的認知、経済・社会的保障が認められてきた。

しかし、tummygirlさんは、同性愛/異性愛を、SMや「髭好き」といった<嗜好>と同列に置くことによって、異性愛規範を「脱構築」できると理論づけている。

tummygirlさんは、セクシュアリティが「生まれつき」であるという「認識」を否定する。セクシュアリティは「選択」であるとする。
確かに、同性愛も「ライフスタイル」としては「選択」なのかもしれない。しかし、性<指向>に関しては、「選択できない」というのが、僕の意見だ。

もちろん、tummygirlさんの「理論」は、とてもわかる。それは、ジュディス・バトラーの<ジェンダー>論において、ジェンダーを偶発的、反復的とする論旨に、僕もある程度通じているからだ。
しかし、バトラーのジェンダーの「脱構築」は、ジェンダーが「社会的構築である」という前提に対して、戦略的に行われたものだ。従来のジェンダーという「語彙」を撹乱させ、カテゴリーを揺さぶる、そこから新たな思考が生まれのではないかと。
ただ、ジェンダーという、もともと「社会構築的」なもの──特に女性にとっては「押しつけられたもの」というイメージがある──と、性対象という「欲望」は同じものとして、バトラー流の「撹乱」の対象になるのだろうか?

なるほど、「同性愛」のイメージはネガティヴなものとして、社会的・歴史的に「構築」されているかもしれない。しかし、それでも、同性を愛するということは、本能的、本質的、「生まれつき」なものであるからだ。ジェンダーに対しては、社会構築的な立場を理解するが、欲望に対しては、僕は「本質的」立場である。だから僕は、異性愛/同性愛を<指向>であるとみなす。

しかし、tummygirlさんは、そういった<指向>を「特権化」することを否定する。それは、SMや「髭好き」といった<嗜好>を「抑圧」するからという理由で。また「生まれつき」でない<偶発的>な同性愛/異性愛を「抑圧」するからという理由で。

そうだろうか。<指向>にあてはまらない<嗜好>がすべて、排除/否定されるものではないのだろうか。現に、「男女カップルのSM愛好家」は、「結婚」ができる。社会保障も受けられる。しかし同性愛者は「SMをする/しないにかかわらず」、「結婚」はできない。社会保障も受けられない。問題はSMをするかしないかという<嗜好>ではなくて、やはり異性愛/同性愛の「間」にあることなのではないか。

また、<指向>に特権化・抑圧を感じるならば、逆に同じように僕は<嗜好>という「言葉」の<強制的使用>にも「抑圧」を感じる。なぜならば、僕は、セクシュアリティ(ここでは<嗜好>ではない、同性か異性であるかという<性対象>のこと)を「選択」した覚えが<ない>からだ。精神分析的語彙を用いるならば、僕は「異性」を性的ファンタジーに呼び寄せたとしても、それは、ことごとく「失敗」に終わる。しかし、SM的シチュエーションや「髭のある/なし」ならば、それが「同性に対して」ならば、ときにOKだ。僕は、<嗜好>それ自体を「抑圧」をしていない。<指向>を主張するからといって、「予めの排除」が起きるとは限らない。
さらに言えば<嗜好>において、完全な「偶発性」を保証することに問題はないのだろうか。これは「レイプを扱ったポルノ」を見れば、レイプが起こる、という議論に絡めとられないだろうか。レイプをする/しない、は性嗜好とは別の「カテゴリー」、例えば「良心」と「恐怖」とかそれ以外の「カテゴリー」との関連なのではないだろうか。

そして、同じ<嗜好>でありながら、しかし異性愛の「その嗜好」と同性愛の「その嗜好」では、完璧に差別的な処遇をもたらすものがある。それはペドフィリアの問題である。
アメリカの事例(だから州による)であるが、同じティーンネイジャー同士のセックスであっても、同性愛間と異性愛間では、まったく法の裁きが異なる。もちろん、同性愛間の方が罪が重くなる──懲役が長くなる。17歳の少年が、12歳の少女と「合意の上」性関係を結んでも、重くてもせいぜい数ヶ月の懲役であり、保護観察ので済む場合もある。

しかし、(正確な年齢を忘れたが、だいたい)17歳の少年が12歳の少年にフェラチオをして、現在懲役12年(それ以上かもしれない)の判決に服している。
これは<嗜好>の問題ではなくて、やはり同性愛か異性愛であるかの「指向」の問題である。
だいたい、同性愛者への攻撃材料の一つの「根拠」として、かつては──つまり「指向」と「嗜好」が区別されていないとき──年少者への「堕落行為」(性行為)が、まことしやかに唱えられていた。

言うまでもなくペドフィリア異性愛にも多いのに──少女への猥褻行為はほとんど毎日報道されている──、それが「異性愛批判」(男性異性愛者批判)にはなってはいない。
こういった問題があるからこそ僕はtummygirlさん「理論」には賛成できない。

だいたい不用意に、様々な「性的嗜好」を持ち出されることによって、同性愛者に対する差別がかえって「見えなくなってしまう」ということを、僕は危惧をしている。

「偶発的」なのは、人が異性愛者として生まれるか、同性愛者として生まれるかあって、そこには「選択」の余地はない。「選択」するのは、今日はSMを「プレイ」し、明日は別の「プレイ」をチョイスするだけだ。

「抑圧」は、SMをするかしないかではなくて、同性愛が異性愛か、ということにおいて生じると思う。