HODGE'S PARROT

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肉体性の「異教徒たち」

そうか。(ある)「やおい論」を批判するということは、結果として、それが一つの「やおい論」になってしまうのか……。
それは、(ある、特定の)フェミニズム理論批判が、もう一つの「フェミニズム理論」(の構築)であるように。

それでちょっとドゥルシラ・コーネル『脱構築と法』(仲正昌樹監訳、御茶の水書房)をパラパラとめくっていたら、示唆的な部分があった。たたき台として、とりあえず引用だけしておきたい。

規範が男性的なものの変装であることはマッキノンによって暴かれた。すなわち、中性性とは女性の従属を覆い隠すために用いられる「彼らの」イデオロギーである。しかし、こうした暴露は、それが単に、彼らの現実、男性的なものをそのまま残し、それと共に、彼らの優越性に対して劣ったもの、彼らの規範に対する逸脱、彼らの存在に対する欠如として女性的なものを排除するだけなのであれば不十分である。そうではなく、私たちは女性的なもののメタファーの内部で円を描いていなければならない。しかしこの旋回は単なる反復ではない。なぜならそれは、家父長制とは異質な仕方で、そして、残念ながらマッキノン自身の立場とも異質な仕方で女性的なものを肯定するからである。

p.327-328

自己が対象に負かされてゆくという意味において、書き手はコントロールを失う。書き手は、能動的な「知る者」であるよりも受ける者となるのだが、この受容は受動的ではない。何かと同化することは、大文字の他者を他なるものとして受容することを要請する。

p.330

……男性にとってはなぜ、「ファックされること」が世界の終わりなのだろうか。すぐ分かる答えは、それは女性に起こることだから、というものである。女性に起こることはすべて、男性「存在」の名の下に避けるべきものである。そのようにして彼は自分が男性であることを知るのであり、それが自分に起こらないようにするのである(これは、ゲイの男性に対する同性愛嫌悪の部分的な説明となるだろう)。しかしなぜ「ファックされること」は世界の終わりなのだろうか。なぜ私たちは、あらゆる形の抑圧を「ファックされる」という言葉で考えるのだろうか。これは「ファックされること」の問題なのか、それとも、男性的なものを、そしてそれと共に自己を、「ファックされる」ことのないものとして定義するジェンダー表象システムの問題なのだろうか。

p.336-337

私たち自身のそれのようなジェンダー表象システムにおいては、私たちは異性愛を選択するのではないという点については、私はまったくマッキノンと同意見である。自分のセクシュアリティを異なった仕方で定義しようとする者が拘束を受けるというこの現実は、意味のある選択を不可能にしている(それゆえ、同性愛も選択できない。「性的指向」という語に内在するイデオロギーイデオロギーとして現われているのである)

p.337-338