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われもまたアルカディアにありき 〜 『回想のブライズヘッド』



岩波文庫より、小野寺健 訳のイーヴリン・ウォー『回想のブライズヘッド』(Brideshead Revisited, The Sacred & Profane Memories of Captain Charles Ryder吉田健一 訳では『ブライヅヘッドふたたび』)が出た。僕にとって、グッとくる小説だ。

回想のブライズヘッド〈上〉 (岩波文庫)

回想のブライズヘッド〈上〉 (岩波文庫)

まだ本の画像が出ていないようなので(そのうち出るだろう)、岩波文庫版(上)のカヴァーで使用されているヘンリー・ラム(Henry Lamb、1883 - 1960)が描いた、いかにも「生意気そうな」若造、若干26歳のイーヴリン・ウォー肖像画と、それと同時期の写真を貼っておきたい。

青春の倦怠──これほど類のない、純粋なものがあろうか! しかもそれはたちまちのうちに失われて、二度と帰っては来ない! 情熱、惜しみなき愛、幻想、絶望──倦怠以外のこういう古来の青春の特質は、どれもみな一生われわれにつきまとう。こういうものは人生そのものの一部なのだ。
ところが倦怠──まだ疲れていない筋肉の弛緩と、ただひとつ切りはなされてじっと自己を眺めている精神、これは青春だけのものであり、青春とともに息絶える。天国と地獄のあいだの辺土にとじこめられた古代の英雄たちは、神を見る幸福を許されない代わりに、これに似た代償でもあたえられているかもしれない。あるいは神を見ることのできる幸福自体にも、倦怠という地上での経験とわずかに通じるものがあるのではないか。とにかくこのわたしは、ブライズヘッドでの倦怠の日々に、天国にきわめて近い幸福を味わったのだった。




イーヴリン・ウォー『回想のブライズヘッド(上)』(小野寺健 訳、岩波文庫) p.149

それで、『Brideshead Revisited』と言えば、ジュリアン・ジャロルド/Julian Jarrold 監督、マシュー・グッド/Matthew Goode(チャールズ・ライダー)、ベン・ウィショー/Ben Whishaw(セバスチアン・フライト卿)、ヘイリー・アトウェル/Hayley Atwell(レディー・ジュリア・フライト)、エマ・トンプソンEmma Thompson(レディー・マーチメーン)ら出演の映画だ

[Brideshead Revisited]

Brideshead Revisited Trailer


昨年、イギリスとアメリカで公開されて好評だった。日本ではいつ公開になるのだろうと──そして邦題は『ブライヅヘッドふたたび』なのか、それとも『回想のブライズヘッド』なのか、あるいは『ブライズヘッド・リヴィジテッド』なのか、まさか『華麗なる貴族 part2』ではないよな、とか──とても楽しみにしていたのだが……。
……スルーされて、しかも『情愛と友情』という不思議なタイトルで──いや、わかるよ、主役のチャールズ・ライダーがセバスチアン(男)と、ジュリア(女)の二人に惹かれるのだから、でもなあ──3月にDVDが出るようだ。映画館で見たかった。

情愛と友情 [DVD]

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ところで、岩波文庫版『回想のブライズヘッド』の解説では、訳者の小野寺健氏が興味深い指摘をしている。イヴリン・ウォーは「そのエキセントリックな」言動によって、どちらかというと「保守反動」の謗りを受ける場合が多く、『ブライズヘッド』も貴族の栄華盛衰と宗教的な信念(カトリシズム)が重要なテーマになっている──旧約聖書の「エレミヤの哀歌」が通奏低音のように引かれる。しかしそんな『ブライズヘッド』を、意外にも、「左翼とみられていた」ジョージ・オーウェルが賞賛したそうだ。一方、ウォーもオーウェルの『動物農場』を賞賛したという、意外にも。

そういえば、ジジェクも『信じるということ』の最後で、レーニン的革命とキリスト教をショートさせながら、ウォーの『ブライズヘッド』に言及していた──「意外な例」として、つまり共産主義革命家は「革命闘争と別個の道徳規則のアプリオリな集合を認めない」とレーニンが強調したように……そしてそれこそがキルケゴールが「宗教的停止」と呼んだものの革命版なのではないか、と。

小説の結末で、ジュリアはライダーとの結婚を断る(二人ともそれぞれの結婚相手と、まさに二人のことが理由で離婚したばかりだったのに)。ジュリアが皮肉をこめて、自分の神との「個人的事情」と呼ぶことの一部として。ジュリアは堕落して誰とでも寝るが、自分にとっていちばん大事なこと、つまりライダーへの愛を犠牲にすれば、まだチャンスはある……。


この解決の倒錯したところは、それをしかるべき脈絡に置いた瞬間、明らかになる。最後にライダーに話すときに、自分で明らかにしているように、ジュリアは自分が堕落して誰とでも寝る女だということは重々承知していて、ライダーを振った後、数々のどうでもいい情事をもつことになることも承知している。ただそれらはどうでもいい。それらは、神の目から見て、取り返しのつかないやましさにならないからだ。ジュリアがやましいと思うとすれば、それは、神への献身以上に唯一の本当の恋人に特権を与えたとしたらのことで、最高の善の間で競争はあってはならないのだ。ジュリアはかくて、堕落した誰とでも寝る生活が、自分にとっては神の目から見て赦されるチャンスを残す唯一の方法である。

「神」は結局のところ、意味のない犠牲、つまり自分にいちばん大事なものを放棄するという純粋に否定的な身振りを表す名前である。


そこに見られるのは、倫理的なものを宗教的に停止する、いちばん純粋な例である。倫理的立場からすれば、もちろん、ジュリアの選択は無意味である──結婚する方が、婚外の乱交よりもはるかにいい。ところが厳密に宗教的な立場からは、結婚の貞節を選択すれば、最大の裏切りになったかもしれない。宗教的なものと倫理的なものとのこのような緊張は、たぶん、モダンを定義するものだ。モダン以前の時代には、それが発生する場所は、文字どおりなかった。


まさにその意味で、キリスト教は、まさにその発端からして、まさにモダンの宗教である。〈法〉の停止というキリスト教の概念が狙っているものは、まさにこの、道徳的規範の領域と、〈信仰〉、つまり無条件の関与との隙間である。




スラヴォイ・ジジェク『信じるということ』(松浦俊輔 訳、産業図書) p.159-160

「……どっちの方が幸福か、ぼくにはわからないね。とにかくどういう見方をするにしろ、こういうことと幸福とはあまり関係はない。それさえわかっていれば、ぼくはいい。……もっと、カトリックの人間が好きになればいいんだが」
「べつに、ほかの人たちと変わってもいないじゃないか」
「いいかいチャールズ、まさにそこが変わってるんだよ。とくに彼らが少数のこの国ではね。……。ただ、人生観が、ほかの人間とはまったく違うんだ。カトリックの人たちは、ほかの人たちと違う問題を重視する。それをなるべく隠そうとするんだが、どうしても出ちゃうんだ。隠そうとするのも、まあ、当然だ。




イーヴリン・ウォー『回想のブライズヘッド』 p.p169-170

信じるということ (Thinking in action)

信じるということ (Thinking in action)






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