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Hub U.K とネットワーク・ヨーロッパ



先日、マーク・レナード/Mark Leonard について書いたが、彼が2000年に来日した際に慶應義塾大学で行った講演録がドットジェイピーに掲載されていた。


9.11以前の講演ということで、現在からすれば楽観的と言えないこともないが、それでもなお、興味深い提案がなされている。とくに「英国に関して何ができるか」という議案で、具体例を挙げながらまさしく「英国をプレゼン」していくのはさすがだ。米国との比較もきっちりと述べられている。『登録商標ブリテン』(Britain TM : Renewing Our Identity)を著した人物だけのことはある。

まず最初に、Hubとしての英国ということです。Hub U.K。つまり、英国は確かに島ですが、決して孤立していたわけではありません。むしろ、この大陸のどの国よりも他の国とつながっています。Hubとして中心時として商品とかメッセージ、アイデアが交換されるところ。ヨーロッパとアメリカの橋、架け橋、南北、東西をつなぐものでした。これは歴史の中でもそうでした。大英帝国でさえ、これもまた、この海底ケーブルから、それから無線網、そして貿易航路、様々な交流が行われました。そして、今でも大勢の移民が入ってくる国であり、また多くの投資も行われており、インド料理から日本のメーカーまで様々な文化が流れ込んできます。


そしてかつてないほど、このHubとしての性格が強くなっており、そこで我々としてはこの性格を訴えつつ、一方で、EUに加盟したということから、ジャパンテレコムの株式を獲得することを通じまして、電気通信業界の強さとか、あるいは英語の成功とか、そういったこと、あるいは輸出入、そして人々の出入り、そして迅速さ、そして軽さ。こういったことを表そうとしました。それからハイブリッド国家であるということ。つまり多様な要素が一つになっているということです。
しかしアメリカのようにるつぼではありません。いろんな背景や民族の人たちが一つの国にやってきて、一つの型にはまるということではなく、むしろ多様性の中で繁栄している、そして自らを常に新しく再生していくという国です。

そしてレナードは『アンチ・ネオコンの論理 ヨーロッパ発、ポスト・アメリカの世界秩序』(Why Europe Will Run the 21st Century)で、「ヨーロッパをプレゼン」している。EUとは条約/法によって結ばれた国家のネットワークである──それは「立派な」連邦ではない、ときにひとつの国家のようにふるまい、そしてときに加盟国はバラバラに動く。

「ネットワーク・ヨーロッパ」の強さは、異なる国が、異なる問題に、異なる重点を置いているにもかかわらず、いかに強力な国といえども、他国を無視することができない点にある。これこそが、各国の政府や人々がEUを受け入れるようになってきた理由なのである。その脆弱な正当性は、個々の国々がいつも無視されていると感じたら、砕け散ってしまうだろう──スコットランド人が圧倒的に労働党に投票しているにもかかわらず、イギリス全体としては永久に保守党政権がつづくのではないかと思われたとき、多くのスコットランド人が、スコットランドがこの先もイングランドと一緒にやっていかなくてはならない理由があるだろうか、と考えはじめたように。


直接選ばれた欧州委員会委員長、あるいは、ヨーロッパの高官を選出し、立法を先導する権力を有する欧州議会をつくることによって米国憲法を真似れば、ヨーロッパを機能させてきた諸状況を破壊するであろうことを、憲法制定会議は認識していた。新しい問題にとり組むために柔軟に進化できる力。すべての加盟国が、その多様な利害を反映させられるように多極化した権力機構。国家の民主主義とアイデンティティへの敬意。




マーク・レナード『アンチ・ネオコンの論理』(山本元 訳、春秋社) p.131-132

アンチ・ネオコンの論理―ヨーロッパ発、ポスト・アメリカの世界秩序

アンチ・ネオコンの論理―ヨーロッパ発、ポスト・アメリカの世界秩序



また、『アンチ・ネオコンの論理』の訳者の山本元氏がその解説で、EUの政策は決して「美しいもの」ではないと断った上で、ロバート・ケーガンの『ネオコンの論理』で提示される「論理」とは別の「論理」による秩序の可能性を示そうとするレナードの姿勢を、とても印象的に描いている。

映画『ヴィトゲンシュタイン』の最後に、友人であるケインズが死の床にあるヴィトゲンシュタインに、ある寓話を語るシーンがある。

こんな話がある。昔々、世界を一つの論理にしようとした若者がいた。頭のいい彼はその夢を実現し、一歩下がって出来栄えを見た。美しかった。不完全も不確実なものも無い世界。地平線まで続くきらめく氷原。若者は自分の世界を探索することにした。踏み出した彼は仰向けに倒れた。摩擦を忘れていたのだ。


氷はツルツルで汚れもなかった。だから歩けない。若者はそこに座り込んで、涙にくれた。でも年をとるにつけ、彼にはわかってきた。ザラザラは欠点ではなく、世界を動かすものだと。彼は踊りたくなった。地面に散らかった物や言葉は、汚れて形も定かではなかった。賢い老人は、それがあるべき姿だと悟った。それでも彼の中の何かが氷原を恋しがった。そこでは、すべてが輝き純粋で絶対だった。ザラザラの地面はいいが、彼には住めなかった。そこで彼は地面と氷の間にいて、どちらも安住できなかった。それが彼の悲しみのもとだ。


この「涙にくれる若者」は、訳者には、まるで泥沼化したイラクを前にしてもなお「氷原」を恋しがる新保守主義者のように思える。この寓話に出てくる「不完全も不確実なものも無い世界」とは、世界を一冊の本に閉じこめてしまおうとしたヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』なのだが、これがちょうど、ケーガンの『ネオコンの論理』とダブってくる。パワーの論理で、単純に世界を描ききったあの書物に。そして、その書によって突きつけられた「論理」を前に、われわれは「他に国際秩序の論理はないものか」と途方にくれているのだ、と。





『アンチ・ネオコンの論理』解説より p.251-252

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