HODGE'S PARROT

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立体幾何学



装丁が綺麗だな、と、写真を撮ってからページを開いたイアン・マキューアンの短編集『最初の恋、最後の儀式』。*1

最初の恋、最後の儀式 (Hayakawa novels)

最初の恋、最後の儀式 (Hayakawa novels)


最初の「立体幾何学」(Solid geometry)に眼をやったところ、一気に読んでしまった。こんなに凄かったんだっけ、イアン・マキューアンって? 「立体幾何学」は次のようにさりげない感じで書き出される。

1875年、メルトン・モーブリイで行われた”価値ある古物”の競売会で、友人Mを伴った私の曾祖父は、ホースモンガー監獄で1873年に死んだニコルズ船長のペニスを落札した。そのペニスは、長さ十二インチのガラス瓶に入っていた。当夜の日記に曾祖父が記したところによれば、”保存状態は良好”であったという。”競売にはレディ・バリモアの、どことはいわぬ肉体の一部も出品されたが、こちらのほうはサム・イスラエルズが五十ギニーで落札した”とも書かれている。私の曾祖父は、ペニスとそれを二つ一組で手に入れようとしたらしいが、Mの説得であきらめた。そのことから二人の関係も想像がつくのではないかと思う。




「立体幾何学」(『最初の恋、最後の儀式』より、宮脇孝雄 訳、早川書房) p.9


凄く上手い。この短編は1970年代前半に書かれたもので、今でこそブッカー賞作家という地位にいるマキューアンであるが、このときはまだイースト・アングリア大学University of East Anglia、UEA)の修士コース在学中だったという。
宮脇孝雄氏による「訳者のあとがき」に作家マキューアン誕生が詳しく書かれている。これによるとUEAは1964年に設立された新しい大学で、そのモットーは「Do Defferent」、大学側はアンガス・ウィルソンとマルカム・ブラッドベリを文学部教授に迎えていた。そしてウィルソンとブラッドベリはイギリス初の創作コースをUEAに設けることに腐心していた──アメリカと違って英国には創作コースという伝統がなかったのである。

当時は、イギリス文学の沈滞がささやかれ、フランスで流行していたロラン・バルトなどの新しい文学理論を教えつつ、ブラッドベリ教授はむなしい思いをしていたという。教室では、テキスト理論によって「作者は死んだ」といいながら、家に帰ればその作者になって小説を書いていたのだから、フラストレーションは溜まる一方だった。当時を回想して、ブラッドベリはこう書いている。

「私たちの想像を絶していたのは、創作コースというものにイギリス人が抱いている反発の強さであった。一般に創作コースは、真空掃除機やフラフープと同じ危険なアメリカの発明品であり、イギリスの大学の文学部に組み入れるべきものではないと見なされていた」(Class Work 編者前書き)


「訳者のあとがき」より p.239-240


しかし……創作コースに応募する学生がなかなか現れなかった。学生が集まらなければ、当然、コース自体が打ち切りになる。そんな中、ギリギリの時間になって、一人の学生から入学を希望する電話が入る。彼こそがイアン・マキューアンで、ブラッドベリ教授自らが電話口に出た。こうしてマキューアンは第1回講座の唯一の学生になった。そしてこの創作コースは、以後、UEAの看板講座となる……カズオ・イシグロやアンドルー・コーワンなど著名作家をぞくぞくと輩出し、今では「UEAマフィア」なる呼び名もあるそうだ*2


「立体幾何学」は高度なテクニックに裏づけされた完璧な短編だと思う──テーマはかなり「異様なもの」であるが。

著名な数学者の集団が、まるで一つになったように揃って驚きの声を上げたのはそのときだ。ハンターの姿が消えていったんだよ。頭と足が輪をくぐると──いや、くぐるというより、何か目に見えない力で引きずり込まれるようだったらしいが──それについて彼はだんだんと見えなくなっていった。やがて……彼は消滅した。すっかり消えてしまって、あとは何も残らなかった。




「立体幾何学」 p.27

ところで、イアン・マキューアンのこの『最初の恋、最後の儀式』を手に取ったのは、ドリス・レッシングがノーベル文学賞が取ったからであるが……そういえば2005年の同賞はハロルド・ピンターHarold Pinter が受賞していた……そしてピンターと言えば──マキューアン原作の『異邦人たちの慰め』(The Comfort of Strangers)をポール・シュレーダー監督が映画化した際の脚本を手がけていたのだった*3


The Comfort of Strangers (Picador Books)

The Comfort of Strangers (Picador Books)


[The Comfort of Strangers (1990) ]



ルパート・エヴェレットが出演しているので、どのような「テイスト」なのかは言うまでもないだろう。クリストファー・ウォーケンの演技も──原作に忠実に、膨大な写真とともに──「異様さ」が漲っていた。

キャロラインは、メアリをさらに強く抱き寄せ、話を続けた。「そのうちに、ロベルトがあなたたちを連れてきたの。まるで神さまがあたしたちの計画に味方してくれたみたいだったわ。あたしは寝室を覗いた。そのことは隠さなかったわよね。そのときに、空想が現実になろうとしているのがわかったの。そんな経験、したことある?
まるで鏡の中に入っていくみたいな気持ちよ。




異邦人たちの慰め (Hayakawa Novels)』(宮脇孝雄 訳、早川書房) p.147


ただ、少し前になるが、たまたま図書館でフェミニズム系の論文を読んでいたところ、この『異邦人たちの慰め』に言及しているものがあった。細かいところは忘れてしまったが(著者とタイトルも)、要するに『異邦人たちの慰め』にはホモフォビアが見られるとの指摘があった。なるほど、と頷いた。





YouTube には『The Walrus』誌の Ken Alexander と対談をしているイアン・マキューアンの映像があった。意外にしゃべる人なんだな……ちょっと可笑しいけれど(笑)。

International Reading Series with Ian McEwan - Part 1

*1:この黒を基調に幻想的な写真をあしらった早川の装丁はとても気に入っている。『黒い犬』や『セメント・ガーデン』もグッドだ。

黒い犬 (Hayakawa novels)

黒い犬 (Hayakawa novels)

*2:UEA Creative Writing Course

*3:邦題『迷宮のヴェニス