HODGE'S PARROT

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一回限りの出来事は、愛の約束と告白に似ている




マルクス・アウレリウス『自省録』の一節。

人間の生命にあって、その年月は点であり、その地は流動するもの、感覚は混濁し、全肉体の組織は朽ちやすく、魂は激動の渦巻きであり、運命は窺いがたく、名声は不確実である。
これを要するに、肉体のことはすべて流れる河であり、魂のことは夢であり妄想である。人生は戦いにして、過客の一時の滞在であり、後世の評判とは忘却である。
しからば、われわれを護衛しうるものは何か。一つ、それもただ一つ、哲学のみである。




マルクス・アウレリウス「自省録」 (講談社学術文庫)鈴木照雄 訳、講談社学術文庫)p.33


この皇帝マルクス・アウレリウスの、非常に印象的なモノローグを「護衛する哲学書」が、ウラジミール・ジャンケレヴィッチの『還らぬ時と郷愁』である。

マルクス・アウレリウスは、過ぎ去った時代のめまいのしそうな膨大さと人間の事象が虚無と化するという事実に鷹のように鋭いまなざしを投げかけ、これらのことについて次のような忘れ難いことばを残している。
ひとの一生の時とはなんだろう。ひとつのしみ。それでは、魂は。夢で煙。実体は、流れるもの。空虚の空虚。死後の名声がいかに響きわたっても、いかに栄光に輝く生涯も、砂漠の砂が驕り誇った東方の都を埋め尽くしてしまったように、忘却が覆い隠してしまおう。これらの色あせた栄誉がふたたび息を吹き返すことを可能とするような廃墟、思い出は年代の奥、世紀の無限の彼方に消え去ってしまった。かつての栄光を永遠に伝える名声の響きは、沈黙のなかに消えた。



ウラジミール・ジャンケレヴィッチ『還らぬ時と郷愁』(仲澤紀雄 訳、国文社)p.57-58

あたかも到来しなかったかのように──そしてこの「あたかも」は概算だ。

さらにジャンケレヴィッチは、第四章「逆行できないものへの同意」で、「逆行できないもの」に対する三つの態度を考察する。すなわち「抵抗」「なれあい」「同意」である。

逆行できないものに対する抵抗は、時の網のなかで絶望裡にもがく人間の悲哀をもっぱら表明する。逆行できないものとのなれあいは、むしろ、悲哀の告白できない恥ずべきかたちとも言うべき安堵を表明する。ただ逆行できないものへの同意のみが歓喜を生ぜしめることだろう。
歓喜とはごくまれに起こることを表すごく単純なことば、一瞬を表す単音節だ。




『還らぬ時と郷愁』p.238

一回限りの出来事の尖鋭な先端の出会い。一回限りの出現にすべてがかかっている。それは……「ほとんど無」である。

年月が積み重なり、世紀に世紀が、数千年に数千年が加わるにつれて、出現の”起こった”は雫に向かい、ついにはたんなる純粋の非実存と区別できなくなる。その出来事があたかもけっして到来しなかったように! 
ここで思い返そう。過去と未来の歴史の膨大なパノラマを凝視して、マルクス・アウレリウスは、どのようにして忘却がもっとも永続きする栄光さえも遅かれ早かれ虚無と化すか明らかにしている。後世の名声の空しさ! 虚栄の空しさ! マルクス・アウレリウスにおいて、そして『伝道の書』において、これらの雄大な展望のなかでは、歴史上の個々の出来事は知覚できないほどの一点に過ぎず、大帝国とかつての都市の遺跡がアジアの砂漠のなかに消滅したように、やがて記憶を絶した過去の夜に永遠に消える。


一回限りの出来事は、この点では、愛の約束と告白に似ている。ただ一回わたしの受けた愛の告白は、すくなくともほんのもう一度だけ繰り返されなかったならば、無限に疑わしく、曖昧だ。


(中略)


魂の尖鋭な先端も、出来事の尖鋭な先端に触れるにはけっして十分に鋭くはない。この測定することのできない先端とこの触知できない点との接触──これこそ曲芸を演ずるあらゆる繊細な精神のねらうところだ。




『還らぬ時と郷愁』p.241-243

エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。



コヘレトは言う。
なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。



見よ、これこそ新しい、と言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった。
昔のことに心を留めるものはない。
これから先にあることも
その後の世には誰も心に留めはしまい。



わたしは心にこう言ってみた。「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。


知恵が深まれば悩みも深まり
知識が増せば痛みも増す。




「コヘレトの言葉」(伝道の書)より


還らぬ時と郷愁 (ポリロゴス叢書)

還らぬ時と郷愁 (ポリロゴス叢書)