HODGE'S PARROT

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『ウルトラQ』から3つのエピソード


怪獣とプロレスをするウルトラマンの前史、というわけで敬遠──というか見くびっていた『ウルトラQ』であるが、いくつかのエピソードを見て、これは面白い、と素直に脱帽した。そこには、どこか懐かしいモダンな日本と科学信仰に対する健全な批判が描かれていた。今となっては古びたSF的ガジェットも、どこか懐かしく、カールハインツ・シュトックハウゼンの初期電子音楽を聴いているかのような趣きがあった。まだすべてを見ていないのだが『ウルトラQ』の中にも怪獣路線とそうでない路線があって、個人的には後者の『トワイライト・ゾーン』みたいな不思議系エピソードの方が、いまのところ気に入っている。
ウルトラQ』について……なんていまさらであるが、素直に見て面白かったので素直にその面白かったところを──つまり面白く感じたことを感じままに書いておきたい。


『1/8計画』
人間を1/8に縮小すれば今後訪れるであろう人口過剰問題、それに伴う資源問題を一挙に解決できる。1/8サイズの人間になって、1/8人間専用のS13地区の住民になれば、国民の三大義務から免れることができる──とくに勤労の義務と納税の義務からの解放が強調される。そういった触れ込みに被験者が殺到する。老いも若きも、夫婦も独身者も。産児制限はなく子どもは何人でもOK、全部政府が面倒を見る、そこはユートピアだ、というわけだ。
ではS13地区ではいったい何をすればいいんですか? とのS13地区入所希望者の質問に担当係員が「何でも好きなことを。絵を描いたり、学問の研究をなさったり」と真顔で応える。
そこへレギュラー登場人物で新聞記者の江戸川由利子が大勢の被験者の波に押し寄せられ、いつのまにか、本人の意思の確認(インフォームド・コンセント)もなされずに勝手に強引に1/8の人間に縮小させられてしまう。その後は、縮小された人間が、それに比して大きくなったモノ(電話機や鉛筆)と対比されたり、S13地区の市街地に戸川由利子を探しにきた仲間の万城目淳と戸川 一平が、映画『ズートピア』での「リトル・ローデンシア」に入り込んだジュディみたいだったりとシュールな映像表現を見せる。シュールといえば、1/8化された戸川由利子が入った鞄──内側はリカちゃんのドールハウスみたいになっている──を川で見つけるのが修道女、というのも映像的にシュールだった。

一見、楽園建設のような触れ込みの1/8計画であるが、S13地区の住民は元の名前が「消去」され数字の番号で識別されるという非人間さがあって、それは当時にあっては現実的だった共産主義国家への批判になっているのかな、と思ったが、しかし共産主義国ならば労働がないなんてことはありえない。1/8計画は、労働意欲のない国民を募り、その人たちを安楽死させるための計画なのではないかという思いがよぎる。そして労働意欲のない国民を釣るエサが「絵を描いたり」(芸術)だったり「学問の研究」というのもいろいろと考えさせられる。


『あけてくれ!』
誰かと思えば死神博士こと天本英世が異色のSF作家、友野健二役で登場する。このSF作家の暗い情念がこの物語の核となり、彼の本を読んだ人たちを突き動かす。それは、この現実社会とは別の、時空を超えた心地よく秘密めいた場所がどこかにあり、特別な電車が、特別に選ばれた人たちをそこへ連れていってくれる、というもの。
新興カルト宗教的な役割をここではSF小説が果たす、と考えればそれほど荒唐無稽な話ではなくなり、SF的ガジェットに託した救済の物語になる。夜空を走る電車は、厭世観渦巻くこの現実社会から、まだ見ぬ理想郷へと「読者」を連れて行ってくれる、そう信じるのだ。そう信じることによって、「あの場所」へ向かう電車の切符を手に入れる。友野健二が小説で描いた内容は、彼の経験に基づいた正真正銘の現実だった──ふと乗ったエレベーターが無限下降し、この世に嫌気がさした作家を別世界へと導いてくれた。

作家(教祖)と読者(信者)による、それ自体で完結し充足したフィクションの世界に亀裂が走り、現実社会と交錯するのは、「読者ではない」一人の酔っ払った中年サラリーマンが誤って別世界へと人々を運ぶ電車に乗ってしまったからだ(それによってレギュラー登場人物たちの介入が始める)。
そのサラリーマンはまだ現実世界を捨てることはできなかった。現実世界に未練があった。だから、未知の場所へ人々を運んでいく電車から降りようとし、ドア叩いて「あけてくれ!」と何度も何度も叫ぶ。電車の窓からは、家族をはじめ多くの人たちが、まるで軍隊に召集された人たちを見送る出征祝いさながらの様子で、日の丸の旗を振りながらサラリーマンに「行ってこい」とばかりに声援を送っているのが見える。この頃のテレビドラマには健全な反戦思想が視聴者の間で普通に共有されていたかもしれないが、そうだとしたら、このイメージには、戦死という、かつてあった現実を呼び起こさせるものであっただろう。

一旦は、異次元へと「読者」を運ぶ電車から飛び降りることができたサラリーマンであるが、自分のことを嘲り刺々しく非難する妻や娘、そして会社の上司の彼を蔑むかのような言動を目の当たりにしてこの現実世界に嫌気がさす。あの電車のことを思い出す。あの電車の中で友野健二が語ったことを思い出す。一度「そのような世界」の存在を知ってしまったサラリーマンは、もう元の自分に戻れない。会社を辞め、なんとかしてこの厭世観渦巻く現実社会からの逃避を図る。
夜空を見上げたサラリーマンの目に空中を走っていく電車が映る。サラリーマンは「連れて行ってくれ!」と叫ぶ。


『悪魔ッ子』
奇術師の娘リリーの精神と肉体が分裂する。精神は肉体の軛を逃れ、肉体の眠りとともに目を覚まし、夜な夜な徘徊する。肉体から解放された精神は、地上、水上、空中と、あらゆる場所に現れ、交通事故や航空機事故を引き起こす。大人にとってはガラクタにすぎない機械の部品やピン、ときには家族同然の魔術団の女性のブローチを手に入れるために、それらを所有している人を死に追いやって、自分の宝物としてそれら手に入れるのだ。ただし、リリー自身は分裂した精神がしていることを知らない。朝、目が覚めるとなぜかひどく疲れており、どういうわけか体が汚れていたり手に血がついていたりする。いつしかリリーの分裂した精神は、さらなる解放を目指して、その解放の邪魔になるリリーの肉体を死に追いやろうとする……。

というストーリーなのだが、リリーの身に起こる現象は二つ要因で説明される。一つは催眠術の依存による精神と肉体の分裂。もう一つは奇術ショーで披露される幽体離脱による影響。この二つはともに科学的な説明があるのだが、いまいちピンとこない。それは、科学的根拠の信憑性の問題ではなく、単に因果関係が明瞭でないからだ──催眠術で眠らされることで精神と肉体が分裂し幽体離脱が起こるのか、幽体離脱の結果として、それが精神と肉体の分裂を意味するものなのか。
幽体離脱とはそういうものだ、と言われれば、そうでしかないのだが、しかし、そうすると奇術ショーにおける幽体離脱(そのときリリーは催眠術で眠らされていない、覚醒している)はあくまでも「擬似幽体離脱」で、そこに何かトリックみたいなものがある普通の手品と変わらないはずだ。催眠術による「本当の幽体離脱」と奇術ショーにおける手品としての「擬似幽体離脱」は、それぞれ独立した手順を踏んだ結果であるにもかかわらず、相互に混同され、相互に影響関係があるかのように描かれることは、それぞれの科学的説明以前に気にかかるし、ひとたびそういうことが気になると、そのことだけがずっと気になる。

だからこう考えてみたらどうだろうか──と自分に語りかける。前半のリリーが空中や水上に現れる場面は端的にオカルト現象なので説明は不要、そういうものだと納得するしかない。語るべきは(このブログでぜひとも書いておきたいのは)後半で、これまで他人を死に追いやっていたリリーが、今度は自分自身に目を向け、自分自身を殺そうとすること、そこに戦慄を感じた、ということである。
前述したように幽体離脱という精神と肉体の分裂は父親である奇術師の催眠術が原因で、それにちょっとした科学的説明が加わるが、それはどうでもいい。なぜなら、精神と肉体が分裂したのならば、肉体側リリーには思考能力がないはずだし、そうであるならば、肉体側のリリーを陥れるために精神側のリリーが策を講じることができなくなるからだ。だからここは、マーガレット・ミラーの小説のように、人格の分裂、しかもそれがきれいに二つの対になって分離する二重人格と想定したほうがいい。AかBか。0か1か。そうすればこの『悪魔ッ子』は、マーガレット・ミラーのある小説を『鏡の中の他人』(邦題)として映像化したヒッチコック劇場のものよりも、はるかにマーガレット・ミラーの「あの世界」を、より効果的に、より繊細に、そしてより残酷に映像で描いているように思えてくる。最初は一つの肉体で共存していた「わたし」と「あなた」は、次第に敵対し、一つの身体というスペースをめぐる戦いになる。誰がリリーなのかという戦いになる。AかBか。0か1か。「わたし」か「あなた」か。
リリーはもう一人のリリーを殺そうとする。リリーは母親に会わせると言ってリリーを連れて行く。それは嘘ではない。母親はすでに死んでいるのだから。リリーとリリーは線路を歩いていく。列車が向かってくる。