HODGE'S PARROT

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ようこそ、この世界へ


2016年7月26日、神奈川県相模原市の障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で、その事件は起きた。激しいショックを受けた。19人が殺害され、26人が負傷したという事実だけでは捉えられない暴力と恐怖の世界に自分が生きていることを改めて思い知った。津久井やまゆり園で殺され、重傷を負わされた人たちは障害をもった人たちだった。加害者は障害をもった人を狙って犯行を企てた。抵抗するすべもない重度障害者を標的に選んだ。障がい者を殺すことが不幸を減らすことだと考えていた──社会もそれに同意するだろうと見積もっていた。「障害者は生きていても仕方がない」「障害者は安楽死させた方がいい」、そのように加害者は確信していた。障がい者を選別し、その抹殺を図り、それを実行したのだった。


相模原事件 兵庫県「不幸な子」生まぬ運動の過去 神戸新聞 2016/9/5

戦前には、障害児の出生の抑制を目的とした国民優生法(戦後は優生保護法)があった。96年、優生思想に基づく強制断種などの条文が削除され、母体保護法に改正されたが、経済的困窮や母体保護を理由にした中絶は今も認められている。
医療の進展で新たな問題も起きている。妊婦の血液から胎児のダウン症などを調べる新出生前診断が可能になり、2016年3月までの3年間で3万人超が受診。研究チームの調査では、染色体異常が確定した妊婦の94%(394人)が中絶を選んだ。



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渡部麻衣子・玉井真理子『出生前診断とわたしたち 「新型出生前診断(NTPT)が問いかけるもの』を中心に、「出生前検査の対象」とされるダウン症について整理しておきたい。

出生前診断とわたしたち―「新型出生前診断」(NIPT)が問いかけるもの

出生前診断とわたしたち―「新型出生前診断」(NIPT)が問いかけるもの

19世紀後半、イギリスの医師ジョン・ラングドン・ダウンが「ダウン症」を「発見」した。これは当時の英国の社会福祉政策の進展とともに、精神障がい者と知的障がい者を明確に区別する必要が指摘され、知的障がい者を対象とした収容施設が開設されたことによる。知的障がい者に特化した(知的障がい者を隔離する)王立アールスウッド病院の医長に就任したジョン・ラングドン・ダウンは、適切な医療的ケアを提供するために、知的障がい者を分類することを提案した。彼は分類の体系を「人種概念」に求め、観察対象者を身体的特徴に基づき5つの人種型に分類した。ダーウィンの『種の起源』は1855年に発表されている。
ジョン・ラングドン・ダウンの「観察」により現在ダウン症と呼ばれている人たちは「発見」され、集団として認識される。「観察する側の人間」であるダウン医師による観察対象者の事例は、人種概念への新たな視座をもたらすことになる。すなわち、人種は不変ではなく可変であるということだ。なぜなら、我々のなかに「退化」の特徴を引き継いだ型を持つ人間の事例を得たのだから。彼の「業績」は次のようなものである。

つまりダウンは、人種の違いは進化の結果であると主張した。ダウンがその主張の根拠とした「退化の事例」こそが、彼が「蒙古型」に分類した、現在では「ダウン症」と呼ばれる集団の存在であった。
ダウンは「蒙古型」の身体的特徴を次のように表現している。


「顔は平で広く凹凸が少ない。顔は丸く、横に広がっている。目の幅が正常よりも広い。瞼裂は非常に狭い。前頭には皺があり、唇は大きく分厚く横に裂けている。舌は長く、太く、丸い。鼻は小さい。肌は若干汚く黄色みがかかっており、身体に対してはおおきすぎるために、弾力に欠ける。」


こうした身体的特徴を踏まえた上で、患者はヨーロッパ人の子どもとは思えず、その人種的特徴は「退化の結果」であることは「疑いようがない」と論じた。そしてダウンは、この「退化」の証拠を発見したことが、論文の重要な成果だと主張した。なぜならそれこそが、「進化」を通じた人種の「連続性」を証明するからだ。



出生前診断とわたしたち 「新型出生前診断」(NTPT)が問いかけるもの』(渡部麻衣子・玉井真理子、生活書院)p.53

このジョン・ラングドン・ダウンの観察は、何よりも身体的特徴を詳細にあげている。彼の患者たちが、「正常」とは、すなわち一般的なヨーロッパ人の身体とは、どれほど異なっているのかを事細かに描いている。それが彼の「発見」なのである。これは一方で「望まれない身体」というものがどのように理解され、それがいかに「可変的」なものであるのかという理解にも繋がるだろう。ヨーロッパ人の中から、典型的なヨーロッパ人とは異なる身体を持った人たちが生まれてくる──それは「退化」の徴であり、それゆえその人たちを「蒙古型」と名付けたのである。

  • 論理的な分類体系

1959年、フランスの遺伝学者ジェロム・ルジェンらが染色体の異数性に基づき「蒙古症」を再定義した。染色体21番のトリソミーが3本あること、である。それが「異数性」と呼ばれる状態である。分類が次なる分類を可能にする。「蒙古症」の症状から、染色体の状態に基づく診断が可能になる。直接症状を診ることができない胎児の診断が可能になる。染色体の異数性という遺伝学に基づく論理的な分類体系を獲得したことにより、その結果として、「ダウン症」は1960年代後半に羊水検査がはじまって以降、出生前検査の対象となった。「染色体21番のトリソミー」として括られる人たちの「生」が本人たちの意識とは無関係に問題化される。「生のあり方」それ自体が問題化される。それは「産まれるべきかどうか」の検討の対象になることだ。「どの」生のあり方が「産まれるべきかどうか」の検討の対象になるのか。どのように「ある」ことが認められ、どのように「ある」ことが認められないのか。それは現に今、「この世界」で生きている「その人たち」の生に、どのような評価を与えていることになるのか。

  • 中絶を前提にした経済効果、中絶を前提にしなければありえない出生前検査の意義

母体血清マーカー検査の開発に携わった英国の公衆衛生学・疫学の専門家ニコラス・ヴァルドは、2008年に英国学士院会員に選出され、勲章を授与された。ヴァルドとデーヴィッド・ブロックは共同で研究を行い、1974年に「母体血清中の胎児蛋白を指標とする二分脊椎症と無脳症出生前診断」を発表した。二人はその後、ダウン症胎児に目を向ける。ヴァルドらの研究チームは国の支援を受ける。英国では1990年代を通して、ダウン症に代表される染色体の異数性を対象とする母体血清マーカー検査は、妊娠中に受ける一般的な検査の一つとして定着した。ヴァルドらは出生前検査の意義を次のように表明する──それは、染色体の異数性を持つ胎児の出生を減らすことによる経済効果にある、と。

ヴァルド等は、1984年の論文の結論において、彼らの推奨するコストは、ダウン症の子どもたちのための特別なケアにかかるコストに照らして考慮されるべきだろう」として、検査を提供する意義を強調した。また、ヴァルド等の主張を支持したかつての共同研究者であるブロックは、同年発表したレターの中で、「検査の意義は経済効果にある」とし、「ダウン症出生率を下げる機会が、感情的理由のために失われるのは残念だ」と述べている。ヴァルド等は、臨床応用の契機となった1988年の論文の結論においては、さらに具体的に、彼らの主張を政策的に応用すれば、「年間900あるダウン症児の出生を350にまで減らすことができるだろう」と結論している。
彼らが主張するように、検査が「経済効果」をもたらすためには、胎児にダウン症のある妊娠は中絶されなければならない。これらの主張からは、開発者等が、胎児にダウン症があった場合に妊婦が人工妊娠中絶を選択することを当然視していたことがわかる。


出生前診断とわたしたち』p.60-61

この経済効果を煽る人工妊娠中絶の推奨は、現在ならばネオリベラリズム政策の典型と見なされるだろう。このことは絶対に覚えておく必要がある。ネオリベラリズムを「局所的に」捉え、何がそれと「親和的であるか」を告発する機制において、この事例は、そのネオリベラリズム批判においてもはや漏れてはならないものなのである。

  • 性別を理由とした人工妊娠中絶との比較

米国産科婦人科学会(ACOG)と米国遺伝医学学会は、2007年と2008年のそれぞれガイドラインにおいて、年齢に関わらず、すべての妊婦に「染色体異常」のスクリーニング検査を提示することを推奨した。それに対し、ブライアン・スコトコ医師は「ACOGは、性別を理由とした人工妊娠中絶は、”セクシストの価値観をゆるし”、”性差別がたやすくはびこる風潮”をつくるという見解を示したが、それとは対照的に、ダウン症の出生前のスクリーニングを支持することで、障害者差別がたやすくはびこる風潮は是認しているのだろうか?」と指摘している。スコトコ医師は妹がダウン症であることを公表している。スコトコ医師はダウン症に関する、医療側ではなく親の側から見た「ダウン症の告知」の実態を調査し、それを論文として発表した。


性選択による選択的人工妊娠中絶と障害による選択的人工妊娠中絶を比較をした論文に、笹原八代美『選択的人工妊娠中絶と障害者の権利 : 女性の人権の問題としての性選択との比較を通して』がある。 http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/3383/2/SR0002_160-181.pdf

写真家のリチャード・ベイリー(Richard Bailey)は、365人のダウン症の子どもたちのポートレート作品〈365〉を発表した。ダウン症の娘をもつベイリーは述べる。「イングランドだけで、毎日一人か二人の子どもがダウン症を持って産まれて、それらの子ども達が実際には互いにどれほど異なっているのか」と。「多くのダウン症のある子ども達と出会うことで、子ども達には幅広い可能性と障がいがあるということを知らされた」。
また、エメル・ジレスピー(Emer Gillespie)は〈あなたを撮るわ、私を撮って(Picture You, Picture Me)〉で医学の「まなざし」と家族の「まなざし」の差異を表現する。

「私写真」に分類されるこの作品では、同じ構図の中で、ジレスピーと娘が撮影者と被写体の役割を交互に演じている。撮影者と被写体が交互に入れ替わることを通して、作品は、撮る側と撮られる側の関係性を問うている。また、同時にそこからは、異なる意思を持つ存在としての親と子の関係性についてのメタファーを読み取ることができる。作品中には、娘にダウン症があることが全く表されていない。しかし、それがダウン症に関するプロジェクトの中に位置づけられることで、医学が「ダウン症」と分類する「生」に対して、分類することのない「まなざし」の存在が効果的に表現されている。ジレスピーの作品に代表される、プロジェクトで発表された「私写真」は、家族写真が「証拠」として表象する「健全」な家族関係を構成する要素を抽出して表すことで、「ダウン症」を「異常」として分類する医学の「まなざし」を問い直す。



出生前診断とわたしたち』p.74-75


SHIFTING PERSPECTIVES http://shiftingperspectives.org/small.html


Emer Gillespie Picture You, Picture Me

  • 「産んでもよいが、産まれてこなくてもよい胎児」

新型出生前検査は、検査対象を明確に選別している。それだけではない。それは染色体の数の「異常」を持つ胎児を、「(産んでもよいが)産まれてこなくてもよい胎児」と改めて定義する結果になっている。その定義が社会に共有される。「産まれてこなくてもよい胎児」を中絶することが規範(ノーマティヴ)になる。そのような潮流により「産まれてこなくてもよい」と定義される染色体の数の「異常」を持って生きる人たちとその家族を、実際に、現に、深く傷つけている。その人たちの尊厳を奪っている。その人たちの生の「あり方」を否定している。「もし、胎児が特定の状況にあるために、殺すのが正しく適切だと決定されるのなら、なぜその胎児と同じ状況にある人々が、単に年齢を経ているというだけで権利を認められるのだろうか」*1

出生前検査は、それが確定診断を目的といているか否かにかかわらず、胎児を「医学的に『異常』と定義される状態」かつ「検査可能な状態」を持つ胎児とそうでない胎児とに分類する。そしてこの分類は人工妊娠中絶を選択する基準となる。つまり出生前検査は、医学という一つの専門知の認識に基づく分類と技術の可能性によって、産む胎児を選択することを可能にする技術である。言い換えれば、出生前検査は、人の「生」のはじまりの基準を医学の認識に置く技術である。
医学の認識を人の「生」のはじまりの基準とすることは、医学を人の「生」の基準とすることと同義である。医学というひとつの専門知が人の「生」の基準となるということは、人の「生」に対して私たちの持つ認識が、医学の認識によって支配されるということを意味する。出生前検査が私たちに投げかける課題は、この支配をいかに制御し得るのか、さらに言えばこの支配に対していかに抵抗するのか、ということだ。



出生前診断とわたしたち』p.44

  • 「弱い人を排除していこうとするのはかつてのナチだけではありません。いまもそのまま続いているのです」

「技術の進歩が社会のなかの”排除”を加速させています。治療によって病気をなくすのではなく、病人そのものを排除する、これは病気を持つ人を理解しようとする方向性をまったく逆にするものです。私たちは(妊婦へのマススクリーニング)検査の導入は悪いことだと正々堂々と言いたいのです」

──21トリソミーの人たちに不利益がある、ということでしょうか。

「生きにくくさせています。80万人の妊婦に破壊的(カタストロフィック)なイメージが広がっています。検査を受けますか?と言われるたびに、妊婦は21トリソミーに対する悪いイメージを医師から聞くのです。不当なレッテルです。世論がこれほどネガティブだと、私たちのキャンペーンが追いつきません。景気の悪化で社会保障費も抑えられています。21トリソミーの研究についても、根絶の対処にいったい誰が研究費を割くでしょうか? もういないのだから……と言われてしまうのです」

(中略)

「スクリーニングが広範に普及するいまの状況は前代未聞です。医学は病気と闘わなければならないのに、医学の名において大量に排除していっています。この15年は技術の進歩、市場主義によって、優生思想が強まっているのです。弱い人を排除していこうとするのはかつてのナチだけではありません。いまもそのまま続いているのです」



酒井律子『いのちを選ぶ社会 出生前診断のいま』(NHK出版)p.76-77*2

どの命が、私たちが現にいま生きている「この世界」に存在することが許されるのか。
それは言い換えれば、どの命が「この世界」から排除されているのか、排除されようとしているのか、ということになる。どの命が「そうであること」を理由に私たちが現にいまこうして生きている「この世界」から排除される/されているのか。どの胎児が「望まれない生」という烙印を捺され、どの胎児が「産まれてこなくてもよい生」とされるのか。それは、まぎれもない「命の選別」ではないか──他にどのような言い方ができるのか。
「望まれない身体」を持つであろう人たちが「この世界」から「静かに」排除されている。このことは、まぎれもない事実である。そして、この「静かさ」が不気味なのは、他の多くの場合、排除し排除される人たちの間には抗争のようなものが生じ、それらが可視化され、排除される人たちに支援の目が向けられる可能性が常にある──支援の目が向けられるよう導く人がいる。しかし中絶の場合はどうなのか。「それ」と同じように充分に可視化されているのだろうか。「それ」と同じように充分に認識されているだろうか。「それ」と同じように支援の目が向けられるよう導く人がいるのだろうか。
「この世界」から排除されている命がある、今まさに排除されようとしている命がある。それなのに、そういうことが起こっているのに、あまりにも「静か」ではないのだろうか。そしてこの「静かさ」が不気味なのは、「それ」と同じように可視化されうるのに、「それ」と同じように認識されうるのに、「それ」と同じように支援の目が向けられるよう導く人が「ここに」いないことである。
選択的人工妊娠中絶は、「この世界」に「いる」ことが許される人とそうでない人を予め振り分けている。「この世界」に「いる」ことが許される「あり方」を決めている。このことは、まぎれもない事実である。選択的人工妊娠中絶は、原初の「予めの排除」に他ならない。そのことを理解できないわけがない。

選択的人工妊娠中絶のような「命の選別」が静かに進行している。「望まれない身体」を持つであろう人たちが、予め、静かに、排除されている。私たちが現にいま生きている「この世界」は、私たちが気づかないうちに浄化されている。いや、本当に気づいていないのだろうか? すでに私たちは「クィアスタディーズ」というアメリカの新興学問が喧伝している「排除と浄化の理論」なるものをどういうわけか知っている。すでに私たちはそれが指示する「近似した問題」に直面しているのではないか。このことがそれが教え諭す「近似した問題」なのではないか──そうだとしたら、誰と連帯すべきなのか? そうだとしたら、何に対して抵抗すべきなのか? そうだとしたら、それをどう捉え、それにどのように介入すべきなのか? 

お誕生、おめでとう。はじめて見る世界はまぶしいでしょう? 今、お母さんのおなかの中から出てくるという大仕事をなしとげて、安心して眠っているのでしょうか。
あなたには、「ダウン症」という形容詞が与えられることになるでしょう。あなたには、まだわからないだろうけど、世の中の人たちは「ダウン症」という言葉に「知的障害」とか「かわいそうな子」とか、「不幸な子」なんていう言葉を重ねたりします。
だから、もしかすると、あなたのお母さんは、今ごろ、声を殺して泣いているかもしれません。お父さんは、そんなお母さんにかける言葉もなく、立ちすくんでいるかもしれません。もしもあなたがたった今しゃべることができたとしたら、こんなふうに言うかもしれません。「やめてくれよ。どうしてぼくが生まれると、みんな泣くのさ」
その通り。私たちは、そんなあなたに心から「ようこそ」と言いたくて、この本を作りました。


あなたの名前は何というのですか? 何も知らない人たちは、あなたのことを「知的障害児」と呼ぶのでしょうね。ちょっと理解している人は、「ダウン症児」と呼ぶでしょう。でも、それはどちらもちがいます。あなたはあなた。あなたは自身の名前をもった、ただ一人のかけがえのない人。そのことを知っている人たちは、あなたのことを名前で呼びます。
この本に出てくる人たちは、そのことを知っています。これから何人もの人たちに勇気を授けてくれることになるあなたへ。私たちは、心から呼びかけます。
お誕生おめでとう。ようこそ、この世界へ!



『ようこそダウン症の赤ちゃん』(日本ダウン症協会編著、三省堂)p.2-3

ようこそダウン症の赤ちゃん

ようこそダウン症の赤ちゃん

*1:Daves,1989:83 笹原八代美「選択的人工妊娠中絶と障害者の権利 : 女性の人権の問題としての性選択との比較を通して」

*2:

いのちを選ぶ社会 出生前診断のいま

いのちを選ぶ社会 出生前診断のいま

  • 作者:坂井 律子
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2013/12/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)