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あのシナモンロールとあのパンケーキ 〜 レベッカ・ブラウンの『体の贈り物』


以前、Twitter のフォロワーさんから教えてもらったレベッカ・ブラウンの『体の贈り物』を読んだ。『体の贈り物』は、主にエイズ患者を介護するホームケア・ワーカーである〈私〉を語り手にした連作短編集で、一つ一つの短編はそれだけでストーリーは完結しているものの、それらは何かしらどこかしらつながっており、全体でゆるやかに結びついて一つの大きな物語のようになっている。平易で飾り気のない言葉によって綴られる、一つ一つの短い物語は、それだけとれば内容的にはどれも悲愴なものかもしれない。しかし、その一つ一つの物語には、人に対する愛と、人に対する信頼と、人に対する希望がどこまでも溢れ出ている。一つ一つの短い物語は、一人一人の人生、ときには若くして死を意識せざるを得ない人たちの人生のほぼ最後の時期を描いている。たとえ短い生涯であったとしても、この世に祝福されないで生まれてきた人はいない、人は誰かに愛され、誰かを愛することができる。この世に生を授かった一人一人の命はどれもかけがえのないものであり、一人一人の生は誰かの、誰かへの「贈り物」なのである。そのような確信を、その最小限の言葉から綴られる一つ一つの物語の中に読み取った。ある人の人生の長さ、短さは、その人の個性でしかない、同じように「病気」に罹っていることも。

レベッカ・ブラウンRebecca Brown)は1956年生まれのアメリカ合衆国の作家で『体の贈り物』(The Gifts of the Body)は1995年に発表された。1995年(それ以前)はどいういう時代であったのかを想像することが本書を読むにあたって必要かもしれない。解説によれば、この小説で描かれていることの一部はレベッカ・ブラウンの経験から得たものだという。

体の贈り物 (新潮文庫)

体の贈り物 (新潮文庫)

〈私〉は「UCS(都市共同体サービス)」の利用者であるリックを訪れる。リックのためにシナモンロールを特別な店で買っていく。リックはその店のシナモンロールが大好きなのである。それを一緒に食べ、会話をして、そして掃除をして〈私〉は帰る。ある日、〈私〉がリックの部屋に行く。今日は手ぶらでいいよ、リックが電話で伝えてきていた。部屋に入るとひどく衰弱したリックがいた。UCSの責任者マーガレットに電話をしてリックを病院へ連れて行くことにした。マーガレットとリックが出て行った後、部屋に残った〈私〉はキッチンにシナモンロールが二つ置いてあったのを見つける。エイズの末期患者であるリックがこの部屋からその店へ行くのに、どれほどの時間と労力を費やしたのか。それは『汗の贈り物』だった。そして〈私〉は、リックが自分でできることが、もはやほとんど残されていないことを思い知る。同時に、リックがそのことを遂に身を持って自覚したことも知る。それはリックが、かつてバリーという末期患者を「助けて」いたときの記憶が甦ってくるからだ。バリーはすでに亡くなっている。〈私〉はリックが自分のための用意してくれた贈り物シナモンロールを一人で食べる。

コニー・リンドストロムは、子供たちの誘いを頑として受け入れず生まれた家を出ようとしない。また、子供たちが彼女を心配して一緒に住むことも拒否している。それが病気に感染し年老いたコニーの唯一の「わがまま」でありプライドだった。それでも一人でできることの選択が一つ一つ減っていき、ホームケア・エイドに頼むしかなくなった。

他人の世話になっているのを誰にも知られていない、ということはそれなりの意味がある。UCSがはじまったころは、自分がエイズだと知られると近所の人がパニックを起こすのでは、とみんな心配したから、UCSのメンバーは、何をしに来ているのかはっきり言わないように指示されていた。「知りあいなんです」とか言っておくのだ。


レベッカ・ブラウン『体の贈り物』(柴田元幸 訳、新潮社)p.31

〈私〉はコニーをバスタブに入れ、体を洗う。コニーの切除された片方の乳房のあたりで〈私〉がためらっていると、『もう痛くないのよ』とコニーが言った。『充足の贈り物』

ホスピスの順番待ちということは、誰かが死んで空きができると、予約リストの次の人がホスピスに入ることができるという「システム」のことである。エドはその仕組みを十分によく理解している。ホスピスは最後の場所である。だからエドは自分のアパートからホスピスに移りたくないと〈わたし〉に言う。ときに激しい口調で。研修では、利用者=患者が「言語的・肉体的暴力」をふるいだしたらその場を立ち去るべきだと教わった。しかし〈私〉はエドの場合はそれとは違うと判断する。エドは泣けなかった。涙管が損なわれて、泣けなかった。泣きたくても泣けない『涙の贈り物』だった。

〈私〉の担当利用者はカーロスという男性だった。しかし『肌の贈り物』では、カーロスと同居し彼の世話をしているマーティと〈私〉のやり取りに前半のページを割く。マーティはぽっちゃりとした30歳ぐらいの男性。仕事に行かなければならないのに、カーロスのことが気になってなかなかアパートから出ていかない。何度も何度も、何かあったら職場に電話して、と〈私〉に言う。留守中に何かが起きたら……。
カーロスは導尿器を装着していることに屈辱感を抱いていた。しかしすぐにカーロスと〈私〉は打ち解けた。「君の肌、すごく清潔な感じがする」とカーロスは言った。〈私〉は時間をかけて、カーロスをベッドから出し、バスタブで体を洗った。それだけのことでもカーロスは疲れる。でも、きれいになった体で空気を肌に感じることができた。

(コニーの息子である)ジョーはほぼ毎日、午前中の休憩時間に電話してきた。二人は『トゥデイ』でやっていることやジョーの仕事のことを話したり、今度来るとき何か持ってきてほしいものがあるかとジョーが訊いたりした。ジョーとは私も二、三度顔を合わせていた。すごく気のいい人で、それは彼のボーイフレンドのトニーも同じだった。あるときジョーは私に、何だか申し訳ない気がする、病気になるはずなのはママじゃなくて僕なのに、と言ったことがあった。ジョーもトニーも、検査の結果は陰性だった。申し訳なく思ったって仕方ないのはわかってるんだけど、どうしても思ってしまうんだ、とジョーは言った。ママは何も悪いことなんかしていないし、こんな目に遭ういわれはないんだ、と彼は言った。あなただって何も悪いことしてないし、誰もこんな目に遭ういわれはないと思う、と私は言った。言ったとたん、ひどく説教臭く聞こえて、しまったと思ったが、ジョーは私の顔をチラッと見ただけだった。母親が彼を責めていないことはジョーも承知していた。彼女はゲイの男たちを責めていなかった。血液銀行のことは責めてもよかったはずなのに、やはり責めていなかった。とにかくジョーは私が言ったことを悪く取りはしなかった。彼はいつも、ママを助けてくれてありがとうと言ってくれた。母親がすごく気に入っている人がそばにいてくれること、やっと母親が人の助けを借りることになったことを、みんなとても喜んでいるのだとジョーは言った。


p.82-83

そして『飢えの贈り物』では、パンケーキとシロップをめぐる、すごく印象的なお話が語られる。

『動きの贈り物』では『涙の贈り物』のエドが再登場する。エドホスピスに入っている。一度、ホスピスに入ることを拒絶した彼は「システムに逆らって勝った」人間だと他の入居者に言われていた。「システムを負かせる奴なら、何だって負かせるんじゃないか。こいつならひょっとして、生きてここから出られるかもしれない」。
エドは「そのシステム」に本当に打ち勝とうとする。〈私〉が友人として(UCSの利用者としてではなく)ホスピスを訪れると、エドはそのホスピスの最古参になっていた──エドホスピスに入ったときにいた人たちは、みんな死んでいた。友だちができても、その友だちは次の週には死んでいた。誰かが死ぬと、次のホスピスの順番待ちリストから別の誰かがホスピスに入ってくる。それが「そのシステム」だった。エドは〈私〉を玄関まで送れることを得意に思っていた。病状のため、友人を見送れないホスピスの住人が多かったからだ。
だが、そのこともできなくなりそうな時期がエドにも近づいた。そしてエドは自分の足でここから歩いてホスピスから出て行った。「システムに打ち勝つ」ために。まだ、辛うじて動けるうちに。他のホスピスの住人に生きてここを出られるんだということを示すために。ここは死に場所ではない、誰かが死ななくても、別の誰かがこのホスピスの空室に入居できるのだということを示すために。エドは自分の足で、歩いて出て行った。「システム」に勝利したのだった。〈私〉がホスピスへ行くと、みんなが「俺たちのエド」の話をしていた。それがエドの『動きの贈り物』だった。

〈私〉がその公営施設に住んでいるUCS新しい利用者を訪ねたとき、最初その人物がマーティだと気がつかなかった。あまりにも風貌が変わってしまっていたからだ。あのときのマーディはカーロスの世話をしていて、ぽっちゃりした30歳ぐらいの青年に見えた。今は違う。痩せて、顔に皺が刻まれていて、年齢は50歳ぐらいに見えた。
マーティは〈私〉も知っているカーロスのことを話した。マーティはカーロスの最後を見届けた。カーロスの最後はずいぶん苦しんだ。マーティとカーロスは小さいころからの友だちで、いろんなことを一緒にくぐり抜けた仲だった。「僕のためならあいつは何でもしてくれた。本当に何でも。僕もあいつのためなら何でもした」。カーロスの最後はずいぶん苦しんだ。カーロスは病気と闘うのに疲れていた。ものすごく痛がっていた。マーティはカーロスのためならば何でもした。マーティはカーロスのために「手伝った」──『死の贈り物』をあげた。

疫病が何年もつづいて、やっとポスピスができた。まず一軒できて、それからまた一軒。六ヶ月以上生きられない人だけが、入ることができた。死ぬのにどこか「快適」な場を提供する、というのが理念だった。ホスピスが開くと、どこもものすごい長い順番待ちリストができた。入れたら、よほど運がいいということだった。でもみんなどんどん死んでいったから、回転も速かった。それでも、発病する人はもっと増えたから、リストはますます長くなっていった。


p.138-139

エドが「システムに逆らって」ホスピスから出て行った後、その空きにリックが入ることになった。ホスピスに入るとリックは「利用者」でなくなる。〈私〉の今のレギュラーの利用者はコニーだけになった。マーガレットは「次の人」をはじめる前に少し休んだらどう、と言った。〈私〉は別のヘルパーのサブになった。〈私〉はマイクのサブのヘルパーになった。
〈私〉はリックに会いにホスピスへ行った。リックは見るからに具合が悪そうだった。目はうつろで「ハイ、リック」と声をかけても、何も言わず、首を動かすこともしなかった。彼に意識があったら──そのように想定した〈私〉は一人で彼に話しかける。彼に自分の声を聞いて欲しかった。あの店のシナモンロールが大好きだったリック……。
するとリックの唇がひきつり声が出てきた。「ヌグムシュー」。「もう一度言って、リック」。「ヌグ-ム-シュー」。〈私〉はリックの言っていることを理解した。そして同じことを彼に言った「私もあなたがいなくて寂しいよ(アイ・ミス・ユー・トゥー)」。それが『言葉の贈り物』だった。

キースを見て〈私〉はその姿を見て怯えた。触るのが怖く、彼を見るのも怖かった。彼の黒っぽい茶色の肌に、黒っぽい紫色の腫物が体中にできていた。〈私〉のすることはキースの体に軟膏を塗ることだった。もうそれしかすることはなかった。キースはアフリカで教師の仕事をしていた。キースの母親はアフリカ行きをすごく喜んでくれた──故郷に帰るみたいじゃない、と。病気になって、それでアメリカへ戻ってきた。
次の土曜日にキースに会いに行くと、キースの姪が空港まで彼の母親を迎えに行くところだった。キースの容態は急変していた。「もうすぐお母さんが来るよ、じきお母さんに会えるんだよ」と〈私〉は彼を抱えながら何度も何度も言った。『姿の贈り物』

『希望の贈り物』で〈私〉は自分の身近な人が病気になっていることを知る。その人が病気だったことを初めて知る。それはUSCのマネージャーであるマーガレットだった。彼女は病気の悪化に伴い、USCの職を辞する。それを知って言葉がなかった。

USCの発足当時は、男性二人が自宅で開いただけの組織で、すべてボランティアだった。ところが、何年もやっているうちに、まずオフィスができて、さらに大きなオフィスに移り、いろんなプログラムが作られていって、助成金もついた。すべてPWA*1の人々のためのプログラムだという点は前と同じだったが、他の障害者の支援にまで拡張したらどうかという話し合いも進んでいた。


p.174-175

マーガレットのお別れ会の日に〈わたし〉はUSCのメンバーを見回す。いろんな人がここにいる。みんな身近な人が病気に感染しているか、自身が感染している人ばかりだった。「あなたが病気になって、残念です。あなたはすごい人です、マーガレット。本当にすごいと思う。もし何か私にできることが──」と〈私〉は彼女に言った。マーガレットは〈私〉に言う、「もう一度希望を持ってちょうだい」。

〈私〉のレビュラーだったコニーの容態が急激に悪化した。コニーの息子ジョーとその恋人トニーは実家に住むようになった。もはや母親の「わがまま」は通用しなくなった。娘のイングリッドも双子の子供をつれてできるだけコニーの元へやってきた。飼い猫だったミス・キティもコニーに会わせることができた──医者がここまできたら構わないと許可した。
「あたしは幸運よね」とコニーは言った。「もうずっと前からわかっていたから、みんなと話し合ったり、愛してるって伝えられたもの」。『悼みの贈り物』



先に記したように、『体の贈り物』はホームケア・ワーカーの〈私〉を語り手にした連作短編集になっていて、一つ一つの物語はそれだけで完結しているものの、全体はそれらがゆるやかに結びついていて、ある物語の登場人物が別の物語に再登場する。一つ一つの小さな物語は、一連の流れのように配置され、大きな一つの物語のようにも読める。〈私〉がレギュラーで担当しているコニーはいろいろな場面に登場する。コニーの息子の恋人トニーがそうであるように、物語が進むにしたがって〈私〉もコニーの家族のような存在になっていく。人間だけではなく、何度か登場するリックが好きだったシナモンロールやコニーと家族を結び付けるパンケーキも、忘れがたい印象を読者に与える。
一方で、マーティがそうだったように、先の物語では、友人や恋人を看護する立場であった人物が、後の物語では〈私〉に看護される人物として再登場することもある。マーガレットの場合のように、これまで患者の介護に身を捧げてきた人物が、今後は自分が介護を受ける立場になることが暗示される。登場人物の多くは病気に冒されており、まだ体の自由が効く人は、より重症化した人を介護する。そして介護をしていた人の病状が悪化すると、別の誰かと〈私〉がその人の介護をする。
『体の贈り物』はそういう物語でもある。しかしそれは決して陰鬱な軌跡を描いてはいない──そのように〈私〉は早計に判断を下さない。〈私〉は人と人とを結び付けているものを、そのように時空を超えた高みから「ジャッジする側」に就いてはいないし、就こうとなんか思っていない。〈私〉はケアをする人たちと同じ空間にいることで、そして、彼ら彼女らと同じ時間を過ごすことによって、彼ら彼女らから「贈り物」をもらっている。〈私〉はリックがホスピスに入る直前、まだ彼が話せる状態で「利用者」として最後に会ったときにリックから「アイ・ミス・ユー」と言われたことにずっとこだわっている。
マーティやマーガレットがそうだったように、「役割」の交換は、死に近づくことを意味する。自分の死を意識しながら、より死に近づいている人のケアをする。死の意識によって、彼ら彼女らは結びつき、そこに連帯のようなものが生まれる。しかしそれは決して「強制された連帯」ではない。連帯するよう他人に強要するような「権力者」はそこには存在しない。信頼関係も何もないのに「指導教官」のように振る舞う者もいない。むしろ、この複数の小さな物語を読んで思ったのは、エイズがより深刻な状況であった時代のことを「まことしやかに語り」ながら、それを利用し、それによって他人を勝手に強引に自分の研究に直結する学問領域に包摂し、包摂したからには勝手に「その名=クィア」で他人を呼び、そうやって包摂した人たちを自分の研究材料として自他ともに認めさせること。そうやって他の研究分野の人たちにも「それ」を既成事実として認めさせること。それはエイズによる多くの小さな名もなき人たちの死を、自分たちの研究領域へ他人を包摂させるための口実として利用しているのではないか。そうやって多くの人の死を「まことしやかに語り」、自分の研究領域なるものに「その人たち」を包摂し、その包摂を受け入れよう命じるための恫喝の材料にすること──このことと「抱き合わせ」、その「抱き合わせ」で他の要求を他人に呑ませること。このことと、「ペドフィリアを擁護することを強要する」ことを巧妙に「抱き合わせ」、そうせざるを得ない状況に他人を陥れること。それはエイズで亡くなった多くの人の死を「まことしやかに語り」、その多くの人の死を自分の利害のために利用する死神のやり方だ。他人を教え諭すために、「教え諭す側」に就くために、多くの人の死を「まことしやかに語る」死神。多くの人の死を他人を教え諭すための道具にする死神。多くの人の死を、「何か」と「抱き合わせ」るために利用する死神。なぜ、他人を、自分の管轄のような研究領域に包摂させることができるのか。その権能はどこから与えられたものなのか。どうして研究領域という特定の大学教員の都合でしかない「クィアという領域」に問答無用で含められなければならないのか。その領域は誰が設定し、そこに含まれるか含まれないのかは、誰がどうやって決めるのか。そもそも、なぜそんなものがあるのか。
特定の大学教員の研究領域=クィアスタディーズがあるから、それに沿った形で〈わたしたち〉の生の在り方が決められるのか。
特定の大学教員の研究業績に直結させるために〈わたしたち〉の生の在り方が、そこに都合よく嵌め込まれるのか。
特定の大学教員が自分の研究領域を制度化し国家から研究費を捻出するために〈わたしたち〉を利用すること、それを〈わたしたち〉はなすすべもなく見ていることしかできないのだろうか。
日本でエイズにより亡くなった人は「クィア」と呼ばれ差別や暴力を受け苦しんだのだろうか。

「ごめんなさい、エド」と私は言った。
反応が返ってくるのに数秒かかった。やがてエドは言った。「君にはわからないよ、どんな気持ちがするか」
「うん、わからない。ごめんなさい」


『体の贈り物』p.49


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アメリカの新興学問」=クィアの横暴と欺瞞とセクシュアルハラスメントと薄汚い包摂のやり方に断固として抵抗するために。

*1:People With AIDS, エイズとともに生きる人々