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実は初読、大人のための『Yの悲劇』


エラリー・クイーンの『Yの悲劇』を最初に読んだのは小学生のときだった。学校の図書館にあった「文研の名作ミステリー」という子供向けにリライト(超訳か)されたシリーズの一冊で、他にアガサ・クリスティの『ABC殺人事件』やジョン・ディクスン・カー『ろう人形館の殺人』、ガストン・ルルー『黄色い部屋の秘密』、ダシール・ハメット『マルタの鷹』、F・W・クロフツ英仏海峡のなぞ』、コナン・ドイル『バスカビルの魔の犬』も同じ叢書で同じ時期に読んだ。ウィリアム・アイリッシュジョルジュ・シムノンモーリス・ルブランはなぜか読まなかった。タイトルがそそらなかったのかもしれないし、カヴァーの絵が気に入らなかったのかもしれない、もしかすると今では思いつかないような子供っぽい理由──しかしその当時は、何かしらの判断により導かれたそれなりにきちんとした理由──があったのかもしれない。
現在、これら推理小説の古典的名作以前に子供の時分に読んだ本で書名をきちんと憶えているのは寺村輝夫の『ぼくは王様』ぐらいしかない。こういう本を読みたいとはっきりと意識して、そういった本を探し出し、そのような本を自ら選び読んだ本だからこそ憶えている。つまり、僕の読書遍歴は、これら推理小説の古典作品を読んだことから始まった。これら推理小説の出会いによって読書することが楽器を弾くことやスポーツをすることと同じ習慣になった。

もちろん、数多くの様々な本がある図書館内で、いきなり犬が棒に当たるように(多分、この諺の意味を子供のとき以来、取り違えているだろう)これらミステリの名作群に出くわしたわけではない。それまで図書館自体にも「読書の時間」以外は足を踏み入れることなどなかった。きっかけは、何年生か忘れたが『小学○年生』みたいな雑誌の付録に探偵図鑑&トリック事例集みたいな冊子があって、それを持ち歩いて読んでいたことにある。当時は、そこで紹介されている探偵たち──シャーロック・ホームズエルキュール・ポアロミス・マープルら──は「実在の人物」だと半ば思っていたこともあった。当時の読解力では、そこに書かれてあった探偵を紹介した文章と、野口英世ヘレン・ケラーらを紹介した文章との区別がつかなかった。野口英世ヘレン・ケラーらと同じく、探偵たちは偉人だった──彼ら彼女らの「仕事」を読むと、みんな偉人のように思えた。探偵辞典はもう一つの偉人伝だった。トリック集のほうも熱心に読んだ記憶があるのだが、とりわけはっきりと覚えているのは、こういうもの。
浴室あるいは浴場で男がナイフのようなもので胸を刺されて殺された。しかし凶器は発見されなかった。だた室内には魔法瓶があった。犯人は氷柱(つらら)を魔法瓶の中に入れそれで被害者を殺したのだった。浴場なので氷柱はすぐに溶けてなくなる、というもの。
そんなもの凶器になるのか、と、それを読んだ子供の頃の自分は、目をパチクリさせたはずだ。もっとも、今思うとこれだけでは「本当のトリック」は成立しない。犯人が「ナイフのようなもの」を持たずに浴室または浴場から出て行ったことを確実に観察していた第三者の存在が必要になり、それでもって「消えた凶器」というものが意味をなす。つまり凶器の消失が主眼であり、そのために作者は氷柱を凶器として選んだ、だからもし他に「消失する凶器」があれば、氷柱であることは必要な条件ではない。今思うとこのシチュエーションこそが気になるが、ただ、そのときは「溶けて消える」凶器を選んだということがすごいと思ったのではなく、単に「氷柱というもの」で人を殺す/殺せることがすごいと思った──微妙にトリックの「本当のすごさ」の焦点がズレていた。それでも子供の頃は、この凶器=氷柱の選択は「本当にすごい」と思い、他の殺人術を差し置いて、記憶のストックの一番上の引出しにずっと収まっていた。作者の凝らした含意を理解していなくても「氷柱で人を殺す」というイメージに子供の心は捉えられた。このトリックには出典があるのだろうが、いまだ出くわしていない(と書いたが、ググったらそれらしい小説が特定できた)。

同じ号か別の号か忘れたがやはり『小学○年生』(だと思う)に掲載された、小学生を探偵役にしたマンガ──すなわち読者と同じ子供が活躍する──のことを今でもはっきりと覚えている。タイトルは『わかった犯人は』(もしかすると「わかったはんにんは」だったかもしれない)。場所は日本のどこかの漁村。小学生たちは地元の子供なのか旅行かなにかで訪れているのかは、はっきりと覚えていない。はっきりとくっきりと覚えているのは事件をめぐるある種の仕掛けで、それ以外の枝葉末節はきれいさっぱり忘れている。事件自体は真夜中に幽霊が現れ、子どもたちがその幽霊に脅かされるというもの。なぜ幽霊なのかといえば、被害者は「手のお化け」に襲われるからだ。暗闇に手だけが光のように見え、その手に子供が追いかけられる。中盤あたりで探偵役の少年は何やら推理をし、砂浜に”わかったはんにんは”と書く。友人の少女はそれを見て「わかった犯人は」と解釈する。おそらく少女は少年に犯人の名前を尋ねたのだろう。しかし探偵役の少年は訳知り顔しただけなのだろう(ここはおぼろげにしか記憶がない。ただ物語としてはそうならないわけはないと思う)。
一方で、探偵役の少年は小学生なので漢字で「犯人」を書けないのだろう──と、読者である当時小学生であった僕は訳知り顔でそう思ったかもしれない。
後半、探偵役の少年は事件の概要を他の同級生たちの前で披露する。それは犯人の少年が(動機は失念)、オキアミのような発光プランクトンを手に塗り、手を光らせ、それで別の子供たちを脅かしていたのだった。発光プランクトンを手に塗って手のお化けになれるなんて子供騙しだな、これなら自分も蛍光塗料を手に塗って同じことができるな(真似してやってみるか)と思っていた矢先に衝撃が走る。その仕掛けに先に気がつくのは探偵役の少年が浜辺に書いた文字を「わかった犯人は」と解釈した少女である。少女の衝撃と読者である僕の衝撃はそこで完全に呼応した。犯人の名前は「タツカワ」(漢字で龍川か辰河か…は忘れた)だった。つまり探偵役の少年は、少女と読者に早い段階で犯人の名前を指示していたのである。「わかったはんにんは」は「わかった犯人は」と解釈するのではなく、右から読んで「はんにんはたっかわ」、すなわち「犯人はタツカワ」と解釈すべきだった。
そしてさらに衝撃的だったのは、それがこのマンガのタイトルになっていたことだった。フィクション内の少女が「犯人はタツカワ」に衝撃を受けていた以上に読者は、それプラス、フィクション自体の仕掛けに衝撃を受けねばならなかったのである。ストーリーが始まる以前に、最初から犯人の名前が名指しされていた。それに気がつかなかった愚かな「わたしたち」読者。当時、子供だった僕は、この「すごさ」を「すごい」と思ったが、それがどこまですごいのかをきちんと理解するまでには、もっと多くの時間と経験が必要だった。愚かな子供だった僕は、子供らしく考えていて、なぜ身近に「タツカワ君」という名前の生徒がいないのか、残念だった──おそらく「タツカワ君」がいれば、それの真似をしつつ一部改竄をして、それと「近似したフィクション」を作れると思ったかもしれない。

学校の図書館で「文研の名作ミステリー」を探し当て、それらを読んだのは、そういった経緯があったからである。とくに『Yの悲劇』と『ABC殺人事件』には感動し、何度も何度も読んだ。「鈍器」などのよく意味がわからない言葉は辞書で調べ、マンドリンなどの見知らぬ楽器は図鑑を見て確認した。今思うと、こういう風に本を読むことも自分にとっての”study”の一部だったんだなと思う。それによって文研版『Yの悲劇』の仕掛けは完璧に把握した。印象的な挿絵は今でもくっきりとはっきりと覚えている。だから、これまでずっと、子ども向けリライトではない完訳版『Yの悲劇』は読んだことがなかった。

今回、角川文庫で新訳が出ていたのでエラリー・クイーンの『Yの悲劇』を読んでみた。ストーリーの流れを大きく左右しない一部の登場人物が割愛されていたかもしれないが、物語の構成や事実関係、被害者、加害者は、子供の頃に読んだ子供向けリライト版とまったく変わらなかった。ある意味、安心した。いちおうミステリ・ファンを自認しているのに、こんな基本書を「間違って」記憶しているということはなかった。
以下は、『Yの悲劇』は本当は何がすごかったのかを今現在の知識でざっと確認するものである。犯人名こそ名指ししないが、仕掛けには触れる。未読の方はご注意を。もっともこのサイトを見ている人で『Yの悲劇』を読んだことがない人はそれほどいないと思うし、もしまだならすぐにでも読むべきでしょう。いちおう警告しました、以下に何が書いてあっても責任は取りませんよ!

Yの悲劇 (角川文庫 ク 19-2)

Yの悲劇 (角川文庫 ク 19-2)


現在、大人になってから『Yの悲劇』を読むと、そのすごさは小説内で起こっている(起こった)出来事が小説内の小説の出来事と同じである、という点につきると思う。しかも小説内の小説は推理小説である。これに「メタフィクション」という専門用語を導入すると、直感的にすごいと思ったことが本当にすごいのだと説明することが可能になる。若島正氏は「ミステリ内部に、別のミステリ作家あるいはミステリ作品が登場する」構造を次のように書く。『Yの悲劇』のすごさはこの説明で十分だと思う。『Yの悲劇』の粗筋を書く必要もない。

メタミステリの典型中の典型ともいうべき手法。この代表例は、言うまでもなくエラリィ・クイーンの『Yの悲劇』である。ハッター家の惨劇を描いたこの作品で読者を震撼させる最大の山場は、自殺した当主のヨーク・ハッターがひそかに執筆を夢見ていた『ヴァニラ殺人事件』という探偵小説の概略が出てくる場面であることは疑いない。もちろん、ここでその虚構内虚構である『ヴァニラ殺人事件』は、『Yの悲劇』そのものをそっくりなぞっている(というよりその逆で、『Yの悲劇』で起こる出来事は『ヴァニラ殺人事件』を下敷きにしている)ところが肝心だ。あの有名な凶器として使われたマンドリンは、この二つのテキストのあいだのかすかなズレとでも言ってよい。こうして小説Fの内部に虚構内虚構fが埋め込まれ、Fとfのあいだになんらかの同型関係が認められる(つまり、fがFの小型モデルになる)ような仕掛けが、メタフィクションの一般的な自己言及構造である。『Yの悲劇』では、『ヴァニラ殺人事件』のくだりを読み進めるとき、Fの読者(すなわちわれわれ)とfの読者(実は犯人)がテクストの壁を越えて呼応する。


若島正「メタミステリなんか怖くない」(『ミステリマガジン』12/1994、早川書房)より

ちょっとだけ補足しておく。それは、エラリー・クイーンの『Yの悲劇』を読んだこともないのに、しかも先ほど『Yの悲劇』のネタバレをすると忠告しておいたのに、ここまで読んでいる〈あなた〉のために。もしかすると〈あなた〉は何か「邪悪な意図」をもっていて、それゆえ僕が(も)何か「邪悪な意図」でもってこの文章を書いているのだと思い込んで、その確認をしたいがために『Yの悲劇』を読まずして、今、この文章を読んでいるのかもしれない。その〈あなた〉のために補足を。

さて、何がわかったでしょうか。架空の犯罪の筋書きが、細部にわたって猿真似同然に実行されたこと。自分なりの判断や選択が必要とされる局面では、実行者がおのおのの未熟さ、子供っぽさをことごとくさらけだしてしまうこと。
○○○はあらすじに忠実に従いながらも、その微妙な含意をまったく理解していなかったのです。理解していたのは何をするかと明示されている部分だけで、なぜそうするのかまでは読みとれませんでした。


エラリー・クイーン『Yの悲劇』(越前敏弥 訳、角川文庫)p.413-414

エラリー・クイーンの『Yの悲劇』の特徴は、自殺した名門一族の当主ヨーク・ハッター(Y)が書いた推理小説のテキストを入手した「犯人」が、そのテキストに則って犯行を犯すというものである。「犯人」はできるだけ忠実にテキストに従おうとする。しかしテキストには曖昧な部分があり(それはある程度の知識と経験があればわざわざ記さなくても理解できるはずだと「著者Y」が考えたもの)、しかも「犯人」自身がテキストを独自解釈し、その意図を読み間違える。「鈍器」(ブラント・インストゥルメント)と「楽器」(ミュージカル・インストゥルメント)を取り違え、そのため「犯人」はマンドリンで被害者を殴打し殺害する。警察や探偵は「なぜマンドリンが凶器に選ばれたのか?」という問題を設定し、彼らはそれに対する解答を延々と考え、悩み、読者もそれにずっと付き合わされる。ここにおいて「擬似問題」に悩まされる愚かな〈わたしたち〉が、そのテクストの壁を越えて呼応する。アメリカあたりのどこかの誰かが言ったことを鵜呑みにし、その猿真似に付き合わされる〈わたしたち〉の愚かさと呼応する。


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アメリカの新興学問」=クィアの横暴と欺瞞とセクシュアルハラスメントと薄汚い包摂のやり方に断固として抵抗するために。クィア理論なんて疑似問題ばかりじゃないか。しかも特定の大学関係者の業績に直結するように、その問題が設定され、特定の大学教員の専門領域に沿うように勝手に強引にそれに包摂される。苦痛でたまらない。「クィア」に包摂されることはハラスメント以外の何物でもない。なぜこんな暴力が許されるのか。