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25歳のイスラエル人青年は上空の視界から何を見るのか 〜 ジェイムズ・フォレット『ミラージュを盗め』


イスラエルの情報機関モサドが実行したとされる作戦の数々は、スパイ小説以上にスパイ小説的な「快挙」をまざまざと見せつけてくれる。本書ジェイムズ・フォレットの『ミラージュを盗め』は、そのモサドが現実に実際に実行した(と見なされている)二つの、まさにスパイ小説的な作戦を骨格に、波乱万丈のエンターテイメントとしての肉付けをしつつ、そこにおいてイスラエルにとっての大義とはいかなるものであるかを読者に教え諭す。それは是か非かという問題ではない。この英国人作家は、イスラエル建国にまで遡り、このような行動を取るイスラエルという国家の行動原理を説明するために筆を費やしている。それは、そのことを理解するか理解しないかの問題である。

ミラージュを盗め (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

ミラージュを盗め (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

以下は、ジェイムズ・フォレットの『ミラージュを盗め』の背景にある出来事と歴代のイスラエル首相の一覧である。


イスラエル首相

  • 1948年 - 54年 ダヴィッド・ベン=グリオン(マパイ)
  • 1954年 - 55年 モシェ・シャレット(マパイ)
  • 1955年 - 63年 ダヴィッド・ベン・グリオン(マパイ)
  • 1963年 - 69年 レヴィ・エシュコル(マパイ)
  • 1969年 - 74年 ゴルダ・メイア労働党
  • 1974年 - 77年 イツハク・ラビン(労働党
  • 1977年 - 83年 メナヘム・ベギンリクード


ジェイムズ・フォレットは『ミラージュを盗め』の構成を大きく3つに分ける。プロローグとしての第三次中東戦争から始まり、次に時代を遡りイスラエル建国の史実と物語を挿入、再び第三次中東戦争後の(現在の)消耗戦争の過中にあるイスラエルの状況と、そこから、そういう状況であるがゆえに生み出される本作の中心にある「作戦」の遂行。作者は、まるでその設計図を見たかのように「作戦」の立案から実行までを精密に描いていく。精密に丹念に注意深く描かれた「作戦」は、読者に、「それ」の確からしさを与える──それが小説というメディアを使った作者の「作戦」でもあるのだろう。

1967年の第三次中東戦争(六日戦争、6月5日 - 6月10日)の最中の6月9日、戦闘爆撃機ミラージュ5を操縦していたイスラエル空軍パイロットのダニエル・カレンは、シリアの地対空ミサイルの攻撃を受ける。墜落することを意識しながらも、ダニエルはブリーフィングでの指揮官の冗談を思い出す──墜落するときには機体をバラバラにせず塊として落ちるか、バラバラになってもできるだけ大きな破片を残してくれ、と。その冗談は、6日間の戦争をノンストップで出撃し、しかも継ぎ接ぎだらけのスペア部品でどうにか賄っているイスラエル空軍にとっては自虐的なものであった。1967年6月3日、時のフランス大統領シャルル・ド・ゴールイスラエルへの武器の輸出を禁止した。すでに発注済みのミラージュ5はイスラエルの手元に渡らなかったのだ。ダニエル・カレンの操縦するミラージュ5はゴラン高原に墜落する。命は取り留めた。しかし怪我によりパイロットとしての身体能力をダニエルは失った。
この六日間の戦争で、イスラエルはエジプトからシナイ半島ガザ地区を、ヨルダンから東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区を、シリアからゴラン高原を獲得した。イスラエルの一方的な勝利であった。ダニエルのような軍務についている「イスラエルの男女」がこのような不可能を可能にした、とダニエルの父親であるエミール・カレンは言う。「嘆きの壁は最後に占領した。おとといな。いまやわれわれのものだ。国連がどう言おうと手放さないぞ」。ダニエルの(義)父、エミール・カレンはモサドの長官である。ただし、家族にはそのことを知らせていない。

本書の主人公ダニエル・カレンは、周囲を敵国に囲まれたイスラエルという国の特殊な事情(周辺国は「イスラエルの抹殺」を公言している、いつ何時、周辺国から攻撃を受けるかもしれない)と、そういう状況の中でフランスという信用のできない国に「防衛のため」の戦闘機を依存しているジレンマとともに紹介される。この青年はイスラエルの息子であり、彼の行動や思考はイスラエルの行動や思考を表すものである。イスラエルが国家として独立・建国し、その国家の地で生まれた最初の世代が成人になる──ダニエル・カレンはその世代を代表する一人のイスラエル人青年である。

次にダニエルの義父エミールと母レオノーラとの物語になる。1948年、フランスのマルセイユではイルグン・ツヴァイ・レウミ(ユダヤ民族軍事機構、エツェル)のメンバーがメナヘム・ベギンの演説を聞いている。イルグンはアラブに対する強硬派であり、武装派であり、ベン=グリオンらの主流派を激しく攻撃し、建国したばかりのイスラエル国を武力によって転覆しようと画策している。「主流派」ベン=グリオンに対し「過激派」メナヘム・ベギンの対比は、次のようなベギンの演説によって確認できる。そしてベギンの主張は、その後のイスラエルの行動原理になることを、私たちはすでに確認できる。

メナハム・ベギンには完璧な手腕を持った政治家の素質が備わっていた。彼は、テーブルをばんばん叩く熱弁家にはあきあきしたヨーロッパの聴衆というものをよく飲み込んでいた。
「ラビたちは、アラブ人がわれわれの集落を攻撃したとき仕返しをするなと言った」とベギンは穏やかな口調で先を続けた。「ユダヤ人は武器を取ってはならないと彼らは言った。そしてわれわれは彼らの言葉に耳を傾けた……注意を払った……その結果われわれは何千人となく死んだ……イギリスがわれわれを護ってくれるという国連の言葉にわれわれは耳を傾け……そしてイギリスは約束されたわれわれの国の海岸でわれわれを機関銃で撃ち……われわれは何千人となく死んだ。世界で最も悪質な侵入者に向かってわれわれが手を上げなかった十年、われわれが何百万となく死んだ十年は、終わりに近づきつつある」

「そしていま、わたしは諸君に告げる」と弁士は物憂げに手を上げて静粛を求めながら続いた。「われわれを裏切った者たちの言葉に耳を傾ける時は終わった。いまこそわれわれはわれわれの胸に耳を傾けねばならない。そしてわれわれの胸は何と言っているであろうか? それはわれわれの胸に耳を傾けねばならない。そしてわれわれの胸は何と言っているであろうか? それはわれわれに戦えと言っている。粘り強く戦って、もしわれわれに向かってふたたび手を上げたならば最も恐ろしい復讐が待っていることを敵に思い知らせよと言っている。われわれは戦うのだ。戦い続けるのだ。われわれの死に向かってではなく──今度はそうでない──彼らの死に向かって」
ベギンの演説の最後のくだりは、長い歓声と、拍手と、激しい足踏みによってかき消された。


ジェイムズ・フォレットは『ミラージュを盗め』(田中昌太郎 訳、二見文庫)p.39-40

エミールとレオノーラはイルグンの集会で出会い、アタレーナ号(アルタレナ号)でイスラエル渡航する。メナハム・ベギンも同乗する。ベギンは「ドイツ人の残虐行為とイギリス人の傲慢さの犠牲者」であると自分たちを見なす。しかしテルアヴィヴに着くと、彼らアタレーナ号の乗客は、ベングリオン率いるイスラエル国より攻撃を受ける。エミールとレオノーラは船から脱出する。多くのイルグンはパルマッハ兵によって捕虜になった。パルマッハの司令官イツァーク・ラビン(後の首相)は、ベギンを尋問する。ラビンはエミール・カレンも尋問する──エミールに関する過去の経歴はすでに入手してあった。エミールはドイツ降伏後、かつて彼の両親を含むユダヤ人たちを殺した元親衛隊隊長を乗せた警察車を襲撃し、戦争犯罪人を撃ち殺した。エミールは保釈中に姿をくらました。ベングリオンはイルグンの反逆者全員に大赦を与え国軍に加わる機会を提供する。ラビンは、エミールの経歴、その能力、そしてユダヤ人を虐殺した者に対する態度に鑑み、彼を新しい情報組織の創設に協力するよう求めた。エミールはレオノーラと結婚する。レオノーラの息子ダニエルを養子として迎える。エミールは後にモサドの副長官に任命される。
エミールとレオノーラの物語は、イスラエル人になること、イスラエル人であることの意味を写実する。欧州でのナチスによるユダヤ人虐殺。イギリス委任統治パレスチナにおける反英運動。イルグン、パルマッハ(ハガナー)らの武装組織からイスラエル国防軍への統合。排除と包摂。ジェイムズ・フォレットはイスラエルという国家がまさに今、創設されていく苦難と希望の軌跡を、ロマンティックな男女の恋愛とともに描いていく。エミールとレオノーラは、当時のあらゆる年代を代表する、最初のイスラエル人男女である。

その夜(1947年11月29日)、浮かれ騒いでいた人たちのなかにパレスチナ生まれの軍人モシェ・ダヤンもいた。彼はその後、回顧録にこう書いている──


ユダヤ思想の勝利だ、と頭にひらめいた。思えばそれは二千年の間イスラエルの地を追われ、いくたの迫害やスペインの異端審問やポグロム、反ユダヤ的法令、制約、さらには私たちの時代に遭遇したナチスによる大量虐殺に耐え抜き、長らく求めてきたもの──すなわち自由で独立したシオンへの帰還──をついに実現したのだから。
私たちはその夜、幸福感に包まれて踊った。私たちの心は、国連の代表が賛成決議に回ってくれた国々に向けられていた。私たちは数千マイル離れたところで電波を通じて彼らの声の追い、「賛成」(イエス)という魔法のことばを聞き取ったのだ。
私たちは踊った──だが前途に戦場が待ちうけているのを知っていた。


マーティン・ギルバート『イスラエル全史』(千本健一郎 訳、朝日新聞社)上巻 p.269*1


こうしてイスラエル国の歴史を概観しながら、そこに実在の人物とフィクションの人物を織り交ぜ、現実のイスラエルが抱える問題から、それをフィクションの世界に写し取った「近似した問題」の中に読者を巻き込む準備ができた。後は、現実のイスラエルが行った(とされる)出来事を、フィクションの登場人物で脚色し、それを「近似した出来事」として再構成することである。読者はすでにイスラエル側の「視点」を手に入れている──その「視点」で「その問題」を見詰めるよう促されている。そういう構成になっている。これはそういう物語なのである。

まず、この小説の中心となるイスラエル側が実際に行ったとされる作戦の概要を記しておこう。以下は、ダン・ラヴィヴ&ヨシ・メルマン著『モーゼの密使たち イスラエル諜報機関の全貌』(尾崎恒 訳、読売新聞社)を参考にしている。*2
先に記したように、フランスのシャルル・ド・ゴール大統領はアラブ諸国への「ご機嫌取り」のためにイスラエルへの武器輸出を停止した。そこにはイスラエルが代金支払い済みの弾薬、小型艦船、航空機の引き渡し拒否を含んでいる。
フランスのシェルブール港に係留されている五隻のミサイル艦も、禁輸以前にイスラエルが購入したものである。モサドと軍は、イスラエルの「財産」を取り戻すために協力し、作戦を練った。1969年の12月、イスラエルの水兵が観光客を装いフランスに潜入、あらかじめシェルブール港のセキュリティの弱点を調べ上げていた諜報機関員たちに誘導される。そして「警備が手薄になった」クリスマスイブにミサイル艦を「堂々と」奪還した。
ミラージュ戦闘機の「青写真」の強奪は、第4代イスラエル国防軍参謀総長モシェ・ダヤンの養子であるドブ・シオン大佐が行動に移す。ミラージュ戦闘機のエンジンを製造するスイスの会社に努めるアルフレート・フラウエンクネヒトの「弱み」を見つけて白羽の屋を立てる。スイス人技術者は会社への不満があり、結婚のための資金も必要だった。そしてイデオロギーの面でもイスラエルに共感していた。スイス人技術者フラウエンクネヒトは書類を複写し、それをイスラエル工作員へ渡す。71年、逮捕されたフラウエンクネヒトはスイス法廷でスパイ罪の有罪判決を受ける。しかし、「欲得ずくではなく、イスラエルに対する好意からやった」と主張したフラウエンクネヒトは、わずか一年間の禁固刑に処せられただけだった。
スイスの裁判の半年後、イスラエルはミラージュ戦闘機のテクノロジーを応用したネシェル戦闘機を完成させた。さらに1975年、イスラエルはクフィル戦闘機の開発に成功した。

Dassault Mirage 5 Fuerza Aérea de Chile

1967年の六日戦争の最初の数日間に、この新型戦闘機の卓越した性能のおかげで、ダニエルと仲間のパイロットたちは敵国の空軍に対し、目覚ましくも決定的な勝利を得ることができた。一日のうちに空軍を破壊されたエジプト軍の司令官はダッソー機について、蚋のように血を吸いコブラのように噛むと悔しそうに述べた。その飛行機はイスラエルと密接に結びついていたから、マルセル・ダッソー自身、それがまちがいなくその上空を支配するであろう灼熱の砂漠の歪んだ幻を表す言葉、悪夢の中に身をよじる亡霊を指す言葉を、その名前に選んだ。
ミラージュ(蜃気楼)がそれだった。


『ミラージュを盗め』p.131


ミラージュ設計図強奪に関する脚色は次のようになる。除隊したダニエル・カレンはロンドンのイスラエル航空の事務職を得る(ダニエルは自分でそうしたと思っているが、父親エミールの手の込んだ計らいであった。その父親の計らいも、妻でありダニエルの母親であるレオノーラの意向を酌んだものであった)。外国での新しい生活が不本意な除隊──彼は国のためにもっと戦いたかった、ミラージュを操縦し空高く舞い上がりたかった──によって塞ぎ込んでいた青年の気分を一新させる。
イスラエル高官の息子であるダニエル・カレンの訪英は、すでにアメリカの情報機関に捉えられていた。CIAのイアン・マクニールは、イスラエルの動きを監視し、その目的を探るために、英国議会でリサーチをしているアメリカ人研究者ラクウェル・ギボンズをダニエルに接近させる。ラクウェルは貧しい家庭の出身で、アメリカ政府が資金提供をしている財団によってイギリスで研究することができた。そのかわりに彼女も、アメリカ政府に対して「何か」をする義務を負っている。ラクウェルは独立心が強く自由闊達で振る舞いも大胆。そんな彼女がダニエル・カレンに出合い、その実直で誠実で独特の愛国心に心打たれ、彼に心惹かれていく。「あなたがたはお国のために戦ってたちまち戦争を終わらせた。ヴェトナムのような泥沼とは違ってね」。ラクウェル・ギボンズのダニエル・カレンへの個人的な関心と個人的な称賛、そして彼に対する個人的な親愛の情は、ダニエルが背負っているより大きなものも含まれる。「だからあなたは自分の国のことが何もわかってないと言うのよ。テレビ見ないの? ソヴィエトがエジプトを大規模に再武装させてるわ。ナセルは人類が月へ到達する前にイスラエルを滅ぼすって大いばりよ」。
作者ジェイムズ・フォレットは、イスラエルに協力するアメリカ人の二つの立場をラクウェルとマクニールで代表させる。ラクウェルはイスラエルに同情し、純粋に「彼」のために役に立ちたいと思う。一方、マクニールは、イスラエルが中東において軍事的優位にあれば、他のアラブ諸国はその対抗のために米国の武器を購入し、それによって政治的にも優位な立場を得ることができる──「イスラエルはわが国にとって不必要な友であり、アラブはわが国にとって必要な敵というわけだ」。
この二人のアメリカ人が代表するイスラエルへの「友愛」は重要で、ジェイムズ・フォレットは、こういったアメリカの隠された援助があったからこそ、イスラエルの作戦は成功したのだと読み取れるように物語を展開していく。表のヒーローがダニエル・カレン(イスラエル)であるなら、裏のヒロインとヒーローはラクウェル・ギボンズとイアン・マクニール(アメリカ)であるかのように読み取れる。アメリカの行為は、小説上の二人のアメリカ人に擬似化されている。二人のアメリカ人の行動や思考は、アメリカという国家の行動や思考に擬えられている。そこにあるのは、そのような「友愛」の是非という問題ではなく、それを理解するか理解しないかという問題である。

ダニエルは、マルセル・ダッソー社のライセンス会社ズルツァーの、そのまた文書作成下請け会社ルフテック社に狙いをつける。ダニエルとラクウェルはルフテック社のあるスイスのヴィンタートゥールでバーを開く。ルフテック社の社員が立ち寄るに最も似つかわしい場所である。そこへルフテック社のトレーシング・オフィスのマネージャーであるアルバート・ハインケンが通い始める。アルバートは会社でも家庭でも自分が邪険にされていると思っている。ラクウェルは自らの判断で(ダニエルに内緒で)、そんなアルバートを誘惑する。気の大きくなったアルバートラクウェルに襲いかかる。もともと気の弱い男であったアルバートはそれに対する罪悪感から自殺をしようとする。ラクウェルはイスラエル大義を説明し、協力を依頼する。後日、ラクウェルとダニエルから申し分のない謝礼を提示されたアルバートは、それ以上に、自分の罪の償いと大義のために2人に忠誠を尽くすことを誓う。アルバートはミラージュの設計図のコピーを二枚とり、本来は二枚提出するはずであった一枚を税務署へ、もう一枚はダニエルらに渡す。ダニエルは設計図のコピーを撮影しマイクロフィルムに収める。ダニエルは夫婦として滞在しているイスラエル工作員へミラージュの設計図を撮影したフィルムを渡す。

作戦の細部の相違以外は、ここまではおおよそ事実(とされる)に擬えたものだろう。精密に丹念に注意深く現実の出来事が模倣され、それと「近似した出来事」が組み立てられていく。加えて、エンターテイメントとしてのフィクションには、この計画が妨害され、この計画自体が潰えてしまうかもしれないというサスペンスフルな展開が望まれる。それは誰が見ても悪役の仕業でなければならない。そうであればこそ、そもそも他国の企業の財産である設計図を略奪するという行為の是非が曖昧にされ、邪悪な連中に対峙するヒーローとヒロインの物語として理解されるからだ。問題は事の是非ではない、それをどう理解するかである。擬似問題は、そのためにある。「それ」をどう理解するのかを促すために「近似的な問題」が構成される。

そこでまず、ジェイムズ・フォレットはヤコブ・ヴィールというイスラエル側の裏切り者を創造する。ヤコブは元空軍パイロットであり国防省務めであるが同性愛者ということで出世が阻まれていた(モサド長官であるエミール・カレンがそのような「弱み」のあるヤコブが政府高官になることはイスラエルの「セキュリティ」に負荷を与えると判断した)。ヤコブはその地位を利用し、英国人ラッキー・ネイサンが経営するラック航空と契約を結び、リベートをもらっていた。ヤコブはフランスの武器禁輸によるミラージュの代替をラック航空へ発注することをネイサンに伝える。ネイサンはそれをあてに銀行から多額の資金を得る。そこにミラージュの設計図が手に入るかもしれないと、イスラエル国防相からヤコブへ待ったがかかる。チンピラあがりのネイサンは、そんなこと受け入れることはできない──すでに銀行から取り立てがあり、ネイサンの裏には南米の武器商人もいる。ヤコブから情報を聞き出したネイサンは、殺し屋あがりの部下を引き連れ、ダニエルの計画を阻止するためにスイスにやってくる。
このヤコブ-ネイサンが、ダニエルらのミラージュ設計図略奪計画を阻む役割を担っていることは、作者が読者に注意深い読みを要求しているようだ。なぜなら、ダニエルやラクウェルがスイスで「仕事」を始めるにあたり、営業をするために身分を証明する詳細な文書を作成し、現地スイスでも不動産屋と綿密な交渉をし、その手順が丹念に注意深く小説の中で記述されている。それらの描写は、まるで作者が事実を知っているかのように、いかにも確からしく見える。
一方、ヤコブ-ネイサンの側はどうか。イスラエル政府の仕事に携わっているヤコブを、モサドは監視しており、彼のプライベートなプライヴァシーについても知り得ているのに、(後で発覚するとはいえ)ネイサンのラック航空がどういう会社であるのかつかめていないことは、どう考えても不自然に思える。ヤコブはたびたびロンドンを訪れネイサンに会うだけではなく、そこで少年を買っていた。さらにそこにネイサンつながりで南米の大物武器商人が加わる。英国でイスラエルの動きを観察していたCIAは何をやっていたのか? つまりダニエル側の精密な計画に対して、ヤコブ-ネイサン側は「粗い」。まるでその「粗さ」によって、読者自身が、ヤコブ-ネイサン側の動きはミラージュ設計図略奪を糊塗するために織り込まれたエピソードであることに気づくように、小説が構成されているかのようだ。恣意的に「粗く」織り込まれたかのように見えてしまう一連の流れは、恣意的で「粗く」織り込まれた一連の流れそれ自体によって、「それ」をどう理解するのかを促しているはずの擬似問題が成功しているのか失敗しているのかを判断せよ、と読者に「より注意深い」読解を促しているかのようにも思える。
しかも、ダニエル-ラクウェル側に対するヤコブ-ネイサン側の役割は、それだけにとどまらない。もともと事実とされる出来事を脚色した「近似した出来事」に対し、そこからさらなる脚色を加え(変形させ)、別の「近似した出来事」との接点を探り、それと一体化させる。すなわち、イスラエルのミラージュ設計図強奪を阻むネイサン側は、ダニエルがマイクロフィルムを渡していたイスラエル工作員を殺害し、ダニエルとラクウェルも始末してしまおうとスイスに乗り込んでくる。それに対してダニエル-ラクウェル側が取ったのは、殺されたイスラエル工作員たちの代わりに自らがミラージュ設計図のマイクロフィルムを携え、スイスからフランスへ、そしてフランスを縦断し、シェルブール港から「イスラエルの」ミサイル艦に乗り、フランスの港町から故郷のイスラエルへと逃走する計画である。ここで──悪役ヤコブ-ネイサン側の存在により──シェルブール港でのミサイル艦強奪と、ミラージュ設計図強奪がドッキングする。この二つの事件が交差する扱いは見事で、こういう冒険小説ならではのスリルに満ちている。ミサイル艦強奪とミラージュ設計図強奪は、この同じ時期の、フランスに対するイスラエルの応答として、そもそも動機を同じくする兄弟のような「近似した問題」であった。ジェイムズ・フォレットは、二つの「近似した問題」を同一線上に並べ配置することによって、イスラエルがどれほど武器を必要としているか、それにもかかわらず外国に武器を依存していることのリスクをイスラエルがどのように考え、それに対して必要な措置をどのように取ったのかを説得力をもって描き出す。
一方で、同じ時期に起きたとはいえ、本来は別々の事件であった二つの「近似した問題」が同一線上の軌跡として配置されることにより、フランスのアラブ諸国への「ご機嫌取り」はいったい何だったのか?と読者に注意深い読みを促す。一般のフランス人はたしかにクリスマスには仕事をしないかもしれない。しかし、シェルブール港という軍港の警備は「一般の」フランス人の仕事なのか? シェルブール港の事件がそうならば、もしかしてミラージュ設計図強奪も……。フランス側の度重なる「失態」の是非、それをどう理解したらいいのか?
ダニエルとラクウェルはネイサン側の執拗な追跡を逃れながらフランスを縦断してシェルブール港へと辿り着く。
五隻のミサイル艦は、五つのダヴィデの星の標識を見せながらハイファ港へ向かっていく。TVカメラがその様子を捉える。ジェイムズ・フォレットはTVレポーターの口を借りて次のように記している──”TVカメラはニュースを報道することばかりではなく、そこに立ち会うことによって、それに形を与えるのだ。マクルーハンの言う地球村(グローバル・ヴィレッジ)の時代が到来していた。メディアはメッセージだった。”

一九七三年五月、イスラエルは建国二十五周年祭を挙行した。ワルター・エイタンは記念祭の特別記事に次のように書いた。「イスラエルは二十五歳だが、四千歳でもある。この国では、とりわけすべてが謎めいている。私たちは若さと同じように年齢を意識する。私たちにとってはどちらもが同じように現実であり、両者は矛盾するものではない。私たちは預言者たちの子孫であることに誇りを感じると同時に、イスラエルがこの多事多難な四半世紀に及ぶ新たな独立の時代になしとげてきたことにも誇りを抱いている。同時に私たちは、あるところでは喜んで断ち切り、あるいは少なくとも手直しせざるをえない伝統の下で苦闘している。同様にまた私たちは、今後も長い間、さまざまな困難と戦うことになろうし、また戦わざるをえまい。だがその困難の一部は私たち自身が生み出したものであり、それはこの国の再生と不可分の関係にある。古いものと新しいものは、ほとんど分かちがたい形で現実を成り立たせており、イスラエル国民は自分たちの国のそうした現実の中で生きている。そしてまたイスラエルという国もそうした現実をふまえて世界の中で生きている」


マーティン・ギルバート『イスラエル全史』下巻 p.196-197*3


[関連エントリー]

*1:

イスラエル全史 上

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*2:

モーゼの密使たち―イスラエル諜報機関の全貌

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*3:

イスラエル全史 下

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