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2006年版『犬神家の一族』を観て


横溝正史に開眼したのは実はつい最近で、それまでは、子どもの頃に見た映画&テレビ版の『八つ墓村』あたりの印象を、子どもの頃に感じた印象のまま、ずっとそういう感じの小説なんだと勝手に了解していた。不必要に人が殺され、不必要に死体が毀損され、不必要に男女の情欲が煽情的に描かれる厭らしい大人の小説──つまり、「エロ、グロ、ナンセンス」。中学生の頃に好奇心に駆られて読んでみた『悪魔の降誕祭』がそれに追い打ちをかけた。それくらいの年齢ではよくわからない動機であれほど人が死んで、犯人があの人? そもそも降誕祭にはどれほどの意味があったのか……。すでに、アガサ・クリスティエラリー・クイーンを読んでいたので推理小説としてはそれらとの比較すると物足りず、タイトルから期待した『デビルマン』のような内容でさえもなかった。これによって横溝正史を読む時期を逃してしまった。
その後、京極夏彦の『邪魅の雫』で横溝正史が印象的に描かれているのを目にし、週刊文春『東西ミステリーベスト100』で『獄門島』が再び国内の最高作に選ばれたことから、『獄門島』を読んでみる気になった。容疑者候補となる一癖も二癖もある人物を多数配し、複雑なトリックを小説全体に仕掛けながら、これ以上ないくらいの読みやすい文体で一気に読ませる。そしてあの犯人──アガサ・クリスティの最高作に比肩すると思った。すでに、これまでの読書を含めた様々な体験から「ナンセンス」以外は耐性がついていた。
映画化された有名作を中心に読んだ結果、いまのところ僕の横溝正史ベスト3は以下になる。

  1. 『獄門島
  2. 悪魔の手毬唄
  3. 『本陣殺人事件』

『獄門島』で凄いのは、想定外の犯人。『悪魔の手毬唄』で凄いのは、神話のような真相。『本陣殺人事件』で凄いのは、機械仕掛けのトリック。
いまのところ、と書いたが、横溝正史の代表作と見なされている作品はだいたい読んだので、今後も内容的に偏愛する作品に出合えるかもしれないが(とくに短編小説で)、推理小説としてのベスト3は、この3作でまず揺るがないと思う。

で、小説『犬神家の一族』は、宮川香琴の存在がちょっと不自然なところ以外は面白く読めた。映像作品では変更されがちな最後の見立て殺人も、「斧(よき)」の「よき」に重点が置かれたもので、あの死体の形態もそれによって整合性が取れる。その見立て殺人の徹底さに──そこからうかがえる見立て殺人を完遂させる意思のようなものに──感動した。また、小説では、野々宮大弐をめぐるエピソードが、どこか三島由紀夫の作品を思わせ、そこも印象的だった。
ただ、『獄門島』も『悪魔の手毬唄』も同じく見立て殺人を扱っているが、『獄門島』は俳句という変化球が探偵である金田一耕助に最初から挑戦的に投げつけられていたこと、『悪魔の手毬唄』では最後の「錠前が狂って鍵が合わない」という手毬唄の内容が犯人自身へ向けられ、犯人の計画を狂わせ、犯人に「間違った殺人」を犯させること──手毬唄は、それを利用しようとした犯人さえも想定していなかった解釈によって、犯人自身でさえもその「規則」に従わせる。そういった見立てという「規則」の扱いが『犬神家の一族』よりも物語全体に、探偵や犯人にまで深刻な影響を与えるという点で、より図抜けていると思う。とくに『悪魔の手毬唄』における「狂った規則」が引き起こす後半の悲劇は横溝作品の中でも忘れがたく、自殺した犯人の死体発見場面は胸を熱くする。

市川崑による1976年の『犬神家の一族』は、横溝正史の小説をある程度読んでから観て、素晴らしい映画だと改めて思った。豪華なセットに豪華な俳優、そして音楽もいい。原作が推理小説であることを片時も忘れさせず、それでいてロマンを感じさせる。悲劇だけではなく喜劇的な場面も印象に残る。原作で不自然さを感じた宮川香琴の処理も納得。何より佐清マスクやその死体などのガジェットは、もはやポップアートといえるものだ。石坂浩二主演の他の金田一耕助シリーズを観て、これまでほとんど観ていなかった日本映画自体にも興味がわいた。個人的には、この金田一耕助シリーズでは、刑事役をやっている辻萬長が気になる存在で、シリーズを通しての脇役であるが、『悪魔の手毬唄』では犯人を逃がしてしまうという「重要な失態」がいい味を出していた。この時期の辻萬長が出演している映画も見たくなり、調べてみると、新藤兼人による1973年の夏目漱石原作『こころ』があった。これは期待できるのでは。

先日、2006年版『犬神家の一族』を観た。同じ監督、同じ主演俳優によるリメイクというものだが、実際に見て驚いた。これは1976年の映画を模倣した、ほとんどコピーといってもいいくらいの映画だった。1976年の『犬神家の一族』を観たことがない人は、2006年版『犬神家の一族』をよくできたミステリー映画として普通に観ることができる。しかし、1976年の映画を知っている人にとっては、2006年の映画は1976年の映画と、どのように同じで、どのように違うのかを意識せずには見ることができない。そして2006年の『犬神家の一族』は、1976年の『犬神家の一族』から些細な追加や削除したシーンを別にすれば、ほとんどのシーンは前作を模倣し、その模倣を徹底的にやっている。どうでもいい場面──竹子が葬式で寿司を何度も口に入れるシーンや小夜子がカエルをなでるシーンも模倣している。重要な場面はいうまでもない。犯人が憑りつかれたかのように殺害を犯すシーンや佐清が取調室で嘆き悲しみ椅子から崩れ落ちるシーンも忠実に再現されていた。犯人が毅然と自殺するシーンも。
ただ、今回、2006年版『犬神家の一族』を観て、1976年の映画『犬神家の一族』や原作の横溝正史の小説でもそれなりに感じられたことが、より明確な像となって現れ、そのことについて少し考えた。
(以下、『犬神家の一族』のトリックにニアミスします。)


それは単純に物語世界の外部にある情報からもたらされたもので、そのことを自然と意識して映画を観たからである。それは松子役の富司純子佐清役の尾上菊之助が実の親子だという情報から、それをどこか意識しながら映画を観たからである。
犬神家の一族』における「事後共犯」は、パトリシア・ハイスミスの某作における「交換殺人」と似ている。そして「事後共犯」は「交換殺人」と同様、「その2人」の関係をよほど丁寧に描かないと、どこかご都合主義に見えてしまう。ハイスミス作品と比べ、『犬神家の一族』は、他の派手な見せ場的な要素が多いこともあって、「その2人」の関係が弱く見えてしまいがちだった。2006年版『犬神家の一族』を観て、1976年版を模倣した同じシーンであっても、実の母子が演じているという事実が、そのトーンを微妙に変化させる──それは、ありのままに何かを見たり聴いたりはできないということだろう。
「その2人」の関係とは、息子を溺愛する母親と、そんな母親を慕う息子の関係である。このような関係をテーマにした映画は、どこか惹かれるものがあるのだが、自分の知っている範囲ではさほど多くない。すぐ思いつくのはトム・ケイリン監督の映画『美しすぎる母』ぐらいだろうか。そして「その2人」の関係をより深く想像することによって、「事後共犯」が俄然リアルなものとなり、そこから、さらにより深く想像することによって、それが単なる「共犯」に限りなく接近していく。完璧な犯罪とはどういうものだろうか?


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