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『ザ・ファーム 法律事務所』の2つの感想


トム・クルーズは好きな俳優なので、そのことを中心に映画『ザ・ファーム 法律事務所』の感想を気楽に書こうと思った。しかし、その中のあるエピソードのことを書いているうちに、それが何かと何かをつなぎあわせ、それによって様々な思いがよぎり、キーを打つ手が止まらなくなり、一気に「そのこと」を書き上げた。映画に関連することから生じたとはいえ、最初に書こうと思った前半とかけ離れたものとなり、結局、別々の感想として二つに分けた。2番目の感想は削除してもいいかなと思ったが、しかし結局また別のことを書いているうちにそうなるだろうと思うし、それに捕らわれていることも含め記録しておくことは、それに触れないで表面的に好きなことだけを書くことと同様、ある種の精神的な気休めになると思った。このブログは何を書くかという判断も含め気楽なものとしたい。


【『ザ・ファーム 法律事務所』第1の感想】
Boy next door という言葉がまさにそれだ、という映画『卒業白書』を観て以来、トム・クルーズはずっと特別な俳優であり、今でも「特別な熱意」でもって見ている──なんとかして彼をサイエントロジーからローマ・カトリックまたは聖公会あたりに改宗できないか、いっそのこと無神論者にならないか、と。
このジョン・グリシャム原作、シドニー・ポラック監督の映画『ザ・ファーム 法律事務所』も、そんなトム・クルーズへの「特別な熱意」を意識しながら観たのは当然のことである。トム・クルーズ以外の俳優はすべて脇役(平等に脇役)、ストーリーでさえもトム・クルーズを魅力的に見せる演出の一つ(原作小説との微妙な改変はトム・クルーズをより引き立てるため)。それはトム・クルーズソリストを務めるピアノ協奏曲のような構成──デイヴ・グルーシンのピアノの音がトム・クルーズの様々な肉体の動きと連動し、トム・クルーズの様々な心の動きを表わす。だからトム・クルーズを「特別な熱意」で見ても特別なエクスキューズなど必要ない。
The Firm - Trailer

ミッチ・マクディーア役のトム・クルーズはハーヴァード・ロースクール卒業生。このころはヤッピーという言葉がまだ残っていたのかわからないが、トム・クルーズが演じるのは、ヤッピーたる資格を例外的に得ることのできた貧しい労働者階級出身の青年であり、ヤッピーへの特別な熱意に突き動かされた上昇志向の青年である。トップクラスの成績を売りに、大手数社の面接をこなし、そしてメンフィスのさほど規模の大きくない税務に特化した法律事務所ベンディニ、ランバート&ロックの面接を受ける。そこで法外な報酬と家と車の贈与が提示される。他社と比べて格段に魅力的な条件。それはトム・クルーズを事務所に雇い入れるための誘惑だった。ベンディニ、ランバート&ロックが予め大学の就職課を買収し、他社の条件を探り、それに上乗せした年収金額だった。トム・クルーズはその禁断の果実を手にする。
こうして無垢で裸だったアダムは、上質の白いシャツで筋肉質の体を包み、折り目正しい高価なスーツで武装し、メンフィスの法律事務所ベンディニ、ランバート&ロックの一員になる。

専用のオフィスを与えられ、早くも膨大な仕事と司法試験の勉強の両方を与えられたトム・クルーズは、そのTPOを合わせたスーツを着こなし、ファッションモデルのように画面を右に左へと異動する。ネクタイをしっかりと結んだポーズ、少し緩めたポーズ、だらりと大きく緩めたポーズ。それに合わせて、精悍な表情から、少し一息ついた表情、疲労感があっても魅力的な表情を、そして警戒感をまったく欠いたような無防備な表情をカメラの前にアップで見せる。カメラは「特別な熱意」でもって彼を映し出す。それは意味のあることなのである。なぜなら、トム・クルーズは、映画の中でも「特別な熱意」によって、映画の登場人物たちに監視されていたのだから。
ケイマン諸島への出張もそうである。トム・クルーズは、どこか楽園のように見える島の雰囲気とはいささか異にする、しかしだからこそ引き立つネイビーブルーのスーツを美しく着こなし顧客との会談で才気を見せる。ただし場所はケイマン諸島である。トム・クルーズは薄々と何かを感じ、善悪を知る者特有の表情を見せる。おそらく、その「善悪を知る者」としてのトム・クルーズの存在は法律事務所にとって都合の悪いことだったのだろう。蛇の誘惑が、トム・クルーズの前に差し出され、楽園に相応しいように服を脱がされる。そのシーンは写真に撮られる。
ケイマン諸島での情事の証拠写真が必要になるのは、ミッチ・マクディーアはジーン・トリプルホーン演じるアビーと結婚していたからである。法律事務所はアビーにも「特別な熱意」で様々な善意に見せかけた「干渉」をする。例えば子どもをもつように、と。
やがてベンディニ、ランバート&ロックの同僚二人が不信な死を遂げ、その死を不信に思ったトム・クルーズは探偵に調査を依頼する。が、その探偵も殺される。そこへFBIがトム・クルーズ接触を図る──FBIも「特別な熱意」で彼を観察していたのだった。トム・クルーズはさらなる善悪の存在を知る。破格の報酬は、やはり禁断の果実で、配偶者や子どもは人質であった。法律事務所は邪悪な仕事をさせるために若い弁護士をリクルートしていた。それはずっと続いていた。通常の業務から邪悪な業務に移り変わるとき、リクルートされた弁護士は、もはや逃れられない状況に陥っている。すでに(そうとは知らずに)手を染めた汚職、人質になっている配偶者や子ども。知られたくないプライベートな情報も法律事務所が手中におさめている。脅し、恫喝。ミッチの同僚の死は、そのことを知った弁護士が事務所を辞めようとし殺されたものだった。
FBIは条件を提示して自分たちに従うよう強要する。保護はする、と。しかし問答無用の高圧的な振る舞いである。ミッチ・マクディーアのプライベートなこと──刑務所に服役している兄の存在をちらつかせ、それを交換条件のように、まるで実兄を人質のように扱っている。それはどこかベンディニ、ランバート&ロックがトム・クルーズにしてきた(しようとしてきた)ことと似ている……「条件を提示する側」「自分が条件を提示する側」であることを少しも疑っていない傲慢さに。
善悪を知る者であるトム・クルーズは決断をしなければならない。法律事務所の「特別な熱意」とFBIの「特別な熱意」の、そのどちらかを。しかし、「他人を観察する側」すなわち「他人を観察する側」であることに何の疑問も抱いていない傲慢な両者の、そのどちらにも抵抗することができるのではないか。そう考えたトム・クルーズは、顔に汗し、両者を欺き、両者から逃れ、両者にそれ相応の打撃を与える。観ていて、胸のすく思いがした。

ところで、ジョン・グリシャムの原作小説と映画での一番大きな改変は、小説ではミッチがケイマン諸島での情事を妻のアビーに知られないように奔走するのに対し、映画ではトム・クルーズジーン・トリプルホーンに自分の罪を告白することである。そのシーンは「特別な熱意」でもって丁寧に時間をかけて撮られている。印象に残るシーンである。トム・クルーズの微妙な身体の動き、微かに変化する表情、様々な意味を読み取れる眼差しがカメラに写し取られている。まるで教会で告解をするトム・クルーズを見ているような。だから……。



【『ザ・ファーム 法律事務所』第2の感想】
ミッチ・マクディーアはハーヴァード・ロースクール卒業生。このころはヤッピーという言葉がまだ残っていたのかわからないが、ミッチはヤッピーたる資格を例外的に得ることのできた貧しい労働者階級出身の青年で、ヤッピーへの特別な熱意に突き動かされた上昇志向の青年である。ここが「奴ら」に付けこまれる原因になったのだろう。上流社会における異質な存在──それがミッチの精神的な弱み、負い目になる。それを「奴ら」は見逃さない。そういう何かしら「弱み」のある人間を「奴ら」はずっと狙っていたのだ。「奴ら」は法外な報酬と家と車でヤッピーに憧れる青年を自分たちのメンバーに組み入れようと画策し、自分たちのメンバーになるように仕向け(いかにも「それ」がミッチの自発的な行為であるかのように思い込ませ)、釣り上げる。第一任務完了である。ミッチ・マクディーアはメンフィスのある法律事務所にメンバーになる──巧妙にメンバーにさせられるのである。

なお、ここで使用している「奴ら」とは、ネタバレにならないように便宜的にそう書いている。一人、または複数の者で、端的に「悪魔」でもいいし、「アメリカの新興学問」関係者であってもいい。要するに他人が「そうである」ということに付けこみ、脅し、恫喝し、他人の「あり方」を規定する何か特別な権能を自分たち有していると思っている思い上がり──薄汚い手段で他人を勝手に強引に包摂し、包摂したからには自分たちに従えと命じてくる、傲慢を絵に描いたような者たちのことである。

専用のオフィスを与えられ、早くも膨大な仕事と司法試験の勉強の両方を与えられたミッチ・マクディーアは、そのTPOを合わせたスーツを着こなし、ファッションモデルのように画面を右に左へと異動する。ネクタイをしっかりと結んだポーズ、少し緩めたポーズ、だらりと大きく緩めたポーズ。それに合わせて、ミッチ・マクディーアは精悍な表情から、少し一息ついた表情、通常は人に見せない/見られない疲労感を露わにした表情。自分専用のスペースでくつろぐミッチ・マクディーアの「動き」をカメラは捉えていく。ここでミッチ・マクディーアが自分のプライベートなスペースで、自分のプライバシーは誰にも侵害されていないかのように無防備な姿態を晒し出す演技は重要である。
それはミッチ・マクディーアにはパブリックにしたくないプライバシーがあったからである。トレイラーハウスに住んでいる貧しい母親(映画では言及されるだけ、父親は炭鉱事故で死亡)と刑務所に服役している兄レイ・マクディーアのことである。ミッチのプライベートに関することは、すべて彼の「弱み」になる。「奴ら」はそれに付けこんでくる。それに付けこみ、自分たちの要求を強要してくる。「弱み」によって、「弱み」があるゆえにそれを受け入れざるを得ない状況に陥らせることが可能な人物(わたしたちの誰かである"X"、あなたたちの誰かである"X")を狙ってくるのである──「アメリカの新興学問」関係者がそうであるように。
同じくミッチの妻アビー・マクディーアも彼の「弱み」になる。愛する妻、あるいは愛する近親者がいればいるほど「奴ら」にとっては都合がいい。「奴ら」は〈愛〉を自分たちの取引材料としてしか見ていない。だからアビーに子どもを作ることを奨励するのである。〈愛〉は「弱み」になる。「弱み」になる人質は多いほどいい。〈愛〉を信じている人たちが「奴ら」の犠牲になるのである。〈愛〉をこんなことのために利用する、そして〈愛〉をこんなことのために奪う。そんなことは絶対に許してはならない。絶対に。
しかも「パブリックにしたくないプライバシー」は作られるのである──「奴ら」によって「弱み」は画策されるのものなのである。ミッチは些細な仕事のために上司のエイヴァリー・トラーに連れられてケイマン諸島へ行く。そこでミッチは法律事務所がやっている仕事の胡散臭さに薄々気がつく。しかしその夜──ミッチは暴行を受けていた現地の女性を助ける。その女性に誘われ、それを受け入れる。これが罠であった。仕組まれたものであった。ケイマン諸島での女性との情事は記録され証拠の写真を撮られていた。そもそもミッチにはプライバシーなどなかった。プライベートなスペースなどなかった。オフィスも自宅もすべて盗聴され監視されていたのである。プライベートだと思っていたスペースはパブリックなスペース同然だった。そしてエイヴァリーはミッチのメンター(指導教官)として君臨する。

ケイマン諸島での出来事から微かな記憶が甦る。どこかで見た微かな記憶である。「ある学会」に参加した海外の大学に留学している日本人の学生が話題にされる。その大学名が名指しされる、その大学に所属している教員の名が告げられる。そして、「ある学会」。それは、その大学に留学している日本人という制限によって、その当該の人物が特定されないだろうか? とりわけその留学生のご両親や友人たちはそういった情報に何か敏感に反応しないだろうか? それが「パブリックにしたくないプライバシー」だったとしたら、それは「間接的なアウティング」にならないだろうか? しかもその場が信頼できる人たちの集う「プライベートなスペース」だと信じ、だから話したであろうプライベートなこと──遠距離恋愛をしていることや性的な話題など。それが後日、別の場所で、馬鹿にした口調でべらべらと明かされる。それは「パブリックにしたくないプライバシー」が本人の意に反してパブリックに曝されてしまう暴力に他ならない。それが性的な話題を含んでいたら、それはセクシュアル・ハラスメントではないか。それを望んでおらず、それを拒んでいるのに、それを強要し、性的な言動がまかりとおる「スペース」に勝手に組み入れることは暴力である、セクシュアル・ハラスメントである。そんなことがまかりとおる「スペース」など消えてなくなればいい。

「奴ら」は言いなりになりそうな人物"X"を慎重に選ぶ。どこか「弱み」がありそうな人物"X"を選ぶ。使えるかどうかを試し、次の段階へ行く。結婚し、子どもができた頃合いを狙って、自分たちが本当はどんな「薄汚い仕事」をしているのかをXに打ち明ける。"X"はもう「そこ」から抜けることができない。すでにある程度の「薄汚い仕事」に「それとは知らずに」関与し、それに「協力」してきたことも知らされる。これまでの"X"に関するプライバシーはすべて記録されている。"X"の愛する者たちも人質にされる……。「奴ら」の言いなりになり、「奴ら」に利用される。「奴ら」は他人に「指図する側」であり、他人を「利用する側」にいるのである。「弱み」のある人間、それは必然的にそうなるであろう「少数者」と言ってもよいかもしれない。

これは映画のことだけだろうか?
クィア」(この唾棄すべき言葉をできるだけ使用したくないので以後「アメリカの新興学問」と併記する)がやっているのはこういうことではないか。なぜ、「アメリカの新興学問名」に他人を勝手に強引に包摂するのか。他人を勝手に強引に包摂する権能はいったいどこから得ているのか。「アメリカの新興学問名」に勝手に強引に包摂することは暴力であり、セクシュアル・ハラスメントなのである。それが苦痛なのである。だからやめてもらいたいのだ。
クィア」は「ペドフィリアの擁護を強要する」。そのための様々な仕掛けを張り巡らしている。それを強要するために様々な手を使って、そうせざるを得ない状況に他人を陥れる。それは「弱み」が必然的にある「少数者」を狙う。「性的少数者」という言葉の不必要なまでの多用は、それを意図し、同時にその意図を隠すために、そのためにこそ、不自然なまでに繰り返し使用されるのである。しかも、それは、その言葉を異様なまでに多用するものが、「性的少数者」全体の指導教官(メンター)であることも印象づけるだろう。自分がその中のどれであるかに言及せず、それを曖昧にし、しかし「その全体」に対して何か指導的な立場であることを、その権能を有しているかのように振る舞うのである。
そこに「非規範的な性」なるものが加わる。「非規範的な性」っていったい何だ? 誰の、何について指し示しているのだろう? なぜそんな言い方をするのだろう? 何か特別な操作をするために使用しているとしか思えない。後で何とも言えるようにそんな言葉を使って他人を誑かし、そして陥れようとしているとしか思えない。なぜそんなものに勝手に強引に包摂されなければならないのか?

映画『ザ・ファーム 法律事務所』を見て思った。こういうことはきちんと社会に明らかにしていかなければならないと。
映画『ザ・ファーム 法律事務所』を見て思った。こういうことはきちんと社会に訴えていかなければならないと。

クィア」に包摂されることによって、現に、この私が苦しんでいるのである。この苦しみは私のせいなのであろうか。「アメリカの新興学問名」に包摂されることで苦しんでいるのは私だけなのだろうか。なぜ「アメリカの新興学問名」に包摂されなければならないのか──「ペドフィリアの擁護を強要される」ために。「アメリカの新興学問名」に包摂されなければならない義務が私にあるのだろうか。それは誰が決めるのか。「ペドフィリアの擁護を強要する」ために利用される──それが「アメリカの新興学問名」に包摂されることの意味であり、それが私の苦痛の原因なのである。

見方を改めたい。こんなに私を苦しめること、他にも私以外に苦しみを感じる人がいるかもしれないこと、すなわち「アメリカの新興学問名」に包摂されること、包摂されことによって「ペドフィリアの擁護を強要される」こと、それが研究費という税金で賄われていること──そのことが私をより一層苦しめるのだ。「それ」に包摂されるという、そのことによって様々なことが強要される事態を招いているこのことが、公的な資金によって、公的な資金を得てなされている。それが私をより一層苦しめる。国家が税金を使って、この私を「クィア」=「アメリカの新興学問」という言葉に包摂し、そのことによって、この私が苦しみを抱いている。このことを研究費を与える側にいる文科省はどのように考えているのだろうか。
アメリカの新興学問名」に無理やり包摂されることによって、苦しむ人がいること。そのことを文科省はどの程度把握しているのだろうか。そもそも「アメリカの新興学問名」に包摂され「ペドフィリアの擁護を強要される」という苦痛を苦痛として理解しているのだろうか? それが苦痛だと理解してもらうにはどうしたらいいのだろうか? 私の「この苦痛」は何かと比較しなければならないのだろうか──何かと近似した例を示さなければならないのだろうか。例えば、幼い子どもをもつご両親や保護者の方々の声を文科省はどれくらい汲み取っているのか、もしそうなら、それに比して「アメリカの新興学問」に国家から研究費が与えられているというその配分は適切なのか。
そもそも「性に関係する研究」に対して「クィア」という言葉を冠さなければならない理由などあるのだろうか。
なぜ「性に関する研究」がすべて「クィア」という言葉との関連をもつものになってしまうのか。
文科省が、「アメリカの新興学問名」に勝手に強引に包摂され「ペドフィリアの擁護を強要される」ことに苦痛を感じている人がいるにもかかわらず、その「アメリカの新興学問」に研究費を与えていることを、社会の多くの人はどう考えているのだろう。「そのこと」はどれほど認知されているのだろうか──「クィア」に包摂され「それ」を強要される、そのことが多大な苦悩になっている人たちのことを。「アメリカの新興学問名」に包摂されることは端的に「私の苦痛」なのである。「アメリカの新興学問名」に包摂され苦痛を感じている「この私」がここにいる。もしかしてそう感じている人が他にもいるかもしれない。そういう私たちはここにいるのである。そういう私たちの存在を、多くの国民や市民、あるいは納税者に「そのこと」を知ってほしい。
もし、知れられていないのだとしたら、「そのこと」を広く訴えていかなければならない。私は現に「アメリカの新興学問名」=「クィア」に勝手に強引に包摂されることに苦しんでいるのだから。包摂されることによって「生のあり方」が勝手に規定され、それを強要されるのだから。そのような苦痛があることを多くの人に伝えなければならない。訴えていかなければならない。