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愉しい疑似問題 〜 映画『ダ・ヴィンチ・コード』


映画『ダ・ヴィンチ・コード』を今頃になって観た。10年以上前に公開されたヒット作で、ダン・ブラウンの小説もベストセラーになっているので、ミステリーであるが内容をある程度明かしながら以下に映画を観た感想を。

人類史上最大の謎を解く!映画『ダ・ヴィンチ・コード』を振り返る

まず映画の全体的な印象。トム・ハンクスオドレイ・トトゥジャン・レノイアン・マッケランといったスター俳優を動員して、まさにスピーディで息もつかせぬ展開(あの人ってアレだったの?という本格推理小説ならアンフェアと言われかねない人物設定)と資金力に見合う派手な演出、そして何よりパリ(とそれ以外の都市)の観光地を観光局のプロモーションにそのまま使えそうな魅力的なアングルで捉えられた映像。上映時間約2時間30分は満足のいく時間だった。

で、その2時間30分という時間を僕は楽しめたのだが、その2時間30分を楽しめない人も大勢いる(いた)ことを知っている。それどころか、その2時間30分をボイコットする動きさえあったことを知っている。

え、どうして? 子どもに見せられないような性描写なんかなく(そもそも性描写などない)、あの程度の殺人はホラー映画の非ではないし、お金をかけた映画らしくその見どころも満載、たとえそのノリが合わなくても、ボイコットをすべき重大な問題があったのか? もしかして僕が観た『ダ・ヴィンチ・コード』と違う?

僕が観た『ダ・ヴィンチ・コード』は……と思い出してみる。ここで描かれているのは、陰謀論めいたキリスト教偽史を、それが偽史であるかどうかも含めた「擬似問題」として提示したフィクションだったはず。正史と偽史、想像上の組織と実在する組織、それにもっともらしい仮説とハーヴァード大学教授ロバート・ラングドンという権威が組み合わさり、「擬似問題」がいかにも確からしい問題のごとく議論される──それが非常にスリリングで見応えのあるエンターテイメントになっている。

ルーヴル美術館の館長であるジャック・ソニエールがトム・ハンクス演じるロバート・ラングドン教授に「ある問題」を託す。ラングドン教授が、その問題に取りかかり、それを最終的に解く。それを追体験すること。それをまるで自分に課せられた問題であるかのように、私たちも「その問題」を解くこと。これがこの約2時間30分の映画を楽しむための前提である。一方で、その前提を受け入れないと(問題を提出する側の、問題を提出するという権能を認めないと)、この『ダ・ヴィンチ・コード』という映画自体が「その問題」を受け入れるか、否か、そして、「その問題」を自分に課せられた問題として受け入れるか、拒絶するか、という選択をめぐる「別の問題」の主戦場になってしまうかもしれない。

僕はダン・ブラウンあるいは映画監督ロン・ハワードの「そのような権能」を認め、その選択自体を自分が有していることを確認し、その条件の下で、彼らが提示する「擬似問題」をラングドン教授と競うように、ラングドン教授が問題の核心に限りなく接近していくそのときの高揚した心理状態と「近似した」経験を愉しむことにしたのである。

で、僕が観た『ダ・ヴィンチ・コード』で出題された「その問題」は……と思い出してみる。それはいくつかの要素が組み合わさって成り立っている。いくつかの要素を組み合わせて出題されている。だとしたら複数の要素を分解していけば、「その問題」そのものに到達できるだろう。

まず、冒頭。ルーヴル美術館の館長ジャック・ソニエールが撃たれ瀕死の状態でありながらフィボナッチ数列による暗号メッセージを残し、自らレオナルド・ダ・ヴィンチの『ウィトルウィウス的人体図』の真似をして死んでいく。これはジャック・ソニエールが問題を提出し、誰かがその問題を解く、という「問題を与える側」と「問題を与えられる側」──その二分法に聴衆を自然に導くものであろう。この映画における世界は、「問題を提出する側」と「問題を与えられる側」の二分法で成り立っている。聴衆はそれを受け入れなければならない。聴衆は「問題」を受け入れなければならない。
暗号メッセージは、オドレイ・トトゥ演じるフランス司法警察暗号解読官ソフィー・ヌヴーに届き、『ウィトルウィウス的人体図』は宗教象徴学の権威であるラングドン教授を呼び寄せる。つまり、ジャック・ソニエールは、「問題を与える」に際し、「問題を与えられる側」の属性を選別しているのである──相手を狙って、それを受け入れざるを得ない対象を絞って「問題を提出」しているのである。このことはジャック・ソニエールという人物の有する(と見なされる)「権能の範囲」というものへと視座を向けさせる。ルーヴル美術館の館長であるジャック・ソニエールは、ルーヴル美術館内で「その権能」を発揮することができる。だからキー・ストーンをルーヴル美術館内へ隠すことができた──オルセー美術館ではなくて。ジャック・ソニエールはルーヴル美術館の職員へある一定の権能を揮うことができるだろう。しかしジャックマール=アンドレ美術館の職員へは、その権能は及ばないし、そのことは自身も自覚しているだろう。勝手に強引に他人を配下のルーヴル美術館職員のように扱えば、それは端的に越権行為である。

ジャック・ソニエールを殺すポール・ベタニー演じるシラスの役割は、問題を攪乱しつつ、登場人物を繋ぎあわせるために要請されたものだろう。この典型はアガサ・クリスティの『ABC殺人事件』にまで遡ると思う。クリスティの小説でのあの人物と同様、誰かに操られた人物の独白は、映画を観ている私たちもまた、誰かに操られる/操られている可能性を排除できないことを自覚させられる。大義のために自己犠牲を強いられる美しい暗殺者シラス。彼に同情しつつも、問題は彼の行為や信念とは別のところにあるということに目を向けねばならない。

ついでに記しておくと、アガサ・クリスティの『ABC殺人事件』は個人的にすごく気に入っている作品で、ある種の思考法への耐性になっている。それは──Aが起きて次にBが起きた、そしてCも起きた、だからこれは「アルファベットの問題」で、だから次に起こるのはDである、というもの。この「アルファベットの問題」というのが偽の問題で、これこそが巧妙に仕組まれた擬似問題だった。ここでは「レオナルド・ダ・ヴィンチの問題」というのが、それと「近似した問題」であろう。

シオン修道会という秘密結社は偽の、想像上の結社であることがわかっているが、ダン・ブラウンは彼の提示する擬似的な歴史の中心的役割を果たすこのシオン修道会と、実在する組織オプス・デイを対立する一対のものとして扱っている。対立する一方が実在するのだから、それと対立するもう一方も……。擬似問題を考える場合に、このことを思い出す必要がある。本当に、これとあれは対立しているのか──そもそも対立できる関係にあるのか、対立していると見せかけることで利益を得るのは誰か。そして実在した人物レオナルド・ダ・ヴィンチアイザック・ニュートンがそのメンバーだったことになっていること。これは「あの人」だけではなく「この人」もそうだから、ニューヨークのどこそこだけではなく、パリのどこそこもヒューストンのどこそこもそうだから……という信憑性を心理的に植え付ける役割を果たしていると思う。ダ・ヴィンチだけで充分なはずの問題に、ニュートンで補完して、その問題をより確からしく見せるのである。

聖杯をめぐる争いは、実際に歴史的に確認されている事実とダン・ブラウンのフィクションが示す仮説との結節点を担っていると思われる。仮説の代理としての聖杯伝説、そして仮説をめぐる論争の代理戦争としての聖杯の奪い合い。テンプル騎士団がどんな「汚名」を着せられて壊滅させられたか、それを思うとイアン・マッケラン演じるリー・ティービングの執念は、その俳優の迫真の演技とともに、充分に理解されうる。
この様々な利害をもつプレイヤーによって、様々な利害の代理物としての聖杯を奪い合う構成は、京極夏彦の『狂骨の夢』を思わせる。それぞれの登場人物が見果てぬ夢を追っているのである──それが擬似問題から生じた無意味なものであるかもしれないのに。

最後に中心となる問題。ストーリー全体を貫き、ストーリー全体を意味づける仮説は、イエス・キリストマグダラのマリアと婚姻関係にあり、彼女はイエスの子どもを宿したということである。そういう研究もあるだろうし、実際にトマスによる福音書やフィリポによる福音書、マリアによる福音書もあり、そこから導かれる仮説は、それ自体としては不当ではない(ソフィー・ヌヴーがその末裔であるというのも不当ではない。なぜなら、その仮説を正しいと見なせば、この世界のどこかにその血を引く人間がいても間違いにはならない。それがソフィーであるかどうか、または、その血を引くのはソフィーと彼女の弟だけである、とはまた別の問題)。
しかしそれをずっと後の、時空を超えた芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画作品『最後の晩餐』を根拠に導いていくのは虚を突かれた感じだった。何しろ通常、使徒ヨハネとされている人物を『モナリザ』のように見えるから──その女性のイメージに近似しているから──女性である、すなわちマグダラのマリアであるとし、さらにイエスと「マグダラのマリア」との間にある空間を女性の象徴と見立て、聖杯との関連を指摘する──聖杯は代理ではなかったのか、それなのに、その代理物がオリジナルであることを導く根拠になっている。
なるほど、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』をこのように解釈すれば、問題は解決するだろう。やはりそれが問題だったのだ、と思わされ、やはりそこに問題があったのだ、と納得させられる。根拠の提示が実に上手い。何しろ冒頭にレオナルドの『ウィトルウィウス的人体図』を模した死体が発見され、それ以降、ダ・ヴィンチの仕掛けたとされる暗号解読に翻弄されるのだから、「レオナルド・ダ・ヴィンチが考案した問題」が仮説の真偽を判断する最終的な鍵になることは、予め条件づけられている──「その条件」の下で、「その条件」を課せられ、問題に取り組むことが要求されていたのだから。
古代における史的イエスをめぐる問題が、15世紀イタリアの絵画作品の解釈によってその問題が解決される。この離れ技、スリリングではないか。時間をかけたフィールドワークなどしなくても、どこかの誰かが言ったことを「そこ」に当てはめれば、問題と解答がセットで降って湧いてくる、これぞまさに21世紀型の学問研究!


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