HODGE'S PARROT

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『焼け石に水』 Gouttes d'eau sur pierres brûlantes /2000/フランス 監督フランソワ・オゾン

だしぬけに、サンバが始まる。こともあろうに、サンバがだ。あらゆる性関係が暴露され、エゴイスティックなゲームが予想される暗い破局へと、そして誰もが敗者へと導かれそうになるグルーミーな映像の後にだ。そのとき、こともあろうに、だしぬけに、サンバが、四人の登場人物によって踊られる(深淵なベートーヴェン後期弦楽四重奏曲を演奏中のストリング・カルテットが、だしぬけに、服を脱ぎ、サンバを踊るところを想像していただきたい)。

尻を振り、腰を振り、手を振り上げる登場人物たちの姿──しかしなんとも不器用な踊り手たちだ──を見ながら、フランソワ・オゾンの才気を改めて確信した。この型破りな「美学」に僕は当然のことながら狂喜乱舞した。

場所はドイツ。青年フランツは中年のビジネスマン、レオポルドに誘惑され、落ちる。レオポルドは魔力的ともいえる性的テクニックの持ち主だ。レオポルドの家で二人は一緒に暮らすが、しかし次第に、「レオポルドのフランツへの愛」は醒めてくる、というより、フランツを邪険に扱うようになる。そこへフランツの元ガールフレンドのアナと、レオポルドのかつての恋人で性転換して女性になったヴェラが転がり込んでくる。

原作はライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの戯曲。戯曲が原作なので、登場人物はたった四人、舞台はレオポルドの家に限定される「小世界」だ。そして、ゲイ by ゲイのこの映画は、無論単なる足し算ではなく、ファスビンダー × オゾンというハッピーな乗算になっている。同性愛と異性愛を対立させるのではなく、そんな区別さえ無効にし倒立させる「歓待の掟」を提示しながら、その一方、放埓な愛が、結局は、悪魔的とも言える残酷な──つまり冷静なエゴイズムに支配されるという究極のメルヘン。

そう、メールヒェンなのだ、この映画は。フランス語が使用されながらも、場所と登場人物の設定がドイツなのは、やはり意味があると思う。メフィストフェレスさながらの狡猾なレオポルドに魂を──あるいは貞操を──奪われたフランツ、アナ、ヴェラは、怪物的なエゴイズムの犠牲になるしかない。だからもしかして、あのサンバは、デュオニソス的錯乱というよりも、ワルプルギスの夜の夢=サバトの供宴なのかもしれない。

ところが、いろんな謎がこんがりもするんです。まあ、あの大きな世界は、ただ騒ぐまんまにしておいて、わたしたちは、ここで静かにじっとしていましょうや。
何しろ、長いあいだの習慣で、
われわれは、大世界のなかに、小世界をいくつも作る。

ゲーテファウスト』(井上正蔵訳、集英社