HODGE'S PARROT

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『リヴィング・エンド』 The Lving End /1992/アメリカ 監督グレッグ・アキラ

夥しく氾濫するゲイ・アイテム。主人公の一人であるジョンの部屋に貼ってあるアンディ・ウォーホル『ブロウジョブ』のポスターからゲイ・クラブ風音楽、Tシャツの図柄、ケツワレサポーターまで様々なシグナルがこの映画の中で明滅している。そのシグナルをキャッチできるということはある種の特権を帯びる。しかしこれは例えば「ゴダールの映画」を見て夥しく放たれた「情報と戯れる」こととは違う(ジョンは映画評論家なので部屋にゴダールの『メイド・イン・USA』のポスターが貼ってあるが)。

『リビング・エンド』で放たれた「明快な」シグナルは主人公たちの状況を切実に代弁している。そしてゲイを取り巻く切実な状況をも。

HIVを宣告された二人の青年が運命的に出会う。ジョンとルーク。二人は、いみじくもレズビアンの殺人者がルークに向かって発した「ジャック・ケルアック」という「スタイル」を実践する。すなわちメイド・イン・USAの夢と絶望を背負って走り出したオン・ザ・ロード、クレイジーな逃走劇だ。もはや失うものは何もなく、何より時間がない二人は、

最高に激しい動きをもって── Auß bewegt
急速に戯れるように── Shnell und spielend

愛し合うしかない。

これほど劇的に人と人とが出会い、孤独の閉塞を打ち破り、生きている意味を問いかけ、息苦しいまでに深く愛し合うことができるのは、ゲイでありHIVポジティブの「特権」でなくてなんであろう。彼らをおいて、(ゲイを排除している)教会の結婚式で牧師により言い渡される「死が二人を別つまで」寄り添うことを確約し、「祝福」されるべきカップルはいない。二人の「出来事/出会い」はあらゆるものに──存在論的に──先行する。だから、二人の身に遠からず訪れる悲劇が横たわっていたとしても、それほど哀しみを帯びたラストにはなっていない。それどころかラストの恐ろしいまでの静謐さは、まるで「誰も見ていない世界」を見せられているような不思議な感覚に陥らせる……。


……これだけで終わりにしたかったのだが、やはりどうしても書いておきたい。それはこの映画を観て、やはりゲイである僕はいろいろと感じ入ってしまったからだ。一つはジョンが自分の感じたことをいちいちカセットテープに録音していること。このことはWebの時代であれば、今僕がこうしているように、「書いていた」かもしれない。
そしてもう一つは、短気なルークの行動に感動的なまでに共感したからだ。ルークはゲイである自分を侮蔑した人間に対し容赦しない。滅多打ちにし、襲いかかってきた差別主義者どもを撃ち殺す。そして何よりも印象的だったのは、トイレに書いてあったゲイを侮蔑している落書きを「打ち消し」「書き直した」ことだ。そのとき、ルークの表情には憂いと微かな勝利への微笑みが綯い交ぜになっている、カメラはそのルークの複雑な表情をクローズ・アップさせる。

同じ効果を、映画ではクローズ・アップが果たしている。クローズ・アップが面白いのは、ただそれによって細部が見えるようになるからではない。行動は個別的なものがそれだけで存在するようにさせ、個別的なものは特異で不条理な本性を発現させる。

エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』(西谷修訳、講談社学術文庫

このルークの行動に対し僕はとても胸が熱くなった。それは舞城王太郎という差別作家が同性愛者を差別する文章を書き、ヘイトクライムを助長させているからだ。このことは絶対に看過できない。舞城王太郎にとって同性愛者を侮蔑し差別することが、そんなに「書きたいこと」なんだろうか。人を差別し、傷つけ、暴力の犠牲者に仕向けることが、そんなに「楽しいこと」なんだろうか。そんな差別小説を書いて、儲けて、家でも買って親に住ませるつもりなんだろうか。何より舞城の「身内」は、そんな差別を何とも思わないのだろうか。

中上健次は「差別の発信地」という言葉でもって、自分が見たり経験した部落差別について言及した。舞城王太郎のように同性愛者を焼き殺そうとするようなヘイトクライムを「面白がって」書く──しかもペドフィルの犯罪を捺しつけて──ような人間こそ、「差別の発信地」なのではないだろうか。
僕はルークが行ったように、差別的な言説を「打ち消し」「書き直す」ことをせめてこのサイト上で遂行したい。たとえそれが度し難く不条理な徒労に終わろうとも。