HODGE'S PARROT

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『8mm』 8MM /1999/アメリカ 監督ジョエル・シュマッカー

主人公は私立探偵。富豪の老婦人からの依頼。失踪した若い娘。グロテスクなまでに腐り切った人間の欲望。都市の暗部。そして意外な犯人像……。これはもうロス・マクドナルド的「アメリカの悲劇」のパターン/パロディに他ならない。

しかしここで扱われているテーマは最高度のタブーを孕んだ極めてショッキングなもので、生垣真太郎の『フレームアウト』にも登場した「フナッフ・フィルム」。ただならぬ不穏な雰囲気が画面から滲み出てくる。
死んだ夫の金庫に入っていた奇妙なフィルム──映っていたのは少女の惨殺シーンだ──に疑問を持った老未亡人が、ニコラス・ケイジ演じる私立探偵に調査を依頼。そのフィルムをめぐって、探偵は、アメリカのダークサイドに足を踏み入れる。

監督は『セント・エルモス・ファイヤー』や『バットマン』シリーズのジョエル・シュマッカー。と言ってもこのグルーミーな感覚に貢献しているのは『セブン』でも脚本を務めたアンドリュー・ケビン・ウォーカーのほうだろう。扱っているテーマがテーマなので、ニコラス・ケイジには嘘臭いまでの「良心/良識」がキャラクタライズされており、とりあえず「エンターテイメント映画」としての体裁を保っているが、それでも、戦慄の美学とでも言いたい徹底した細部へのこだわりが見え隠れしている。

その一つがホアキン・フェニックス演じるポルノ・ショップの店員。彼はポルノ・ショップの店員らしく客の手前、アナルなんとかという「ポルノ作品のカヴァー」をつけた本を読んでいるのだが、カヴァーの下はトルーマン・カポーティの『冷血』になっている。ポルノ・ショップで働かざるを得ない屈折したインテリジェントな青年像がさりげなく了解される(しかし滝本誠の『きれいな猟奇』によると、脚本家が選んだ本は『冷血』ではなく『カメレオンのための音楽』だという。この脚本家のこだわりは考慮されるべきであろう)。

この挫折したミュージシャンでもあるポルノ・ショップの青年、女優を目指しその結果薄汚い欲望の犠牲になった少女、そして彼女の母親。この映画には──多分に図式的ではあるものの──金と権力に対する異議申立てが、弱者の悲哀を漂わせながら、それでもある種健全に、窺える。


……この文章を書きながら、やはり感情がこみ上げてきたので書いておく。スナッフ・フィルムという最悪の欲望の犠牲になった少女と彼女を心の底から愛していた母親。通常の感覚を持ち合わせている人ならば、この残酷な運命にやりきれない思いを募らせるはずだ。

だったらもう一つの最悪の欲望の犠牲、すなわち「ヘイト・クライム」による犠牲はどうだろうか。数年前、マシュー・シェッパードというアメリカの大学生が殺された。頭蓋骨がぐちゃぐちゃになるほど殴られ、しかも火で焼かれて。

なぜマシューは殺されたのか/暴虐の犠牲になったのか。それは彼が同性愛者だったからだ。これは映画でもフィクションでもなんでもない、実際に起こった事件だ。現在、マシューの母親は各地で公演を行い、殺された息子のような悲劇が二度と繰り返されないよう訴えている。
しかし日本では舞城王太郎という作家が「ヘイトクライム」を助長し、ペドフィルの犯罪を擦りつけ、同性愛者を焼き殺そうとするような小説を「面白がって」書いている。どうして「スナッフ・フィルム」や「レイプ」あるいは「幼児ポルノ」といった薄汚い欲望に対しては、目を顰めるのに、舞城王太郎が書く差別小説に対しては同様の反応が起きないのだろうか。そんな差別小説を何の衒いもなくどうして「宣伝」しまくっているのだろうか──こういった人たちはマシューのご両親を正視できるのだろうか。僕は絶対に看過できない。今、このマシュー・シェッパードに対する「ヘイトクライム」と舞城王太郎の「差別性」についての文章を思案中だ。