HODGE'S PARROT

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『アメリカの友人』 Der Amerikanische Freund/1977/フランス・西ドイツ 監督ヴィム・ヴェンダース

以前は少なからず反発を感じていた映画だった。一つはトム・リプリーアラン・ドロン演じる美青年から中年のデニス・ホッパーに変わったこと。しかもカーボーイハットを被ったあの妙なスタイル。そして、ヴェンダースだ、ニコラス・レイだ、サミュエル・フラーだ、ニュー・ジャーマンシネマだとか言って、肝心のパトリシア・ハイスミスが全然出てこないシネフィルの空騒ぎ。やっと翻訳された原作”Ripley's games”の邦題も『アメリカの友人』になってしまう始末。

しかし久しぶりに観て、やっぱりこの映画は素晴らしかった。映像は極めて人工的な色彩で彩られるが、その「ムード」はパトリシア・ハイスミスに忠実だった。何よりもハイスミス映画足らしめるそのセリフにゾクゾクさせられる。 それはトム・リプリーが、自分に囁き掛ける──テープに録音する──言葉だ。

怖いものはない…… 恐怖以外は……。
分からなくなる……自分が誰か、他人が誰か……。

リプリーの「ゲーム」は他人を「リプリー」に仕立てること、すなわち自分の分身を作成することだ。贋作売買を手がけるリプリーは、そこで、 額縁職人ヨナタン──絵画の「贋作」を見破った──に白羽の矢を立てた。ヨナタンを余命幾ばくもない白血病患者と思わせ──限定された生存の枠(フレーム)を与え、殺人を決意させる。
ヨナタンは立派にその責務を果たした。彼にも、これまでの小市民的な「枠組み」(フレーム)を突き崩すのような暴力性が、リプリーと同様、内部から沸き起こったのだ──ヨナタンが額縁(フレーム)を破壊するシーンは象徴的だ。
しかしリプリーの意(ルール)に反して第二の殺人が計画されているのを知ると、リプリーは、自分の「複製/贋作」を救うべく、自ら行動を開始する……。

静かに、まるで生理現象のように湧き起きる男たちの葛藤は、列車や自動車といった「動き」のある空間で情熱的に昇華される。そして、自己否定と自己喪失の旅は、あまりにも静かな最終地点へと到達する。