ジャンニ・ホルト演じる若き司祭は、なかなかハンサムだ。ライナス・ローチ演じる司祭(アントニア・バード『司祭』)と同じように犬顔で、華奢な体をシックな僧服で覆っている──そう、僧服はセクシーな男性の制服なのだ。
(そういえば、『Our Trespasses』(All Worlds Video)という Scott Baldwin が出演したゲイ・ポルノは教会が舞台で、モデルはもちろん聖職者の役。すごくエロかった)
もっともアントニア・バードの映画は、司祭がゲイであるという非常にわかりやすい「心理的葛藤」が中心に描かれているのに対し、 このブレッソンの映画における主人公の「葛藤」は、映画がストーリーを持つための最小限の素材でしかない。実のところ、ストーリーの「理解」なんてものは、どうでも良い感じなのだ。「解釈」のしようがない。
そういった意味で、このブレッソン映画の「感触」はとてもクール。よそよそしく怜悧である。
ここでロベール・ブレッソンの映画は、どうしても、スーザン・ソンタグの影響下で見てしまうということを正直に白状しておこう。それほど秀逸なのだ、ソンタグの評論は。
芸術の場合「フォルム」が「内容」を形成する典型的なやり方がダブリングとデュプリケイティングである。
スーザン・ソンタグ『ブレッソンにおける精神のスタイル』(『反解釈』所収)
ベルナソスの原作(未読)も、淡々と綴った「ジャーナル(日記)」ということだが、映像によるジャーナルの視覚化は、アクションそれ自体の積み重ねだ。しかも、そのアクションに対して、そのアクションを<説明する>主人公のナレーションがダブリング/デュプリケイトされる。ブレッソンの映画には、余計な解釈を付加える余地はない。
心理的にありそうもないことが描かれることはまず長所とは言えないし、いまここに引用したナレーションの部分は『スリ』の欠点である。しかしブレッソンにとって肝要なことは、またわたしが思うにあら捜しすべきでないことは、彼が心理分析を余計なことと信じていることだ。(その理由──心理分析は真の芸術が超克すべき言い換え可能な意味を動きに付与するから)
『ブレッソンにおける精神のスタイル』
それにしても、主人公の司祭が帽子を脱ぐ「動き」がやけに印象的に残る。なぜ、こういった何気ないショットが、これほど印象的なんだろう。