HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

『X-メン2』 X-MEN 2/2003/アメリカ 監督ブライアン・シンガー

コロッサス、カッコイイ! サイクロップスは──大好きなキャラだけど──今回は、ウルトラセブン『史上最大の侵略』のアマギ隊員みたいな役で、ミュータント側に犠牲が出てしまった(さよなら、そしてありがとう、ジーン)。ミスティークは相変わらずだし、今回加わったナイトクロウラーの能力も凄い(敬虔なキリスト教徒っていうのも凄い)。
ストーリーは良いし、何よりアクションが最高。スケールアップしたX-Menは、今年最もエキサイティングな映画だったと断定したい。2003年度のベストはこのX-メン2だ。

それにしても、人間側「軍隊」のハンサム揃いは、ゲイ・ビデオと見紛うほど。もちろんアイスマンの「カミングアウト」シーンは、ブライアン・シンガーならではだ。よってこの映画の趣旨は言うまでもないだろう。

だから言いたい放題書くが、今回僕が特に注目したキャラクターは、パイロとストライカーだ。

火を自在に扱う少年パイロは、仲間が差別され殺されそうになるのを目の当りにする。だから彼が最後マグニート側につくのは痛いほどわかる。ストライカーは(あるいは人間たちは)、教授の共生という「ルール」を蔑ろにしているからだ。暴力には暴力を。不正義には不正義を。無垢な少年は、その怒りの炎を「力への意志」へと転化させる。

そしてストライカーの「キャラクター」。僕には、そのルックスも含めストライカーは、フロイトを思わせる。「科学者」を自認するストライカーはミュータントを絶滅しようと画策する。それはミュータントを「異常者」と「診断」したからだ。まさにフロイト精神分析という「似非科学」で、正常と異常に線を引き、異常を矯正/撲滅すべく、ヒトラーの実行動を準備/予告した。

病気、狂気の定義、狂人の分類は、私たちの社会から、ある一定数の人たちを排除するようにしてなされてきました。

ミシェル・フーコー「人間的本性について──正義対権力」(筑摩書房ミシェル・フーコー思考集成Ⅴ』)

なんと言っても、自分の子供でさえ「実験動物」(ストライカーはミュータントを「アニマル」と呼ぶ)にしてしまう似非科学者の非人道性は、明快すぎるほど明快だ。ミュータントの子供たちが閉じ込められる牢獄(監獄)は、かつての精神病院を彷彿させる。彼らは監視され、「矯正した」ミュータントだけが生かされる。
そして権力者ストライカーは、死の間際においても、「私の意思は他の誰かが継ぐ」と不気味なセリフを吐く。そう、ネオナチがヒトラーの差別主義を引き継いだように、フロイトの「差別知」を大勢の「知識人」が継いだ。

かれ(注:ユング)は自己の無意識と対決することを通して精神病者が経験するような内的な危機に直面します。(小川捷之「正統から異端へ(2)──ユングの離反と精神分析」──『フロイト精神分析物語』)
俺ねェ、最初これ読んだ時、うっかり、”精神病者”を”精神分析研究者”って読んじゃったのね。アァ、そうだろうなァ、”精神分析研究者”って自己分析やんなきゃ意味ないもんなァ、だから最近じゃァ、ちゃんとやるようになったんだなァって、俺ワリと感心したのね。でも違ったのね。”精神分析研究者”じゃなくて、ヌケヌケと”精神病者”だったのね。
俺サァ、これに気がついた時あきれたね。お前サァ、よくもマァそうやって”精神病者”を差別出来るなァ、ってね。だってサ、そうでしょ? この文章、ユングの”偉大さ”を称える為に、”こんな危険なこともしました、あやわ、キチガイとスレスレのところまで行きました”って、そう言っているだけなんだもんねェ。批判というものを放棄しているのねェ。(中略)これじゃもう、精神分析のことを知ろうとする入門者に、無批判に、キチガイ差別、学者崇拝の念を植えつけるだけじゃないよ。

橋本治『蓮と刀』p.203(河出文庫


ミシェル・フーコーを特集した現代思想12月臨時増刊号には、精神分析医によるフーコーの「精神分析批判」に応える文章があった。しかし小難しい「批判」「反批判」はどうでもよい。問題は、国際精神分析協会が、同性愛者を抑圧してきた過去と、未だ同性愛者の志願者を「受け入れていない」という差別をヌケヌケと、まるで他人事のように書いていることだ。この書き手は、自分が、差別集団の「内側」に所属しているという「意識」がないのだろうか。

このことについて、真っ先に思い浮べたのが、アメリカの軍隊におけるクリントン政権の「妥協策」──つまり「Don't Ask, Don't Tell」だ。これは軍隊において同性愛を公言することを禁じるが、同性愛者が自分のセクシュアリティを「語らなければ」OKだということ(だから「尋ねるべきではない」)。

精神分析協会」というのは、どうやら「アメリカの」軍隊みたいなものらしい。それとも「新宗教」なんだろうか……と書こうとしたが、最近、米監督教会がゲイの高位聖職者就任を認めたため、この言い方は適当ではない。事実は「精神分析」とは「宗教」よりも頑迷な「天動説」を教義として守っていると言うことだ。

だから、不思議に思うのは、精神分析のような「差別知」を、人権問題やフェミニズム反戦に使う人の存在だ。スウェーデンが、精神科医に唆されて行った同性愛者への去勢は、日本政府が行ったハンセン氏病患者への断種・強制堕胎や日本「軍」が行った従軍慰安婦と同様、「人間の尊厳」に対する「犯罪」である──まるでストライカーがミュータントを手懐けるべく「手術」を行ったように。自分たち「以外」を「異常」だと思うから──思い込むから、「分析」/「矯正」を恥知らずにも行うことができるのだろう。

「心ある知識人」なら、「去勢の失敗」などという「精神分析用語」を、妄りに、気取って、偉そうに、使うべきではない──いや、出来ないだろう、と思う。
精神分析的言説が孕んでいるのは、常に「浄化」だけだ──ストライカーがミュータントを絶滅させようとしたように、そしてヒトラーユダヤ人を、ジプシーを、精神病患者を、同性愛者を絶滅しようと企てたように。

反ユダヤ主義はさまよう。バレス、スーリー、ドリュモンが、誰の書物、誰の講義、誰の学説の上で反ユダヤ主義を会得し、その武器庫からいかなる言説を取り出していったかを明らかにすることは、網状組織のごく一部を切り取り、サンプルとして陳列する作業にすぎない。局所的な格子模様がいかに理論として破綻していようとも、綿々たる網状組織は片時も揺らぐことがない。この網は、いかなる方向へ、何に向かって収斂しているのか。病という歴史を扱いながら、菌を含んだイデオロギーを飲み下しながら、歴史家がその病に感染せずにいることは可能か。症状のなかに病因学的兆候を読み取る手続きにおいて、みずから病原菌に感染してしまわないことなど可能なのか。

菅野賢治ドレフュス事件のなかの科学』p.245(青土社