HODGE'S PARROT

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『鏡の中にある如く』 Sasom i en spegel/1961/スウェーデン 監督イングマール・ベルイマン

英語のタイトルは "Through a Glass Darkly" 。ヘレン・マクロイのドッペルゲンガーを扱った推理小説『暗い鏡の中へ』の原題と同じで、これは新約聖書から取られている(フィリップ・カーにも『鏡のおぼろに映ったもの』という同じ原題"Through a Glass Darkly"を持つ短編がある。興味深いのは、マクロイ、カーの両小説とも精神科医が登場することだ。ついでに言えばフロイトドッペルゲンガーについて「超自我の検問をすり抜けた幼児願望の投影・拡散」であると述べている)

幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきりと知られているようにはっきりと知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

『コリントの信徒への手紙』(新共同訳「聖書」、日本聖書協会

いちおう粗筋めいたことを書くと、登場人物は四人。小説家で父親のデヴィッド、彼の娘のカリン、息子のミヌス、カリンの夫のマルティン。白夜の時期、彼らはある島に滞在している。カリンは精神を病んでおり、精神科医の診断によると回復は難しいという──そのことをマルティンから聞いたデヴィッドは日記に記す、それをカリンが読んでしまう。カリンとミヌスは近親相姦の関係にある。カリンは次第に症状が重くなってゆく──妄想の世界に閉じこもっていく──ヒステリックになり「神」との遭遇を待つ、しかし開いたドアからは、神ではなく「蜘蛛」が現われ、彼女に襲いかかる……。

ベルイマンのこの作品は、他の作品同様難解である。難解というのは、推理小説的な解決も精神分析的解明もしづらいということで、言語を弄して説明すれば「解る」ようなものではない。もちろん「こじづけ」だったらいくらでもできる。例えば、ミヌスがカリンと一緒に運んでいたミルクを零し、その直後、女を敵視するような発言をする。ミルクを精液と隠喩と見做し、ここをとびきりエロティックなシークエンスと見ることもできる。さらに射精後、女を「いやらしいもの」として見てしまうことも。

しかしそういった分析をしていったところで、この映画を「分かったような気」にさせてくれるかどうかは疑問だ。僕はなんとなく、小康状態が続いていたカリンに「おぼろに映っていた」神が、はっきりと「蜘蛛」として見えた途端、彼女は再帰不能に陥った、というように「ケリをつけて」この映画を「分かったもの」として整理したいだけだ。
スーザン・ソンタグはそんなベルイマン作品を論じた文章で、映画こそが「言語を疑う者たちの自然の棲家であり、<言葉>に反逆する今日的感性が宿す莫大な疑惑の重さを支えることのできる媒体」だと述べている。

しかしこの主題についてのベルイマンの扱い方と(ヘンリー)ジェイムズの扱い方の主な相違は、言語に対する両者の対照的な立場から来るものであろう。ジェイムズの小説では言説(ディスコース)が続く限り、人物の組織構造(テクスチュア)も残る。言語の連続性は、人格の喪失、絶対的絶望における人格の崩壊の溝をうめる働きをする。それに対して『ペルソナ』では、問われるのはまさに言語──その連続性──なのだ。

ベルイマンの『ペルソナ』(「ラディカルな意志のスタイル」所収、川口喬一訳、晶文社

モノクローム映像は、白夜の白々しさを際立たせる。同時に深い闇も。そこにバッハの無伴奏チェロが重く圧し掛かる。