HODGE'S PARROT

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『幽霊貸家』(The Ghostly Rental, 1876)


まず、この物語の梗概を記しておこう。神学を学んでいる「わたし」が発見する幽霊屋敷、好奇心溢れる「わたし」が発見したその幽霊屋敷に取り憑いている幽霊──その幽霊は父親に死に追いやられた娘の霊であることを「わたし」は突止める。さらに、幽霊屋敷に住んでいる幽霊である娘は、年に四度、父親をそこに呼び出し──もともとその屋敷は父親が所有しており、妻の死後、娘と二人でそこに暮らしていた──その屋敷の賃貸家賃を父親に手渡す。父親であるダイヤモンド大尉にとって、幽霊=娘から渡される家賃は、現在の彼の唯一の収入であった。老いた父親は「幽霊の家賃」を頼って生活し、それによって辛うじて生活が成り立っていた。そんな幽霊と人間の関係、そんな奇妙な親子関係に対して牧師の卵である「わたし」が介入する。そこで「わたし」が実際に見出したのは……娘は実は幽霊の振りをした人間=「偽物の幽霊」であり、「わたし」がそのことを暴いたその最中に、娘は「本物の幽霊」=死の床にある父親を目撃し、驚愕し、持っていた燭台を床に落とし、それが原因で屋敷は跡形もなく燃え尽きてしまう……。

中村真一郎がこの作品をブラックユーモアと取るか、それとも親子の、部外者にはわからない父と娘の間に横たわる積年の葛藤を描いたシリアスな物語と見るかで印象が変わると記していたが──まさに、どこに「視点」を置くかで「その印象」が変わるのは、ジェイムズの登場人物だけではなく、ジェイムズの読者にしても同じだろう──個人的に興味を惹くのは「偽物の幽霊」と「本物の幽霊」が逆転し入れ替わること、である。その鮮やかな仕掛け(トリック)である。この作品には後のアガサ・クリスティがやりそうな叙述トリックが仕掛けられている。

そのトリックがどのように仕掛けられているのか、そのために読者が頼る「視点」となる語り手=「わたし」、すなわち幽霊を追跡する人物の言動を追跡しておきたい。
「わたし」は次のような自己紹介をする。

学友の一人とはとくに深い友情で結ばれ、かなりの時間を共に過ごした。不幸にもかれは片方の膝が弱かったので、引きこもりがちな生活を余儀なくされていたが、わたしはまめに出歩く人間だったから、二人の習慣はいささか違った。わたしは毎日散歩して、遠くまでよく足をのばした。握った杖か、ポケットの中の本だけが道連れだったが、脚を動かして爽快な野外の空気を吸っていれば、十分連れのかわりになった。それに、すこぶる視力の良いふたつの目に恵まれていたおかげで、社交的快楽もいくらか味わっていたことを言い添えるべきだろう。わたしの目とわたしとはとても良好な関係にあった。かれらは道端で起きるあらゆる事を疲れもせずに観察して、両目が楽しんでいる限り、わたしも満足だった。


ヘンリー・ジェイムズ『幽霊貸家』(南條竹則坂本あおい 訳、創元推理文庫『ねじの回転 心霊小説傑作選』所収)p.233 *1

何より旺盛な好奇心を持ち、観察に適した視力のよい両目に恵まれていたこと。その「習性」のおかげで、その「特権」を享受することによって、「わたし」はこの奇妙な出来事とかかわり合いになった、と「わたし」は語る。

わたしはあの灰色のコロニアル様式の家を初めて見た時のことを思うと、帰納的推理というものは時として直感と紙一重であると信ぜざるを得ない。というのも、結局のところ、わたしの導き出した重大な帰納的結論を裏づけるようなものは、表面上どこにもなかったからだ。わたしは退いて、道を横切った。夕陽が消え入ろうとする寸前に最後の赤い光が放たれ、この家の年古りた正面を、ほんの一瞬うっすらと染めた。光は扉の上にある扇型の窓に嵌められたガラスを一枚一枚、いとも整然と照らしてゆき、幻想的に瞬いた。やがてそれが消え果ると、家はいっそう陰惨な闇につつまれた。この瞬間、わたしは深い確信をこめてつぶやいた──「これは幽霊屋敷なんだ!」


p.236

この家は幽霊屋敷のようであるから……と直感し、推論し、だから「この家は幽霊屋敷なんだ!」……と確信する。その推理に自信満々である(帰納的推理というのは直観なのである)。次にすべきことは幽霊屋敷の調査である。「わたし」はすでに探偵になっている──誰からも依頼を受けていないのに。「好奇心」がそうさせているのである。

「あの脇道の先にある家ですが──ここから一マイルほど離れた──一軒家のことですが、誰の家かご存知ですか?」
彼女はわたしをじろりと見、少し顔を赤らめたようだった。
「このへんの者は、誰もあこそを通りません」
「でも、メドフォードへの近道じゃありませんか」
彼女はつんと顔をあげだ。「かえって遠回りになるでしょう。ともかく、わたしどもはあの道を使いません」
これは面白い。まめまめしいニュー・イングランドの人間が時間を節約できる道を通ろうとしないのには、それなりの理由があるにちがいない。「それにしても、あの家は御存知でしょう?」とわたしは言った。
「ええ、見たことはあります」
「誰の家なんですか?」
彼女はちょっと笑って、そっぽを向いた。まるで他所者には自分の言葉が農民の迷信のように聞こえるかもしれないと思っているようだった。「あそこに住んでいる人の家だと思います」
「でも、人が住んでいるんですか? まったく閉めきってありますよ」
「いいんです。けして外には出てきませんし、誰も入っていかないんですから」
そう言って、彼女は背を向けた。
だが、わたしは相手の腕をそっとつかんだ。「つまり、あそこは幽霊屋敷だとおっしゃるのですね?」
彼女は顔を赤くして身を引くと、唇に指をあて、そそくさと家に入った。たちまち窓のカーテンが下された。


p.237-238

微妙で曖昧な受け答え、口ごもり、相手の迷惑そうな表情──そこから「わたし」が読み取るのは幽霊屋敷のことを知っているのに「知っていないふり」をしている「証人」の証言である。「わたし」の不躾な態度による相手の困惑も幽霊屋敷であることを示す証拠でしかない──「わたし」の確信は、この証人のこの態度によって裏付けられた。「わたし」は(やはり)正しかった。「わたし」は、ますます、その家に対し想像を張り巡らせる。日を改め、再び偵察に向かう。偵察の最中、軍服のような外套を着た小柄な老人が「幽霊屋敷」にやってくる。「わたし」は老人をつぶさに観察する──生者か死者かと言われても見きわめがつかなかったが、こういう人物は昔から変わり者と相場が決まっている、ただし目の前にいる者はちょっとやそっとの変物ではないようだ。こういう変わり者だから……と推論し、だから老人の一挙手一投足が不穏さを帯びている──と「わたし」は仔細な描写を披露する。

幻影か、本物の人間か──この家の住人か、それとも親しい訪問者か? それにしてもあの不可解な最敬礼のしぐさは何だったのか? あの真っ暗な家の中をどうやって動きまわるつもりなのだろうか? わたしは木陰から這い出て、いくつかの窓をつぶさに観察した。それぞれの鎧戸の隙間から、一定の間隔をおいて明かりが見えた。家の明かりをつけているのだ。パーティーでも始まるのか──幽霊の饗宴が? わたしはつのりゆく好奇心をどうやって満足させたらよいかわからなかった。強引に扉を叩いてみようとも考えたが、不作法だと思いなおし、魔法を──もしそこに魔法がかけれられているなら──破る方法を考えた。家のまわりを歩いて、一階の窓のひとつが開くかどうかを無理やりにではなく試してみた。そこは駄目だったが、別の窓を試したら今度はうまくいった。もちろん、わたしのやっているいたずらには危険があった──中から見られる危険、あるいは(もっと悪いことに)見て公開するようなものをわたし自身が見てしまう危険が。しかし、わたしは好奇心に駆りたてられ、危険何するものぞと思っていたのだ。


p.241

建造物侵入。他人の看守する邸宅への不法侵入もなんのその。ここでは、観察という名の下に他人の家を覗き見をしているわけだが「わたし」はそのことにまったく罪の意識を感じていない。それどころか、むしろ「観察する権利」なるものを持ち出してくる──何しろ、そこは「幽霊屋敷」なのだから、観察をされても/覗き見をされても、文句を言う資格がないとばかりに。ここでは、むしろ神学者の卵(あるいは「その」予備軍)の傲慢な特権意識なるものが戯画されているのではないか、とも読めるかもしれない。「わたし」はついに「幽霊屋敷」の関係者を発見し、中の様子を「覗き見」=観察する。そのことにゾクゾクする。興奮する。ほとんど法悦のような境地に至る。「この発見を──花びらを一枚一枚めくるように──しばらく弄んでいたい気持ちもあったのだ。わたしはそれからも時折、この花の香りを嗅いだ。風変りな芳香に魅了されたからである。」

「わたし」は憑かれたようにその老人を追い求める。「わたし」と彼は「秘密」を共有している──幽霊屋敷の「お仲間」なのである。もうすでに「顔なじみ」──実際には一度しか会ったことがないのだが、記憶や想像の中で何度も何度も二人は会っていた、と「わたし」は告白する。
やっとのことでその老人を捕まえ、話をし、その老人がダイアモンド大佐という名前であることを突き止める。次にするべきことはダイアモンド大佐に関する情報を仕入れることである。情報の情報源はすぐに見つかった。生まれつき身体が不自由なために家から一歩もでない代わりに(片方の膝の弱い「わたし」の学友を思い出させる)、その家の窓から街全体を一望し監視している人物──デボラ嬢である。

「さてと、あなた」彼女はいつもこう切り出すのだった。「聖書批評の一番新しい珍説を聞かせてちょうだい」──デボラ嬢は当世の合理主義的思潮に憤慨するふりをしていたのである。だが、そのじつ彼女は峻酷な哲学者であり、人一倍過激な合理主義者で、その気になれば、我々のうちで一番大胆な学生でもおそれをなすような問題提起をすることができたにちがいない。彼女の窓からは街全体──というより、この地方全体が一望できた。低い揺り椅子に座り、かすれた声で鼻歌を歌っていれば、知識はひとりでに彼女のもとへ集まってきた。何でも真っ先に知るのは彼女であり、最後まで憶えているのも彼女だった。街の噂を熟知していて、会ったことのない人間に関してもすべてを知っていた。どうしてそんなに色々なことを知っているのですかと尋ねると、「観察するのよ!」とだけこたえた。
「じっくり観察しさえすれば」と、ある時彼女は言った。「あなたがどこにいようと問題じゃないわ。真っ暗な押し入れの中にいたってもいいんだから。必要なのはとっかかりだけ。一つのことが次のことにつながって、何事も絡みあっているんです。わたしを真っ暗な押し入れに閉じ込めてごらんなさい。しばらくすれば、その中にうんと暗いところと、そうでないところがあるのを観察していますから。それからもう少し時間を下されば、合衆国大統領が晩に何を食べるか、あててみせます」わたしはある時、つくづく感心して言った。「あなたの観察はあなたの針と同じくらい繊細で、おっしゃることは縫い目を同じくらい正確ですね」


p.250-251

当初、デボラ嬢はダイアモンド大尉の情報について話すことに消極的だった。なぜならば、デボラ嬢に「そのこと」を話してくれた友人が「そのこと」をデボラ嬢に話したために死んでしまったからだ、と彼女は「わたし」に言う。自分も「そのこと」を話したら死ぬかもしれない──という怪奇小説怪奇小説であるために必要な怪奇小説風な叙述をしながら、その一方で、作者ジェイムズは「そのこと」はデボラ嬢が直接観察したことではなくて伝聞情報/二次情報であることを密かに仄めかす(だからデボラ嬢の証言も全面的に信頼できないかもしれない)。しかし「好奇心で死にそうなんです」とほとんど病気になってしまった「わたし」に乞われ(それはほとんど巧妙な恫喝といえるだろう──病気になったのは、あなたが「わたし」に話してくれないからだ。だから「そのこと」で死ぬのは「わたし」である)、それに見かねて、デボラ嬢は重い口を開くのだった。

ところでこのデボラ嬢は始終、刺繍をしている人物として登場する。「わたし」と話している間も常に針で糸を縫っている。話ながら、「わたし」を見ながら──まるで「わたし」の反応をいちいち確かめながら──針で糸を縫っている。するとそこには「謎めいた模様」が表面に浮かび上がってくる──そして多分、布地の裏面には別の模様ができているのだろう。アリアドネのようなデボラ嬢が織りなし紡いでいくテクスト、それによって絨毯の下絵のように浮かび上がってくる物語が、例の幽霊が屋敷をレンタルし、その賃貸料を老人に支払っている、という奇怪なものである。ダイアモンド大尉は可愛がっていた娘が自分に内緒である若者と結婚したために怒り狂い、そして「言葉によって」──悪態を浴びせ──娘を死に至らしめた、という奇妙なものである。もっとも、デボラ嬢は、刺繍をしつつそのことを話ながら「どんな糸にも弱いところがあるし、どんな針にも錆があります」ということを「わたし」に言い添えるのを忘れていなかったが。

しかし、「わたし」はデボラ嬢の話に満足する。「わたし」は、やはり正しかったのだ、と確信する。自信を取り戻した「わたし」は、まるで医者に治療を受けた患者のように病からも回復する(そのように見える)。ただし、テボラ嬢の証言と自分自身の観察によって得た情報自体に付随しているはずの「弱さ」や「錆」には目もくれない──見ようともしない。「わたし」の理路はこうである。デボラ嬢の証言(AoBpCq)と「わたし」の観察(AxByCz)において、AとBとCという事象が一致している、ならば残りのopqおよびxyzという事象も同時に成り立っているはずだし、そうでなければならない──「推理したんです。あなたが半分話してくださったから、残りの半分は想像しました。ぼくにはなかなか観察力がありまして」。だから、「あの家」を取り巻く状況はAoxBpyCqzという一連の連鎖と因果関係で成り立つ物語を構成している。「わたし」は、そのために、それを確認するために、再びまた観察しなければならない──「わたし」は再びまた「観察する権利」を手中に入れた。「幽霊屋敷っていうのは重宝な財産ね!」とデボラ嬢は言う──それは多分、幽霊から家賃をもらっているダイアモンド大尉だけではなく、実体のないものを観察して「何か」を得ている観察者にとってもそうなのだろう。

この「わたし」のキャラクターは後年の『ねじの回転』や『聖なる泉』の主人公を思わせる。ほとんどプロトタイプと言ってもいいだろう。ふと「ささいな」出来事に怪奇的な現象を見出し、単純な要素に対して次々と怪奇的な妄想を膨らませ、怪奇的なまでの拡大解釈をしていき、いつしか「その」理論家として怪奇的な理論を他人に講じるまでになっていく、そしてその理論に従うために/相手をその理論に従わせるために怪奇的な行動に走り、その結果、(そもそも存在しているかも定かではない)自分たちが追跡している「幽霊」や「吸血鬼」以上に怪奇的な人物になっていってしまう──それらと入れ替わってしまい、その結果、ときには死者まで出してしまう。あまりにも過剰な想像力とあまりにも過剰な好奇心が「彼ら」をそうさせてしまう。過剰さ──何事(n)に対しても「n+1」という量的な操作をすれば、いつだって自分を誰よりも物を知っているかのように見せかけることができ、それによって、どこにいても、何をしても/何もしなくても、いつだって自分を誰よりも優位な立場に置くことができ、その特権的地位を「それだけのこと」で占めようと画策することも可能であり、実際に「そう」しているのだ。

「私」は、先のいくつかの例と同様、あらかじめ想像によって予定した内容を、どのようにも受取れるささいな出来事を取り上げ、主観的で意図的な解釈を行うことによって、単になぞり直しているに過ぎないように見える。このことについて、「私」は「人並外れた好奇心が観察を産み、観察が想念を産むのだ」と言っているが、それに加えるとすれば、「私」の場合、しばしば想念が観察に先立ち、観察は想念の確認のために行われるのである。


こうして「私」の怪奇的「理論」は、観察によっても言語または非言語によるコミュニケーションによっても、正確な読み取り・伝達が行われないまま、「私」の主観という閉塞した空間の中でのみ連鎖的証拠付けがなされて行く。言い替えれば、その着想からすでに論理のズレを見せたこの「理論」は、その確認のためという名目のもとで、さらなるズレを積み重ねて行くのである。このズレは過剰で非人間的な想像力が生み出したものであるが、この物語の語りそのものが、想像をいつの間にか現実とすり替えながら、さらにそれを前提に新たな想像を積み上げるという構造を持っており、やがて現実の手痛い応報が待っているのは自然な成行きであると言える。それはマザー・グースのなかの「二枚舌の男」(“ A Man of Double Deed")“ )を連想させる。この「男」は、「・・・のような」(“ like")と形容した比喩にすぎないものを実在するものと見なし、それを前提にさらなる比喩を重ね実在性を付与し続けて行った結果、その頂点において自らの嘘の犠牲となって死に至るのであった。「私」の運命はこれときわめて類似している。そして読者は、奇妙な一貫性を持ったこの連鎖上のどこかで、巧妙な論理の罠に気づくのである。これこそ、読者が完成させようとするもう一つの「理論」、いわば、罠読み取りの「理論」である。



長柄裕美 『聖なる泉』におけるコミュニケーションの不可能性 
http://repository.lib.tottori-u.ac.jp/Repository/detail/127820090928123505

ヘンリー・ジェイムズの小説の登場人物自体が「そう」なのである。作中で「自信過剰な推理屋」が戯画化されているのである。まるでメタ批評家批判として(も)読めるように書かれているのである──そう、多分、なぜなら、『幽霊貸家』の「わたし」がそうであったし、『ねじの回転』の家庭教師=「わたし」もそうであり、『聖なる泉』の「わたし」もそうであったのだから(そしてこのように書いている僕自身もそれを免れない奇妙な運命にとりつかれてしまう)。

そういえば、ジョン・サザーランドは、あるアメリカの批評家がジェイムズの作品(『鳩の翼』『密林の野獣』)に対して行った解釈に疑義を唱えるために、フィリップ・ホーンが俎上に挙げた虚偽の三段論法を紹介している。

  1. ジェイムズは名づけえぬものについて書いている。
  2. 同性愛はしばしば名づけえぬものとして言及される。
  3. それゆえに、ジェイムズが名づけえぬものを指示する場合、それは同性愛の意味である。


ジョン・サザーランド『現代小説38の謎』(川口喬一 訳、みすず書房) p.7
*2

サザーランドは、この「虚偽の三段論法」以外に、小説が書かれた歴史的コンテクストに即して「その解釈」に賛同しない。もし、そうであるならば……それを前提として構築された「理論」への信頼も揺るがざるを得ないだろう──そこにも、多分、「弱さ」や「錆」があるのかもしれないし、そのことを考慮しなければならないだろう。

「またABCの殺人ですか」
「ええ。ひどく大胆なやり口です。前かがみになって、被害者の背中を刺したんです」
「今回は刺したのですか」
「ええ、手口を少しずつ変えてますね。頭を殴打し、首を絞め、今回はナイフです。多才な悪魔やろうだ──でしょう? ごらんになりたければ、ここに医者の報告書があります」
大佐は報告書をポアロのほうへ押しやった。「ABC鉄道案内が床の、死んだ男の足のあいだにありました」と彼はつけ加えた。
「死者の身元はわかったのですか」ポアロが訊いた。
「ええ。ABCは今回ばかりは失敗したようです──それでわれわれの気持ちがすむものなら。被害者はアールスフィールドといいます──ジョージ・アールスフィールド。頭文字はDではなくEではじまります。理髪師です」
「奇妙ですね」ポアロが言った。
「一字飛ばしたのかもしれませんね」大佐がほのめかした。



アガサ・クリスティ『ABC殺人事件』(堀内静子 訳、ハヤカワ文庫)p.299-300 *3


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