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「福音の受肉」と学問に対する「連帯責任」


北森嘉蔵の『神学入門』に附録された『神学短章』のいくつかの文章より、キリスト教信仰とキリスト教神学、および、一般信徒と神学者/宣教者の関係について、そこで教え説かれていることをまとめておきたい。内容は、以前『神学入門』について書いたこと(そこで述べられていること)と重複する部分もあるが、ここでの「表現されること」の違いが、以前とは意味合い自体も変わってしまった「それに対する態度」を確認させてくれる。

神学者である北森は、まず、とりわけ信徒一般に向けて、信仰と学問(神学)の関係について両者の必然的な結びつきの理路を提示する。
信仰とは「真実」である。真実をもってキリストに対するということは「責任」をもってキリストに対することになる。責任をもってキリストに対することは、キリストの御心を「厳密」に知ろうとする志に展開する。ところでキリストの御心は聖書の中に記されている。厳密に聖書を読むこと──言葉を調べたり専門家に教えを乞いながら丹念に聖書を読むこと──は(すでに)「学問的」であることだ。ゆえに信仰と学問=神学は直結する。
信仰→真実→責任→厳密性→学問性→神学
「信仰」と「神学」の二項は相隔たっているようにみえるが、そこに「真実」「責任」「厳密性」「学問性」という項を媒介することによって、その二項はつながるのである──そこには「種も仕掛けもない」と北森は強調するかのように述べる。
この理路に従えば、逆に、神学(学問)がいらないということは「厳密でなくてよい」ということであり、そして厳密でなくてよいということは「無責任であってよい」ということであり、さらに無責任であってよいということは「不真実ということ」なのであり、つまり不真実ということは「信仰がない」ことが導かれるだろう──逆もまた、と北森は「そうとは」述べていないが、これも「種も仕掛けもない」ことになるだろうし、「そうでなければならない」はずだ。ここで神学者であり牧師でもある北森嘉蔵が注意を促すのは、このように「逆算される」のがいやならば、信仰を持つということは、必然的に、学問的(神学的)になることを認めなければならない、ということである。

次に宣教する側(宣べ伝える者)の問題に関して、これまでの日本の宣教成果への反省が述べられる。「宣教百年記念の年を迎えた日本の教会は、一世紀の宣教成果について、いろいろの角度から反省を迫られているが、その最も大きな問題は福音の宣べ伝えかたに対する反省であろう」。北森は日本における宣教がはばまれてきた「原因」を分析し、その解決のための方向性を提示する。それが「受肉の福音」から「福音の受肉」へというテーゼである。

受肉とは、神の言が徹底的に人間の立場にまで成った、ということである。それなら、この受肉の真理を宣べ伝えるときの態度も、この真理にふさわしく、受肉的でなければならないのである。すなわち、相手の立場にまで成る、ということを努めねばならないのである。神が相手たる人間の立場まで成りたもうた、という受肉の福音は、宣べ伝えられるときにも、相手の立場まで成るという態度を私たちに要求するのである。


p.111 *1

受肉の福音」が「福音の受肉」にまで展開すること。福音が現代の日本人に宣べ伝えられるときには、その相手の立場にまで成って、その相手を考慮し、その相手の関心に訴えねばならない。「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んで人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。……」(コリント9.19)
ここで植村正久の著作からヨハネ福音書に関する植村の指摘を引用する──「第四福音書を研究したある人が、ヨハネはいかにも能く基督教を翻訳したものであると言った。翻訳という語が頗る面白い。著者はユダヤ人、而も北の方、ガリラヤ湖畔の漁夫である。第四福音書は、とてもこの人の著述とは思われぬ程、全く別世界のものの如き趣きがある。……彼は当時の思想に当てはめて基督教を翻訳し、ギリシャの哲学者がおぼつかなげに論じておったことを、的確に説明し、これを補足し、これを徹底し、これを充実せしめた。それが即ちヨハネ伝である。我らも今日の日本においては第四福音書著者と同じような使命を担っている。好く成功したいものである」

そこで神学者であり牧師でもある北森嘉蔵は、植村正久の指摘した「翻訳」──キリスト教の/における翻訳について注意を促す。この「翻訳」は「妥協」と区別される。「妥協」は、自己の本質から逸脱して相手の立場に成ることである。しかしキリスト教の「翻訳」(受肉的な翻訳)は、自己の本質に即しながら、相手の立場に成ることである。受肉とは神が相手たる人間の立場に成りたもうこと、だからである。相手の立場に成って相手を愛すること、だからである。「表現そのもの」が相手の立場にまで成らねばならない──それが「翻訳」である。受肉の真理が受肉的に表現されるとき(翻訳されるとき)、それは、神が人間と「連帯化」したものである──と表現される。それは神が人間のために「連帯責任」を負うことなのである。
「連帯化」あるいは「連帯責任」と言われるもの──その構造は、超越と内在という二つの契機が含まれている、と、この神学者は述べる。そして、ある種難解な「超越」と「内在」について、わかりやすい例を出して──相手の立場の即したのであろう表現/翻訳で説明する。

例えば、甲という人間が「スリ」の嫌疑でつかまっているとき、乙という人間が甲と連帯化して彼を弁護しようとするならば、乙は甲がうけている「スリ」の嫌疑からは全く「超越」して潔白な人間でなければならない。甲を弁護しようとして現れてきた乙が、「スリ」の親分であるというように、甲と同じ立場に初めから内在しているならば、それは「一つ穴のムジナ」「脛に傷をもつ身同士」の同情にすぎず、真実の意味で連帯化にはならない。──神が人間の罪のために連帯化したもうとき、神は人間から全く超越した聖なる存在でなければならない。救い主イエス・キリストは「傷なき神の小羊」であり、人間の罪から全く超越した聖なる存在である。この超越性が、連帯性の第一の契機である。
しかし第二に、その超越者が相手の立場と同じくなり、それに内在化することによって初めて、連帯化が実現するのである。「スリ」の嫌疑などから全く潔白な乙という人間が、嫌疑をうけている甲の立場に内在化し、彼と一体になるからこそ、弁護ができるのである。聖なる神の独り子がまことの人間となって、罪人の立場と同じくなり、罪人の世界に内在化したもうたということが、連帯化としての受肉である。


p.114-115

この連帯化の構造は──「翻訳」の場合と同様に──罪の現状肯定、すなわち「妥協」と区別されることである。神と罪人の連帯化は、神が罪から超越的な聖なる神のままで内在化したものであるのだから、罪そのものはこの聖なる存在者によって審から除かれるべきものとして認識される。そうでなければ、罪との距離を抹消して罪の現状肯定に陥るだけだ。神と罪人との距離が、罪の現状肯定を許さなくするのである。現状肯定を許さないことが、すなわち、現状変革へと展開するのである。現状肯定という態度は「無責任」に他ならない。連帯化して相手のために「責任」をとるということは、相手の問題性を変革するということ、それが必ず伴ってくる。
宣教する側の取るべき態度、それが「受肉の福音」から「福音の受肉」である。そしてさらに、神学者であり牧師でもある北森嘉蔵は、律法と福音を区別することに注意を促す。なぜなら「キリスト論」すなわち福音の名のもとに律法が主張される憂慮すべき事態が(すでに)起きているからだ。キリスト論にとって最大の敵は、他者媒介的でない単なる自己主張である──これが福音に対する律法である。キリスト論における問題の焦点は、神という「自己」と人間という「他者」との関係である。神の「自己」確立が人間という「他者」媒介によって成り立つことである。神と人間の「連帯化」である。他者媒介的な自己貫徹ということが、キリスト論の真理内容である。

そして、福音の名のもとに律法が主張される憂慮すべき事態が(すでに)起きている、今まさに起きようとしている。

年収250万…早稲田大の非常勤講師らが、大学を刑事告発 突然の雇い止めの実態 [Business Journal]

2013年3月末、突然、非常勤講師を5年で雇い止めにするという就業規程が非常勤講師らのもとに送られてきた。そうでなくとも首都圏大学非常勤講師組合などの調査によると、非常勤講師の平均年収は300万円そこそこで、そのうち250万円未満が4割もいるといい、彼らにとっては死活問題だ。

一方、専任教員の平均年収は、組合との団体交渉の場で副総長が約1500万円と明らかにしているが、実際には1400万円を切っていると専任教員たちは話している。授業計画の作成・実施、試験問題作成、採点、成績評価など、専任と非常勤の仕事内容に大差ない。

早大の教員のうち非常勤講師は59%(12年度末)で、授業の半分近くが非正規の教員によって行われている。つまり多数派の教員(ほとんどは博士)がワーキングプアか、それに近い状態に置かれているのだ。

(……)

就業規程強行制定の背景には、13年4月1日に施行された改正労働契約法がある。有期雇用労働者の雇用期間が通算5年に達した場合、その労働者は期限の定めのない無期雇用への転換を申し込める権利を得た。無期雇用に変えても賃金その他の労働条件は従前のままでいいのだが、多くの大学で、その期限が来る前に雇い止めにしようという動きが強まり、早大も同じだった。

一般企業でも同様の動きをみせているところがいくつもある。12年の厚生労働省の調査によれば、有期契約労働者は1200万人いるとされているが、早大で噴出している問題は、これらの人びとすべてに影響するといえる。

ただ、その中でも早大の悪質なところは、5年雇い止めの就業規程を強行制定するために“偽装選挙”を実施したことである。

就業規程を変更または新規に制定する時は、労働基準法90条によって、全労働者の半数を超える加盟者のいる組合があれば、その組合の意見を聴き、それがない場合には、「過半数代表者」を選出するべきことが定められている。選ばれた過半数代表者が意見書を提出し、その意見書と就業規程を労働基準監督署に届けるのが正しい方法なのだ。

ブラック大学・早稲田が「非正規5年で無期転換」阻止のため偽装選挙で就業規則制定 学内労働法教授らが鎌田総長を刑事告発 [MyNewsJapan]

4261人(2012年度)もの非常勤教員を抱える早大は「本学の財政事情において無期雇用転換を受け入れる余裕がない」と、同月1日付で非常勤教員の契約を最長5年とする就業規則の制定を強行した。その手口は、大学がロックアウトされる入試期間中を狙って非常勤教員に知られぬよう公示書を投函する騙し討ち。さらに労基法では就業規則制定において過半数を代表する者による聴取が必要だが、その代表候補者から非常勤は除外されていた。

(……)

雇用を安定化するという改正労働契約法の趣旨とは真逆に、専任教授の既得権を守るため、ただでさえ不安定かつ低賃金な非正規労働者の雇用を、さらに不安定化しようとする早稲田大学のブラックぶりが明らかとなり、学内の労働法の名誉教授からも総長が告発されるという異常事態に発展しているのが本事件だ。

早稲田大・非常勤講師の給与明細が語る“大学内搾取”の構造 [MyNewsJapan]

博士号を取得し、専任の教授と同じように講義しても、年収250万円ほどで研究費・出張費も自腹、社会保障もない劣悪な待遇で暮らす人たち。それが大学の非常勤講師だ。その実態を探るべく当事者を取材し、2010年度早稲田大学文学部の年間トータル講義数と500人強に及ぶ非常勤講師全リストを照合したところ、全2032コマのうち、実に51%が非常勤講師の担当であることが分かった。搾取の上に成り立つ早大は、賃金格差5倍の身分制度を放置する「格差拡大装置」と化している。正規・非正規問題を論じる学者は、まず足もとを改革してから公の場に出てくることだ。

(……)

本来、学問の府というのは、そうした世の中の理不尽さを糺す人材を輩出するところであるはずなのに、その大学の講義の場自体が、理不尽な“搾取”の場と化しているのである。

“搾取”を土台とした大学――そこを出た人たちが中核をなしていく社会は、政治、経済、文化、科学、教育、家庭など社会のありとあらゆる分野で、搾取を「再生産」していき、格差を推し進めることになりはしないか。大学は、未来の社会の鏡であるがゆえに、心配、と言わざるを得ない。


「その嫌疑」から「超越」しているどころか、「その嫌疑」そのものになってしまうこと──だから「その罪」を糊塗するために、「その罪」を自分たちの外部に責任転嫁して、それによってそれを批判する立場を占有しようとすること。「その名」において律法を説き、しかし自分たち自身の利害のために、その律法でさえ「使い分ける」こと。律法学者のしていることは──その手口は、所詮、相変わらず、大昔から、そんなことだろう。まさしく「白く塗った墓」(white-washed tombs)の喩えのように。

律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らの言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分たちでそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。


マタイによる福音書23.2-5、27-28(新共同訳聖書)

このときに最初の信仰(一般信徒)と神学(者)の関係に立ち戻ったらどうなるだろうか。
信仰→真実→責任→厳密性→学問性→神学
この逆算は、神学がいらない→学問的でなくていい→厳密でなくていい→無責任であってよい→不真実である→信仰がない、であった。
しかし、果たして、これは逆算であろうか。「真実」「責任」「厳密性」「学問性」が顧みられず──媒介されず、反故にされてしまう事態こそ問題なのではないか。
どうして自らが宣べ伝え「翻訳」した「その」理論(学)を自分たち自身の「態度」に向けて適用しないのか、適用できないのか、適用させないのか──それは「厳密でなくていい」ということなのか、つまり「学問的でなくていい」ということなのか、すなわち「無責任でいい」ということなのか、したがって、そこには、最初から「信憑性などない」ということなのか。

そんなことがあってはならない。
すでに「宣教者」によって「福音の受肉」を与った〈わたしたち〉は、それこそ、信仰⇔真実⇔責任⇔厳密性⇔学問性⇔神学といった双方からの道筋を、双方とも遵守しなければならないのである。信仰を守るために、そして、そのために必然的な「学問」を守るために。逆算すれば、「学問」を守らなかったら、信仰も守れないのだから。
だから、「宣教者」が福音ではなくて律法を説いていたら、それを止めさせるのも〈わたしたち〉の役目である。「学問」を守るために。「宣教者たち」が説く〈悪〉を、「宣教者たち」自身に「〈それ〉をさせてはならない」──「宣教者たち」を「〈それ〉の親分」にしてはならない、「〈それ〉と一つ穴のムジナ」にしてはならない、「〈それ〉と脛に傷をもつ身同士」にさせてはならない。「宣教者たち」は〈その嫌疑〉から超越していなければならない。「学問」を守るために、すなわち信仰を「真実」なものとするために。

「宣教者」が「福音の受肉」として〈わたしたち〉に即して「翻訳」してくださった学=理論を、〈わたしたち〉はそれを「厳密に」受け取らなければならない──それが〈わたしたち〉の「責任」である。だからこそ、「宣教者たち」自身がそれを律法にしてしまう動きを察知したら、〈わたしたち〉がそれを止めさせなければならない──それも〈わたしたち〉の「責任」である。「学問」を守るために、すなわち、信仰を「不真実」なものにさせないために。「学問」を蔑にすることは──それを律法にしてしまうことは──〈わたしたち〉にとっても多大な損失を被ってしまうからだ。
〈わたしたち〉も福音の名のもとに律法が説かれる事態に対して「連帯責任」を負っているのである。



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