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『オズボーンの復讐』(Osborne's Revenge, 1868)


ヘンリー・ジェイムズ最初期の作品。舞台はアメリカ。ここではまだ、出来事を「暗示的に迂回的に」──どのようにも取れるように、どこか操作的に──物語っているような気配は、それほど感じられない。むしろ「あからさま」な叙述に戸惑い、それゆえ警戒したくらいだ。しかも私立探偵小説風(ハードボイルド)の展開で、最後は事件を追う探偵が──ここでは主人公のオズボーンが──意外な、しかし明白な、それしかありえないような一つの真相に到達する。意外な真実に直面し、打ちのめされる様が描かれる。ウィリアム・ヒョーツバーグの『堕ちる天使』(ミッキー・ローク主演で映画化された『エンゼル・ハート』)を思い出した。

「フィリップ・オズボーンとロバート・グレアムは仲の良い友人だった」と冒頭で記される。そのオズボーンにとってのかけがえのない友人であるグレアムが自殺する。自殺の原因は、グレアムが恋した女性ヘンリエッタ・コンブリーブ(と彼女の「新しい」恋人であるホーランド氏)にあるらしい。手掛かりはグレアムがオズボーンに書き綴った手紙と、グレアムと知り合いだったドッド夫人による証言にある──未亡人である彼女は「口元を扇子で隠し、グレアムが失恋のためにひどく傷ついているとオズボーンに打ち明けた」。

オズボーンとグレアムはほとんど情熱と言っていいほどの友情で結ばれていた。グレアムがいなくなった今、オズボーンはその結びつきの強さを意識するようになった。どんな人間的な結びつきよりも、グレアムとの友情を大切にしていたのだと彼は感じた。二人は十年来のつき合いで、人生における最も活動的な成長の時期を共有して、二人の間柄は親密になっていった。数多くの喜びをともに楽しむこと、多くの危険を経験すること、数多くのアドバイスと固い信頼の交換、そしてお互いの利益を約束し合うことを通じて二人の間柄は強固なものとなっていった。その結果二人はお互いの関係を、移ろいゆく世界の中で唯一変わることのない事実、つまり、人生における唯一確かなものと考えるようになっていった。仲の良い友人の間でよく見られるように、性格や好みや外見において二人はまったく違っていた。グレアムの方が三歳年上で、ほっそりしていて小柄だった。身体的にそんなに丈夫だったわけではなく、感じやすくおとなしい性格で、気まぐれで物惜しみのしないタイプだった。オズボーンがよく知っていたように、彼とくらべると実際グレアムはかなり華奢だった。二人の仲の良さは周囲の人にはしばしば謎だった。


ヘンリー・ジェイムズ『オズボーンの復讐』(李春喜 訳、関西大学出版部)p.11

もしかすると、この部分が「暗示的迂回な」表現なのかもしれないが、むしろストレートに描かれるのは、オズボーンが「これだけの情報によって」すぐにグレアムを死に至らしめた(と考えられる)ヘンリエッタ・コンブリーブに復讐を誓うことである──なにしろタイトルがそのものズバリ「オズボーンの復讐」なのだから。ストレートにグレアムの死の悲しみに魂が揺さぶられ、同時に憤激し、胸の中の正義の声に憑りつかれることである──グレアムのことをとても愛していたに違いない、とオズボーンは思う(彼はそのことを知っているし、あえてそのことを「積極的に」語り得る)。加えて、その復讐者オズボーンは、かなりストレートにハードボイルド的である。背は高く、ボクサーのような逞しい腕を持ち、エネルギッシュで、日焼けした美貌の若者。ジェイムズの他の多くの男性主人公たちが美貌であってもどこか線が細く、何かを断念するような人物──例えば芸術家になることを断念するロデリック・ハドソン、革命家になることを断念するハイアシンス・ロビンソン、戦士になることを断念するオーウェン・ウィングレイヴ──と対照的な人物像である。もしかすると、今回の主人公オズボーンの「野蛮な欲求」=復讐は成功するかもしれない。

グレアムを愛するのと同じくらいオズボーンが彼のことを哀れんでいたことも事実である。グレアムの明白な才能と美徳は、それが表面に現れないようにしていたけれども。今や彼はいなくなったので哀れみが真っ先にやってきた。そしてその哀れみは、コンブリーブ嬢への情状酌量に対するすべての要求を情け容赦なく否定することにオズボーンを駆り立てそうであった。少なくとも当分の間は、グレアムは不当に扱われ、気まぐれにも彼の命の光は消されてしまったという以外の発言にオズボーンが耳を貸すことはありそうもなかった。あきらめに浸ることなど不可能なことに思われた。


p.14

行動的で直情的なオズボーンは、三日後、唯一の情報提供者であるドッド夫人を訪ね、ヘンリエッタ・コンブリーブがニューポートにいることを確認、すぐさま、ドッド夫人の情報に駆り立てられるかのようにその地へ向かった。すぐさまヘンリエッタ・コンブリーブが姉のウィルクス夫人宅に滞在していることを確認、ハードボイルド探偵よろしく、その家を探し出し、その家を見張った。家の中からはピアノと美しい歌声が聴こえてきた。この魅力的な歌声がグレアムを悲しみへと「誘った」音色なのだとオズボーンは思う──グレアムがもっていた芸術に対する情熱、その趣味の良さを思い出す。
ニューポート滞在は一週間を過ぎた。復讐には、まだ一歩も近づいていない。「満たされない欲望」だけがオズボーンに憑りついていた。その欲望を振り切るように、オズボーンは海辺を一人で歩いていた。と、岩場に取り残され怯えている男の子を発見する。行動的なオズボーンは、すぐさま、少年の救助に向かった。助けられた少年は、一緒にきた叔母の下へ向かう。その叔母は……ヘンリエッタ・コンブリーブだった。「宿命の女」は大抵のハードボイルド小説がそうであるように、探偵の前に向こうからまるで「何か」を求めるかのようにやってくる──レイモンド・チャンドラーロス・マクドナルドのはるか以前のジェイムズの小説にもこの(ご都合主義的な)パターンが。「宿命の女」に対峙したオズボーンは、

彼女の外見に、謙虚さと率直さ、新鮮な若々しさと洗練された振る舞いの特異な結合を発見し、それは二人の間柄がさらに前進する漠然とした可能性を示唆していた。彼女を観察することがすでに楽しみになっていることをオズボーンは感じていた。この十日間、邪悪な女性を探していた。そして、突然このように魅力的な女性と向き合うことがつかの間の安心をもたらしたので、(ヘンリエッタと少年を迎えにきた)世話係の登場には彼は電気ショックのように驚いた。


p.19

「その」可能性は実現する(ご都合主義的に、と言えるだろう)。だが、その一方で、グレアムの幽霊は険しい表情でオズボーンを見つめ、彼に復讐のための力も与えていた(とオズボーンは思う)。グレアムに対して不誠実な気持ちを起こしてはならない。グレアムが死んでしまった今ほど、「こんなにも」彼が生きて感じられることはなかった。グレアムの愛情、思いやり、理解力──それを受け継ぐのは唯一自分であることをオズボーンは分かっていた。自分の屈強な身体と活発な精神は友人グレアムの命じるままにある、それが取り消すことのできない厳粛なたった一つの切望なのだ。アーメン。
だが、オズボーンはヘンリエッタの別の面を知ってしまう。彼女はフランスの劇を翻訳・翻案し上演、自ら女優としてフランスの貴婦人を演じる。屈強な身体を持ち、ピューリタン的な精神を持っていたオズボーンだが、フランス文化には抵抗力をもっていなかった(ように思える)。グレアムの幽霊は限りなく「薄く」拡散し、オズボーンはいつのまにかカーペンター夫人主催のピクニックに参加することになっていた──ヘンリエッタ・コンブリーブも都合よく参加していた。
そこで、カーペンター夫人の姪からもヘンリエッタに関する新たな情報を得ることができた。ヘンリエッタラテン語ギリシャ語も読めるのだという。頭が良い──それこそ悪魔の徴ではないか、とオズボーンは仄めかす。証言者はそれを否定する「とても信仰心の篤い方で、貧しい人のところへ訪ねていったり、教会で説教を読まれたりしています。先日、コンブリーブさんが貧しい方たちのためにお芝居をされたことをご存じでしょう。あの方が悪魔だなんてことはあり得ませんわ。とても素晴らしい方だと思います」。
「素晴らしい方」。オズボーンは自身で観察し、証言者から得た情報によって「そうであること」を認識しながら、「そうであること」を否認しなければならない。グレアムのこと思って──自分がそれ以上の明晰な頭脳、活発な想像力、不屈の意思でもって近づき、相手を虜にし、そして捨て去る──「人の心をもてあそぶということ」がどういうことなのか、彼女に知らしめなければならない。しかし、そのようにグレアムの幽霊によって本来の目的に立ち戻るための力を与えられはしても、すぐにまた別の証言者がそれを打ち消す情報をオズボーンにもたらす。牧師のストーン氏もその一人だった。彼はヘンリエッタ・コンブリーブは素晴らしく聖歌を歌う、彼女は神学の専門家でもある、と証言する。「私は断言します。今日の集まりの中で、コンブリーブ嬢は最も教養があり、最も高貴な志を持ち、最も誠実で、最も篤い信仰心を持った真実のキリスト教である、と」。

探偵が本来の目的から逸脱し、本来の目的から逸脱する形で「宿命の女」と急接近し、本来の目的である復讐どころか彼女に好意的な情報ばかり収集していると、それに痺れを切らしたように「クライアントの」ドッド夫人がニューポートに乗り込んでくる。

「コンブリーブ嬢はまだこちらにいらっしゃるとお伺いしましたけど、彼女とお知り合いになれて?」と夫人は尋ねた。
「ええ、申し分なく」とオズボーンは言った。
「ずいぶんと簡単におっしゃるのね。少しでも彼女が自分のしたことに気づいてくれたのでしたらよいのですが。オズボーンさん、あなたにはおやりにならなければならないことがありましてよ。彼女を悔悛させるべきです」


p.42

事態が進展していないこと、それにもかかわらずオズボーンがヘンリエッタ・コンブリーブと頻繁に会っていることを察するとドッド夫人は決定的な言葉を彼に投げかける。「コンブリーブさんとそんなに親しくしてらして、それとグレアムさんとの友情をどのように折り合いをつけていらしゃるわけ?」。ドッド夫人はオズボーンの胸の内を見透かし(そのことにオズボーンも気づく)、咎めるように彼に指を向け彼に最終的な言葉を投げかける。「幸運を祈りますよ。別の方にならそれは危険なゲームだと申し上げるでしょうが、あなたには!」。
たしかにゲームだったのかもしれない。オズボーンはいつのまにかグレアムが「そうであったのだろう」という感情をヘンリエッタに抱き始めていることに気がつく。「そうであったのだろう」とグレアムの感情をオズボーンは自分の中に「写し取る」──それゆえ「どうしてあいつはそんな危ないことにかかわりあってしまったのだろう?」と彼は思う。だが、それはあくまでも「グレアムの感情」であって「自分の感情」ではないことも認識している。現実の女性に対し「架空の情熱」を抱くことは不可能だと彼は「知っている」。だから「架空の情熱」は「架空の女性」に抱くべきだ──オズボーンは町の写真館に入り自分の写真を撮る一方、写真館に展示してあった女性のモデル写真を購入する。そしてその女性の写真(彼はその女性をアンジェリカ・トンプソンと名づけた)をさも「何かあるかのように、意味深に」ヘンリエッタに見せた──彼女はどんな感情を示すのか? それも彼のゲームだった。
すかさず、そのオズボーンのゲーム──架空の女性アンジェリカを創造する──を把握していたかのようにドッド夫人は「あなたのちょっとしたゲームは上手くいっているようね」と言ってくる。「あのね、オズボーンさん、あなたはいい人すぎるのではないかしら」と苛立ちを隠さずに。

しかしそんなオズボーンの「危険なゲーム」も急速な収束を迎える時がやってくる──決定的な情報提供者が決定的な情報をもたらすことによって。一人はジョージ・ホーランド、ヘンリエッタの婚約者である。このホーランドが与える情報は──この小説は三人称で「視点」がオズボーン一人に設定されていないので──取ってつけたようなご都合主義的な印象が否めないが。ホーランドはグレアムが自殺したことをヘンリエッタに告げる──つまりヘンリエッタはグレアムが自殺したことを知らなかったのだ。ホーランドは「グレアムの狂気には秩序だったところがあった」とヘンリエッタに(つまり読者に)示唆する──それはどのような狂気なのか。ここで「被害者」であった(とオズボーンが信じていた)グレアムが実は「加害者」であった、という可能性が浮上してくる。ヘンリエッタは「グレアムのこと」を聞いて怯えホーランドに抱きつく。ホーランドは彼女を受け入れる。
もう一人はドッド夫人の従弟であるドッド少佐である。オズボーン、ドッド夫人、ドッド少佐はニューヨーク行きの船に乗っていた。ドッド夫人はオズボーンがヘンリエッタとホーランドの婚約を破棄させなかったことを詰る。「気の毒なグレアムさん!」と彼女は軽蔑するような笑みを浮かべ言った。ドッド少佐はその二人のやり取りを見ていたのかもしれない、告白するように事の次第をオズボーンに語る──「ドッド夫人は妙な幻想のもとで動き回っていたのです」と。
オズボーンの困惑をよそにドッド少佐は次々に「真相」を語る──推理小説の真の探偵のように。未亡人であり孤独だったドッド夫人はグレアムを愛していた──そんなドッド夫人をグレアムは巧みに心理的に操っていた。グレアムはヘンリエッタと婚約などしたことがなかった、それどころかヘンリエッタはグレアムのことなど見たことがなかった──グレアムは狂気じみていて偏執狂だった、今でいうストーカーだった。ホーランド氏はそんなヘンリエッタを保護していたのだった。気の違った男グレアムは勝手にヘンリエッタ・コンブリーブとの関係を想像し、二人の関係を捏造し、二人の噂まで流布させ、自身で作り上げたその破局に苦しみ(その苦しみに酔い)、自分で自分を追い詰め、その作られた苦悩の只中で、自分を愛してくれているがゆえに自分の目的をきっと叶えてくれるだろうと踏んでいたドッド夫人とオズボーンに「偽の情報」=「知識」を与え、偽の復讐の計略を託し、自分の作り上げたその秩序立てられた偽の物語に沿って自殺した──死ぬことによって彼は人々を思うが儘に操れる特権的な地位を獲得した。ドッド夫人とオズボーンが協力しなければグレアムの計略した復讐は叶わなかった。だから巧みにドッド夫人を口説き、苦悩の手紙をオズボーンに書き綴ったのだった。他人の心を弄んでいた人物こそがロバート・グレアムだったのだ──ヘンリエッタ、ホーランド氏、ドッド夫人、それにオズボーンがその「被害者」だった。それだけでなく、「被害者」であるドッド夫人とオズボーンを「別の被害者」であるヘンリエッタとホーランド氏に対する「加害者」へと仕立てていたのだった──同時に、ヘンリエッタとホーランド氏こそが(グレアムを死に追いやった)「加害者」であるとドッド夫人とオズボーンに予め思わせておいて。「被害者」同士をそれぞれにとっての「加害者」に見立て、「被害者」同士で争わせること。天使のようなヘンリエッタを貶めること、敬虔なキリスト者を試すこと、そのために「被害者」を「加害者」に仕立てあげ、その罪を「被害者」に「加害者」として背負わせること──それが蛇のように賢く、巧妙に立ち振る舞った堕天使グレアムの正体だった。それがオズボーンが最後に掴んだ情報だった。それが真相だった。
*1

「あなたの魂に祝福がありますように」とドッド少佐はオズボーンに言う*2。オズボーンは船のデッキで多くのことに思いを馳せながらドッド少佐の最後の祈りを繰り返した。
この物語は最後、フィリップ・オズボーンが女性と結婚したという報告で終わっている。もしかすると、これで「オズボーンの復讐」は達成されたのかもしれない──ロバート・グレアムに対する。

ヘンリー・ジェイムズ短編選集 (「オズボーンの復習」他四編)

ヘンリー・ジェイムズ短編選集 (「オズボーンの復習」他四編)


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*1:アレクサンドル・カバネル "Fallen Angel"

*2:このセリフはロス・マクドナルドの『ウィチャリー家の女』の最後の場面を思い出させる──「わたしの魂に神のお慈悲がありますように」。