HODGE'S PARROT

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『ルイザ・パラント』(Louisa Pallant, 1888)


「どんな人の心に関しても究極のことを知っているなどとうそぶくべきではない」と語り手である「私」は冒頭で述べる──だったら読者はこの一人称小説の「私」が何を知っていて何を知っていないのか、あるいは知っていることをどのように語っているのか、どのように語っていないのか、そして知らないことをどのように知っているのか、どのように知らないことを知っているかのように語っているのか……ということを想定してこの物語を読んでいく緊張を強いられる。
最初の舞台はホンブルク。「私」はアメリカ人、相手はルイザ・パラントというヨーロッパ人。ヘンリー・ジェイムズ作品特有の「国際状況」の設定は取るのだが、「私」対ルイザの「交渉」は何年も前に終了している。ルイザは「私」と交渉を持つも、「私」よりも有利な相手──と「私」は睨んでいる──ヘンリー・パラントを見出し、最終的に彼と結婚してルイザ・パラントとなった。ただしヘンリー・パラントはすでに死亡。現在は、したがってルイザ・パラントは生活に困窮している(ようだ)。だからルイザは「私」の前に再び……。
しかし今回は「私」vs.ルイザには成り得ない──「私」というアメリカ人とルイザというヨーロッパ人との対決ならば、すでに「私」は以前に「それを経験をしている」ので問題はない。問題は、今回は「私」には「初心な」甥アーチィがいること(21歳のアーチィは初めてのヨーロッパ旅行の最中である)、そしてルイザ側には22歳の美貌の娘リンダがいること。狙いは明らかだ、と「私」は戦々恐々する。
このルイザとリンダの母娘が初めて「私」の前に現れる場面が、素晴らしく映像的であり、かつ「私」の心理の動きが絶妙に精妙に描かれている。これこそが読むのに独特の緊張感を強いられながらも、読みながらそれに酔わされ唸らされるジェイムズ一流の文章表現である。

私は彼女(ルイザ)に十年ばかり会っていなかった。そしてまず思ったことは、彼女がヘンリー・パラント夫人であるということではなくして、彼女と一緒の若い女性がすごく綺麗であること──というか、通り過ぎるすべての人がいたく彼女に見入っているという事実であった。そんなわけで私自身もまたその若い女性に気を引かれたが、その魅力的な顔を見ていると暫しの間私の注意力は彼女の連れの顔から逸れるのであった。さらに年長の婦人は、夜なのに、薄く軽いヴェールをつけていたのでその顔かたちははっきりしなかった。彼女たちはゆっくりゆっくりと歩いていた。そして非常に物静かで上品で、いい服装だったが、誰も友達がいないようだった。誰も彼もが視線を送っていたが、声を掛ける人はいなかった。彼女ら自身もほとんど言葉を交わしていないようだった。そして目立つくらいに落ち着いて、またそれにはすっかり慣れているかのように、彼女たちは自分たちが掻き立てる注目にじっと堪えていた。彼女たちがもちろん一筋縄でいかない何か計略を秘めているのではないか、そうでなかったら年上の婦人が若い方をそんなに人の目に晒しはしなかっただろうし、また自分自身の顔をそんなに隠すようなことはなかったのではないか、とつい思ってしまうのであった。ちょうどその時そんなことが私の心に浮かんだのは多分近い将来に私が甥の保護者になることが心に浮かんだからであろう。仮に私がヨーロッパの最良のところだけを彼に案内するとすれば、彼が出会う人には──特に女性には──まだ彼が付き合う人間関係について特に注意を払うべきであろう。私は彼が非常にうぶなのではないかと案じて、私の役目に不安を感じるのであった。私が目の前にしたのは単にルイザ・パラントであり、その若い女性はその子供時代を私も覚えている娘のリンダ──素晴らしい美人に成長したリンダであることに気づいた時、私はほんとに安堵の胸を撫で下ろすことができたであろうか?



ヘンリー・ジェイムズ『ルイザ・パラント』(多田敏男 訳、英潮社『ロンドン生活』所収)p.196-197

ルイザが「薄く軽いヴェール」をつけてリンダの背後にいるように、「私」はアーチィの保護者として純真なアメリカ人青年の背後に位置している。アメリカvs.ヨーロッパという国際状況の物語は、ここではそれぞれの「保護者」が暗々裏に計略を張り巡らすことになる──その「ヨーロッパ側」の計略をいち早く見抜き、かつての経験により見抜くことができる「私」の視点で。
彼女たちは偶然を装って、「私」に気が付かない振りをして──と、「私」は思う──「私」の席にやってくる。すぐに「あのぞっとするほどの金持ち」としてルイザが記憶していたパーカー家の息子アーチィ・パーカーの話題になる。ルイザはアーチィについていろいろと知りたがる。「ほとんど彼に会ったことがない」と「私」は対応する。しかし結局、情報収集の結果、「貴方のその坊ちゃんに対する責任はより重大なのね?」とルイザは探り当てる──「私」も狙い通りに、彼女の狙いに照準を向ける態勢を整える。

「あぁ、そういう意味で仰言っているんだったら、私はあの子を生かしておきますよ」と私は返した。
「じゃ、私たちも坊ちゃんを殺しはしないわ、ねぇ、リンダ?」と私の友は笑いながら続けた。
「分かりませんことよ──ひょっとしたら殺すことになるかも、ね!」と娘は微笑した。



p.204-205

アーチィがやってくる。パラント母娘と交流をもつ。「私」は甥を見守る。リンダにも目を配る。アーチィを見守りながら「私」は「素朴さと愚かさを区別する境界線」について考える──まるでヨーロッパにいるアメリカ人を作者ジェイムズがこれまで他の作品で「観察」したときのように。しかし、観察の結果、アーチィとリンダはお似合いなのではないか、と「私」は思うようになる。「私」の観察によれば、リンダには「王子様を引っ掛ける」ようなタイプには見えなかった。リンダは美しく、知性的で、振る舞いも見事であった(ヨーロッパの長所をすべて体現していた)。若い二人の交際は自然に見えた。「私」の不安は杞憂だったに違いない。
だからこそ、そこにルイザ・パラントが介入してくる──「私」が予想していた真逆の要求を突き付けて。すなわちアーチィとリンダが恋に陥らないように、二人が結婚をしないように、と「私」に促す。アーチィ・パーカーをリンダから救いなさい、彼をすぐにこの土地から連れ出すように、とルイザは「私」に伝える。これは警告でもある。なぜならリンダは「危険である」から(と「私」は思い、ルイザもそれを否定しない)。あなたたちがこの土地から出ていかないのならば、代わりに私たちが出ていく、と──あなたのために、とルイザは応える。私は「リンダのことを知っている」──20年間も一緒に暮らしてきたのだから。「でもたまたま私には分かっていることなんですが──どのようにして私が分かったかはどうでもいいことなの──パーカーさんが娘に求婚なさったらその瞬間に娘はあの方を一度に食い尽くしてしまいます」。

「私」は虚を突かれた。てっきり、娘とその母が「協力して」、財産を持っている甥のアーチィ・パーカーに恋愛を仕掛けるだろうと踏んでいたのに、それなのに、母親は娘のことをまるで怪物(モンスター)であるかのように貶め(そう「私」は感じる)、危害(ハラスメント)を被る前に「逃げなさい」と警告をするなんて。「私」はその不自然な状況を鑑み、それゆえ、それこそがルイザの策略なのではないか、と考える。確実に、リンダとパーカーが結びつくために──高次のレベルで、すなわち二人の結婚を確実にするために。彼女たちの利益をいっそう確かなものとするために、そこに偽の障害を置き、このような茶番劇を母と娘が一緒になって仕組んだのではないか──「あの」ルイザならやりかねない。

素早い行動を移したのはパラント母娘だった。二人はホンブルクを逃げるように立ち去った。「私」の気持ちは複雑だった──私たちアメリカ人は彼女たちヨーロッパ人の「恰好の獲物」ではなかったのか? それなのに彼女たちこそが私たちを「危険」だと受け取ったのではないか、と私は考える。もっとも、彼女たちの逃亡もルイザの策略ではないか「私」は思う──「私」とアーチィは彼女たちを追跡するだろうことを踏んで(ここで読者も財産を持っているアメリカ人ならば、ヨーロッパ人に「狙われて」当然だと思っているようなアメリカ人の優越感に微笑させられる)。
予想通りだった。リンダからアーチィに手紙が届いた。急な出来を詫びるものだった。そこには彼女たちの滞在先は記されていなかった。が、聡明な「私」は使用されている便箋の徴から彼女たちの大凡の居場所を見当づけた──もちろん、それもルイザの策略の一つであろう、と聡明な「私」は思う。だから「私」(とアーチィ)は、この「手の込んだ招待状」を受け入れよう、この「ゲーム」に乗ろうではないか。二人のアメリカ人は便箋の徴が示していた場所、バヴェノへ向かった。
ヨーロッパ人親子はすぐに見つかった。リンダとアーチィはすぐに以前のように打ち解ける──やはり二人はお似合いだと「私」は思う。若者二人はボートに乗りに行った。保護者たちがその場に残された。ルイザは挑戦的に「貴方どうなさったの?」と「私」に視線を投げる。「貴方は私の償いを──私の罪滅ぼしを──不可能になさったのよ!」。
ルイザは再び「私」に娘リンダの「正体」を、より具体的に、より詳細に伝える──彼女はどんな善良な男の人生でも毒してしまう恐ろしい女なのだ、と。危機(クライシス)は必ず訪れる、リンダはアーチィに狙いを定めている、狙った獲物は絶対に捕える。どんな犠牲を払っても、どんな卑劣で残酷な手段を講じても、たとえ人を殺しても。「輝かしい社会的地位につくためには、必要とあらば、私がこの湖で溺れても彼女は指一本動かさず平然と見ているでしょう。あの子はあそこに立って、じっと見詰めて──あるいは彼女は後ろから突くかもしれないわ──何の痛痒も感じないでしょう。それが私が作った若い婦人なんです!」
自分の娘をそんな風に言う母親に「私」は当惑する。しかも今回の「私」の観察でも、リンダはそんな風に見えなかった──「読者」にもルイザのリンダへの一方的な非難は不自然で不当に思える、これまで二人は「共同歩調」を取ってきたのではなかったか? 「あなた」は一部始終を知らない、私は自分の娘を知っている、だから私は「あの方」を救わなければなりません──とルイザは告白する。なぜなら、私が娘を「そのようにした」から。あの子は「私の手作りの作品」なのだから。「私のただ一人の子供が私の罰なのです。私のただ一人の子供が私の恥辱なんです!」

「私自身の良心の納得のためなんです──私だって良心を持っているんですから。私は私の罪そのもので罰せられました。私はいやらしいほど世俗的でした。そのことばかり考え、あの子にそのようになるように──同じようにするように教えたのです。私の教えたことはそれだけなんです。あの子はその教えを見事に自分のものにし、それがあの子のあらゆる性格に、あの子の魂のすべてに、あの子の外見のすべてに刻印されているのを目にして、私は自分のやったことにぞっとしているんです。何年もの間私たちはそんな風に暮らしてきました。それ以外のことは全然考えもしませんでした。あの子は私の素晴らしい影響をあんなにも立派に自分のものにして、元のモデルを遥かに凌駕したんです。私はぞっとしている、と言いました。」とパラント夫人はおののきながら締め括った。「それはあの子が恐ろしいからなの。」



p238-239

翻訳者の解説では、ここにフランケンシュタインのモチーフが言及される──作られたものが作った人の「意図」を超えてしまい、制御ができなくなってしまう。たしかに同じ基盤(マトリックス)を有しているからこそ──自分も「そうだった」からこそ──相手が他者に加える「危害」(ハラスメント)に恐れおののくのだろう。「子供」=怪物のすることを見て、親であるフランケンシュタイン博士は、その所業に──そこに、より原理的に見出される「本当の実態」を突き付けられ──慄き、震え、ぞっとする。「それ」が母体(マトリックス)を喰いちぎり、その基盤をも侵食し、意図を超え、「それ」が自分自身に向かって破壊をもたらす理論的帰結に怯える……。

神はその慈悲で私に間に合って悟らせてくれました、でも私の娘によってそれを悟らせるとは、神の道も不思議という他ありません。神が悟らせてくれたのは私自身なのです──何年も過ごしてきた私自身なんです。でもあの子はもっとひどいんです──絶対にそうなんです。私が意図したよりも、あるいは夢見たよりもずっとひどい。


p.240-241

それでも「私」は納得がいかない。リンダは母親が(一方的に)言うような怪物のようには見えない。だったらこれも策略なのでは、と思う。「哀れなリンダを犠牲にして彼女は寛大な女性のような顔をしているのだろうか?」。もしそうだとしたらアーチィが所有している「ドルの力」だけでは家柄の面においてルイザは不足に思っているのだろう、とあれこれ想像を張り巡らす。
アーチィがあなたの息子だったならば──と、ルイザは「私」に言う──あなたはちゃんと「それを避けていた」でしょう。
しかし……聡明な「私」は、ボートに乗りに行ったアーチィとリンダが「一線を超える」ことをすでに知っていた。事実、その日、アーチィはホテルに戻るのが深夜になっていた。甥の帰りを見張っていた「私」に会うこともなく黙って自分の部屋に行ってしまった。翌日、パラント夫人のもとへ行こうと誘うと、アーチィはそれを拒絶した──そこには不快な出来事があって茫然としている表情が読み取れた。
一人でルイザ・パラントを訪問した「私」は、アーチィがここに来ることを拒んだということを伝えた。「それをお聞きして愉快ですわ」とルイザは応える。昨晩のことを知って──娘の帰りが遅かったので──私は直々にあの方へ伝えたのです。何をアーチィに伝えたのか──「私」にも読者にもわからない。そしてルイザは娘に手紙を出してくるように言う。誰宛の手紙なのかを囁きながら、その手紙には切手を貼っていないので「あなた」が貼って投函するように強調して。誰宛の手紙でどんな内容が書かれているのかは分からない──しかしリンダがその手紙を読むこと(読みように仕向けていること)は、そのやり取りの描写から読者には伝わってくる。多分、ここで事態を「分かっていない」のは「私」だけだ──と、ジェイムズは絶妙な綱渡り的な描写で読者に知らせる。
「私」がホテルに戻るとアーチィは私に何も言わず旅立っていた──翌日届いた電報には「どうかぼくの後を追わないでください。一人でいたいのです」と書かれてあった。「私」は途方に暮れた。しばらくしてアーチィはアメリカに戻った。一年後、リンダがロンドンで英国人と結婚したことを「私」は知った──その英国人はたしかに財産を持っているだろうが、その他の面では「ぱっとしない」人物であった。なぜ、アーチィではだめだったのだろう? 「私」の姉のシャーロット──すなわちアーチィの母親──に会ったとき、ふとルイザ・パラントに言及した。するとシャーロットはその名を聞いて激怒した。


これで『ルイザ・パラント」という小説は終わりなのだが、「私」には──そして読者にも──最後の事態がなぜそうなるのか(すぐには)わからないように描かれている。実際、他のジェイムズ作品と同様、明確に記されていない。だから推測するしかない。振り返ってみると、

  • ルイザがアーチィをまだ「獲物」だと思っていろいろと身の上を探っているときに、アーチィの母親のシャーロットとはほとんど面識がないのにもかかわらず、ルイザはシャーロットのことをよく知っていたという事実(どこからその情報を手に入れたのか?)
  • その上でシャーロットの結婚相手であるパーカー氏のこと(およびその家族)を完全に覚えていた。
  • シャーロットの夫パーカー氏も、ルイザの夫パラント氏もすでに亡くなっている。
  • ルイザが豹変して、リンダとアーチィを「絶対に結婚させない」ように画策する(リンダは私が作った怪物なのだ、その「リンダのことを知っている」のは母親である自分だけだ、と奇妙で不自然な理由で「私」を説得)
  • リンダとアーチィが「一線を越えた」日に、ルイザはアーチィに「何か」を伝えた。アーチィは翌日逃亡する。
  • その気だったリンダも、ルイザが「誰か」に向けて書いた手紙を読んで──ルイザが読むように仕向けた後──アーチィとの出来事が何もなかったかのように「ぱっとしない」英国人と結婚する。
  • アーチィの母親シャーロットのルイザに対する最大級の非難。

これらの事実から推察するならば──少し前に横溝正史の『悪魔の手毬歌』を読んで、その映画を見て、その殺人事件を駆動させる背後の人間関係を思い出した。


ヘンリー・ジェイムズ『ロンドン生活』他

ヘンリー・ジェイムズ『ロンドン生活』他


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