HODGE'S PARROT

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『智慧の樹』(The Tree of Knowledge, 1900)


冒頭、ピーター・ブレンチという中年の独身男性について作者はさりげなくそのキャラクターの情報を読者に提供する──そしてこの人物の視点を通してこのドラマは機能することになる。彼は友人の彫刻家モーガン・マローの作品について当人を前に何も「批評」したことはないし(でも心の中ではアトリエに犇めく大理石像の出来映えを嫌悪していた)、独身を貫いてきたのはマロー夫人を密かに「賛美」していたからだ(と、ピーター自身はそう思い込んで、そのように「了解」しきっている)。嘘をつかなければ本音を吐くわけでもない──そういうキャラクターなのである。そういうキャラクターであるからこそ、ピーターはマロー夫妻の息子ランスの名付け親であるばかりか、マロー夫妻とランス、そしてピーターは「複雑怪奇な交わりを温め」、ほとんど四人家族といってもよいくらいだった。ただし経済的な実権を握っているのはマロー夫人である。彼女の実家からの持参金のおかげで「彼らは」カララ屋敷というそれなりの家でそれなりの生活ができるのである。
ある日、ピーターはマロー夫人から息子のランスがケンブリッジをやめてパリに行くことを聞かされた。熱意を込めて夫人は説明する。息子にとって芸術家以外の何かになることはありえない、素晴らしい血筋に生まれているのだし、ランス自身も「情熱」を持っている、と。彼女は夫を「先生」と呼ぶ。彼女は夫の才能を信じ切っている、それは彼女にとって不変の真実である──ピーターはそのように「了解」している。
後日、ランスと面会したピーターはパリ行をやめるよう忠告する。ケンブリッジの費用を出すことも提案する。しかし若き芸術家というよりも若手の株式仲買人のような(と、ピーターの目には映る)ランスは自身の決断のほどを父親の友人に話す──海外に出て「知らなければ」ならない、と。ピーターは「知るんじゃない」と命じる。僕に才能がないことを「知るべきではない」というのですか?と迫る若者に対して「嘘も本音も話さない/話せない」ピーターは自分は「不幸にして何もかも見抜き見通している」と答える。つまり「知りすぎているのですね、あなたは」と若者は言葉を返す。「知りたくもなるだろうが、ところが知ってはならないのだ」と年長者の教訓を諭すピーター。

「そりゃ何よりの成功はですね、自分に自分で満足がゆくってことでしょう、つまり、そんなのが、小人輩の裏面工作や駆け引きにも拘わらず、うちの先生の──独自の流儀で──成功だったと言えるんじゃないの?」
この問いにはその場で答えるには余りにもいろいろなことが含まれていたので、彼らは一先ずその議論を打ち切った。……この子は裏面工作の何のってことを鵜呑みにしているのだ。その独自の流儀のなんのってことを信じこんでいるのだ、つまり「先生」を信じこんでいるのだ。


ヘンリー・ジェイムズ智慧の樹』(大西昭男、多田敏男 訳、あぽろん社) p.11 *1

裏面工作と駆け引き──それはヘンリー・ジェイムズのほとんどの作品に見られるものだ。そしてこの『智慧の樹』の面白さは、裏面工作と駆け引きの主導権を握っていると「思い込んでいる」人物が、実は、裏面工作の駒であったということを知ることにある。「知識」は情報として他の誰かに手渡されるものではない──「知識」を所有していることをいかに他人に見せるか、あるいはいかにして見せないか。

彼らの座っていた部屋は先生の天分の百花繚乱たる見本で飾られていた。それらは何れも、マロー夫人が屢々それとなく口にしているように、ひどく手頃なサイズであるという取柄があった。彫刻作品としては、あまり見受けられないサイズのものであった。そしてもし小さい筈の物がばかでかく見えているとすれば、大きい筈のものがひどく寸足らずに見えるというちぐはぐがあった。大先生の作為の程は、このことにせよその他何につけても、およそどんな場合だって、何年たった後でも、ピーター・ブレンチにはさっぱり窺い知れざるままであった。このわけの分らんしろものが、台座といわず、棚といわず、テーブルといわず、所構わず立ち並んで、英雄詩的、牧歌的、寓意的、神話的、象徴的、その他ありとあらゆる大理石像群が、それもまるで「尺度」を見失って、街の広場と暖炉とを取り違え、記念碑が細工物の如く、細工物が記念碑然とおさまりかえって、虚空に目を捉えていた。何にせよ、どう見ても、これは分際も、年齢も、性別も、奇妙に無視した背丈を割り付けられた一家眷族であった。それらはマロー一家同様、哀れわがブレンチの家族でもあった──少なくともそういっていいくらいのお馴染みだった。


智慧の樹』p.12

この大理石の眷族達が一向に減った様子がなかったことをピーターは知っていた──つまりまったく売れていなかったことを屋敷に通うたびに確認していた、にもかかわらずマロー夫人は「立派に振る舞っていた」、まるでそのことをピーターが「感づいていない」のを知っているかのように(と、ピーター自身は了解していた)。
閉じられたサークルの中で「何かの」第一人者と目され、あるいは「先生」と呼ばれている人物は本当に「その評価」に値する人物なのか──重要なのは、そのサークルの内部の者が誰しも「うすうすとそのことを感ずいている」状況にすでにあることだ。そして問題になるのは、そのサークル内部の者がそこを離れ外部から(例えば外国から)、外部の視点から「そのことを」直視することであり──「知っていること」を「認める」ことであり──そして、そのことによって「知識」を獲得した者が情報提供者(インフォーマント)として戻ってきたときに生じる事態である。


「今になってわかりました」とランスはピーターに報告した。「どうしてあなたがあれほどパリ行を反対したのか」、「知るってことは成程あんまり嬉しいもんじゃありませんね」。
もちろんランスがパリで「知った」のは自分の才能のなさ、だけではなかった──そんなものはピーターとの議論で「うすうす感じて」いた。独身の男ピーターが心配していたのは、息子が父親の「本当の姿」「大先生の正体」を「知ってしまう」ことにあった──そして何よりも恐れているのは「その情報」を息子であるランスが母親のマロー夫人に提供し、彼女までも「本当に知ってしまう」のではないかという恐れだった。「そんなことを」──とランスは父の友人に抗議する。「父親の正体」なんて物心がついたときからうすうすと知っていましたよ、だた、パリではっきりと「それ」を認識したのです、むしろ父の友人である「あなたのために知らないふりをしていた」のです、と。本当の事実を知らされたのはピーターのほうだった。ピーターのランスに対する駆け引きは、実は、「徒労」だった。

そうであるならば……。ピーターは次の策略(ゲーム)を考案し、それに参加することをランスに迫る──「この秘密」を守ること。決して「このゲーム」から脱落してはならない──マロー夫人のために(と、ピーターは言う)。もちろん、眷族の経済的な主導権を握っているのは夫人だ──夫人が「真相」を知ったら、夫を追い出すだろう、「友人である」ピーターも同時に。だから、ピーターはこのゲームの主導権を握らなければならない。ランスを自分の陣営に取り込んで。裏面工作と駆け引きを張り巡らすこと──それが何者でもない、何者にもなれない、この独身者の「情熱」なのである。
しかし……。彼より上手がいた。マロー夫人である。彼女は「知って」いた。ランスはピーターに情け容赦もなく告げる。「ええ、知っていますとも、洗い浚い僕にぶちまけてくれましたよ──で、母の口まねをして言えば、せめて母にできたあれくらいは僕にもしなさいと言うのですよ。ずうっと知っていたんですよ」
ピーターのマロー夫人に対する裏面工作も「徒労」だった。



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*1:

智慧の樹 (1965年)

智慧の樹 (1965年)