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「むさぼりの心」 〜 ルターの罪悪感


小牧治、泉谷周三郎の『人と思想 ルター』より。マルティン・ルターの「使徒パウロの『ローマ人への手紙』についての講義」(ローマ書講義)で示される宗教改革的思想。そこには罪とその赦しにおける新たな認識が挙げられる──すなわち、それによってローマ・カトリック教会を批判し、そのあり方を問い、後のプロテスタント神学者に大きな影響を与え、それらの神学者を通して、キリスト者として「本来の」生き方の指針が与えられる。それは「偉大な神の摂理という以外に表現のしようがない」(p.123)。
ルターは、『ローマ書講義』においてパウロの手紙を以下のように要約する。

使徒パウロの手紙の要旨は、われわれが自己のあらゆる義と知恵とを打破し、自己の義のゆえに今まで存在しないと思っていた罪と愚かさを確認し、大きくし、最後にこれらの罪と愚かさを打破するために、キリストとその義とがわれわれに必要だということを理解することである。



『ルター』(清水書院) p.123-124*1

「罪の理解を深めること」「その罪を打破するためにはキリストとその義が必要であること」──それがルター自身の信仰についての態度なのである。
小牧治と泉谷周三郎の共著では、そのルターの罪悪感が以下のように考察される。

ルターは、「ユダヤ人もギリシア人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した」(ローマ人への手紙 3.9)の個所で、つぎのように述べている。人びとの目から見て悪人である人だけでなく、善き人であるように見える人も、すべて神の前では罪の下にある。その理由は、公然たる悪人は、人びとの目からみてさえ義と思われないから当然である。しかし外見的に義しく見える人もその心のなかでは罪をおかしている。というのは、たとえ人が外見的によい行いをしたとしても、それは罰へのおそれからか、利益とか名誉などを欲して行っているのであって、けっして自発的に喜んで行っているのではないからである。つまり外見的に義しくみえる人は絶えずよい行いをなすけれども、その心のなかには悪いものへの「むさぼりの心」と熱望がみちているのである、と。
ルターは第四章で、罪とは欲情・罪への衝動・むさぼりの心、すなわち悪への執着と善を行うことへの困難である、と述べ、人間の罪深さを強調している。ルターはこのような罪の理解に基づいて、行いのみを罪の対象と考えるスコラ神学者の罪悪観に反対する。アリストテレスの影響を受けた神学者たちは、罪を外に現れる個々の行いと考え、それゆえ一定の外的なわざを行うことによって罪を除去できると信じていた。これに対して、ルターは罪を、外から人間に付着するものではなく、常に自分のことのみを考え、神をさえ自分の目的の手段として利用する心、すなわち「むさぼりの心」のなかに見いだし、しかもこの心は人が生きているかぎり完全に除去することのできないものと考えた。


p.124-125 *2

ルターは、どんなことをしても、どうあがいても拭いきれない人間の罪深さを強調する。したがって人間がもつ力の中に救いを見いだすことは不可能なのである。真の救いは神の恩恵によってのみ、もたらされる。「恩恵と霊的な義とは、たとえ罪は残しておいても、人間そのものをばひき上げ、変ぜしめ、罪から転ぜしめ、かくして、霊を義としはするものの、肉のなかにむさぼりの心を残存せしめる、……ゆえに、人間自身が生きているかぎり、また人間が恩恵の更新作用によってひき上げられ、変ぜしめられないかぎり、いかなる行いをもってしても、人間が罪と律法との下に立たぬようにはならしめることができない」。

キリスト者は罪のうちにとどまってはいけない。だが、それにもかかわらずキリスト者は罪人としてとどまる。この二つのことは外見上解決できない矛盾である。

だからこそキリスト者は常に神の恩恵によって罪から自由になるように努力しつつ、しかも常に自己のうちに罪があることを知らねばならない。そして日ごとに罪との戦いによって自己のうちの古い人を克服し、苦難と謙遜のうちに新しい人となり、しかも古い人と新しい人との同時的存在のなかで生涯絶えず前進をつづけなければならない。


p.129


[関連エントリー]

*1:

ルター (センチュリーブックス 人と思想 9)

ルター (センチュリーブックス 人と思想 9)

*2:強調は引用者による