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個人と集団へのハラスメント キャサリン・マッキノンの Only Words より


「差別語」あるいは「蔑称」と看做される言葉を目にしたときの〈傷〉の表明は、表明するにあたって、誰か他の人の利害と調整しなければならないのだろうか。そういったことができる人たちに「合わせ」なければならないのだろうか。
私は、その度に、キャサリン・マッキノンのテキストを読んで、その言葉を記していきたい。

セクシュアル・ハラスメントと人種ハラスメントもまた「言論の問題」という面がないわけではない。ある裁判所では、職場に貼ってあるポルノグラフィについて、「いずれにしてもポルノグラフィは蔓延しているのだから、女性労働者はそれを許容するべきである」と決定した。別の裁判所は、その職場における一般的コミュニケーションに言及して、「このような環境では(特定の)わいせつ物の持つ影響を割り引いて考えないと、我々のまわりはわいせつ物で充満しているということになってしまう」と述べた。ところがこれと似たような人種差別的言語と視覚的攻撃のケースでは反対に、「偏見言語は社会のなかに充満しているかもしれないが、アメリカ下院は、職場では差別はあってはならないと決議した」ことを判決の中で述べている。このようにほとんどの裁判所は、平等法の標準設定にあたり、「不平等社会によって設定された虐待の標準」は採用していないようだ。
評論家の中には、ハラスメントは個人に「向かって」行われたときのみ違法とするべきであると提案する人もいる。これは、修正第一条の目的にかなうように個人に対する侮辱と集団へのそれとを別に扱うことを暗示する方向で、そうすると個人への侮辱は規制できるが、集団へのそれは規制できないということになる。この考えでいくと、ひとりの人間の受けた傷は法的に訴えられるが、同じ傷を何千人も受けた場合、それは「保障された表現」になるといっているようだ。このアプローチでは、「個人は集団の一員としてのみ傷つく」という差別の傷の概念とは相反するものである。言うまでもないが、集団への攻撃は、攻撃範囲内にいる個人メンバー全員に向けられているのであるということを裁判所はだいたい理解しているようだ。職場で「ニグロは死ね」という文字を見た黒人はみんなそれが自分に向けられていることを疑うであろうか? 黒人女性についての落書きは黒人女性だけに、ブロンド女性を使ったポルノグラフィはブロンド女性だけに、あるいはレズビアンにつけられた蔑称はレズビアン女性だけに向けられているのだろうか? それともあなた個人の名前があるときのみあなたに「向けられて」いるのだろうか? 銃の狙撃練習用にマーチン・ルーサー・キング牧師の写真が使われた場合、それはキング牧師だけに向けられているのだろうか? このような攻撃の対象集団にいる人は、それが自分に向けられていることは分かりきっていることなのだ。



キャサリン・マッキノン『ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で』 (『Only Words』)、柿木和代 訳、明石書店 p.71-72


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