HODGE'S PARROT

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「それ」は、自分が本来的にそれに対して抵抗していることを見せるためにこそ、執拗に規律権力を描く


D・A・ミラーの『小説と警察』より*1。小説(フィクション)というリベラルな空間が、いかに「自由」を生産しているかのように見えながら実際は権力に組み込まれているのではないか。”ミラーの図式では、犯罪者は自分の「自由」を信じて、権力の外部に立って体制を翻弄しようとするのだが、結局捕えられ、「自由」はむしろ体制に順応し、その内側にとどまる者にこそ属する、という教訓が読者に与えられる。”*2

……規律によって警察を補完する力が警察を「否認」することによって、この力は別のもっと目に見えにくいレベルで、別のもっと効果的な様式で、警察権力を行使することができる。これと同じように、小説自身による警察権力の拒絶は、この控えめな止揚から遠ざかるどころか、これを推し進めているとみることができるだろう。小説は、警察権力を非難するときにはいつでも、まさに小説という表象行為の実践によって、その権力をすでに再建しているのだ。

うまい具合にわかりやすい例がゾラの『ナナ』(1880年)にみられる。作中の娼婦たちが警察を死ぬほど恐れているのが思い起こされよう。法と総監を恐れるあまり、娼婦のうちの幾人かは、その通りで警察の手入れがおこなわれているときに、カフェのドアの前でしびれたように動けなくなってしまう。ナナ本人も「いつも法の前では震えていた。それはよくわからない力であり、彼女を殺す力をもつ男たちによる復讐だった」。成功して贅沢に暮らしているときでさえ、ナナは「警察に対する恐怖は克服できず、警察の話など、死と同じくらいに聞きたくない話題だった」。最大の恐怖は明らかに、「記帳される」こと、つまり健康診断を義務づける警察のリストに載りそうになったときにかきたてられる。ゾラは警察による娼婦の規制について、なんの幻想も残さない。ナナの友人サタンの例でわかるように、風紀取り締まり警察は、単純なおどしをかけないときでも、性の楽しみをこっそりと保護している。しかし物語で非難されている警察的手続きは、これほど汚れたものではないとしても、ゾラの語りの手法にも現れる。

『ナナ』は娼婦の「記帳」の拡張以外のなんだというのか。細かな調査にもとづき、上のレベルでは病理学という最新の科学思想に、下のレベルでは膨大なカード資料によるデータの蓄積に支えられた「研究」以外のなんだというのか。ゾラは警察と同じ病気予防の意図をもち、いっそうの広がりをもって、警察同様パリの女たちを記録しようとしている。『ナナ』とは、ファイルのタイトルであり、記録されることに抵抗する娼婦と、その抵抗を表象の実践によって押さえつけてしまっている小説と、その両方を指し示しているのである。

(中略)

小説は、自分が本来的にそれに対して抵抗していることを見せるためにこそ、執拗に規律権力を描く。この主張のマクロのレベルでは、主人公を矯正しようとする社会統制をふりほどこうという彼の試みに、ミクロのレベルでは、些細な細部が突如意味をはらむときにみられる。「些細なものの意味」は概して、一見した際の陳腐さと、それが担う暴露の重みのあいだの極端な不釣り合いによって、読者を驚かすこと、さらには怖がらすことをねらっている。細部が意味づけられるまさにそのプロセスによって細部が帯びる力は、すでにその意味を利用しているからだ。権力が根を下ろすのは、もっとも根が下りそうにないところ、つまりどうでもいい場所である。


D.A.ミラー『小説と警察』(村山敏勝 訳、国文社) p.40-41,p.47-48

ここでの「自由」の議論を、例えば「男性性」や「女性性」すなわち「その表象」の/からの自由と置き換えてみたときに何かしらの示唆を与えてくれるかもしれない。あるいは権力の外部に立って体制を翻弄するように説く「特権大学教員」が、実際は、その者自身は、その体制に順応し(権力の外部に立っているかのように振る舞い、「安定性を望まない!」などと人に見せるために公言しながらも)、その内側にとどまっていることによって、様々な特権、高賃金、研究費を体制=国家から享受し、さらには様々な社会活動に参加する費用までをも公金=税金から捻出する「自由」を獲得しているとしたら──そういった現実を認識し、把握するためにも何かしらの教訓を与えてくれるかもしれない。

小説と警察

小説と警察


[関連エントリー]

*1:D. A. Miller, The Novel and the Police

*2:村山敏勝『欲望はそこにある』(『現代思想』1996 vol.24-15