HODGE'S PARROT

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ロラン・バルトのホモセクシュアリティをクローゼットから引き出し、はっきりと目に見えるものにすること


エクリチュールそのものにゲイ的なものを見いだすことは、どの程度可能であり、またどのような意味をもつのか。

ロラン・バルトを表に引き出す』*1は、当初リチャード・ハワードによるバルトの遺稿集 Incidents 『偶景』の英訳版の序文として書かれた。しかし原書の版元であるスイユ社と編者のフランソワ・ヴァールはこの序文を拒否し、その結果ミラーの五十数ページのエッセイは、きわめて瀟洒なデザインの小冊子として独立に出版され、しかし英訳版 Incidents と一枚のカバーにくるまれてまとめて売られるという奇妙な事態になったのである。このような事態を引き起こしたエッセイは、公然とバルトのホモセクシュアリティに焦点をあてている。ミラーは二十年前のパリ留学時代、まだ自分をゲイとは考えていなかったころ、バルトがよく立ち寄ると噂されるサン・ジェルマンの歓楽街を、もしや彼に偶然顔をあわせるのではないかという漠然とした期待をもって彷徨ったことを回想する。そしてその十五年後、こんどは日本を訪れたミラーは『記号の帝国』のバルトが描く情景が、他のどこよりも新宿二丁目のそれなのではないかという思いに駆られる。記号が意味を剥奪され純粋な記号として輝く日本。あるいは「中性的」変換子の概念。こうした一見ニュートラルにして透明な観念を、ミラーはつぎつぎとゲイ的なものとして読んでいく。書かれたものと、作者がゲイとしてあることの関係を、『小説と警察』で彼のレトリックに慣れているはずの読者でさえ戸惑うほどの迂遠なスタイルで断片的に(つまりバルトのように)書き留めていくミラー。

(中略)

タイトルに使われた bring out という動詞は、いまや日本語としても市民権を得たようにみえるカム・アウトという語の他動詞と考えてよい。バルトのホモセクシュアリティをクローゼットから引き出し、はっきりと目に見えるものにすること。作者の同性愛について語ることによって、対象を狭い場所に押し込めるのではなく、むしろそこからの解放とすること。しかしこれは伝記的にはまだしも、批評的には困難な作業である。ことに長年ゲイとしてではなく著名であり、広い影響力をふるった作家の場合そうだろう。バルトの(あるいはフォースターの、あるいはハート・クレインの、あるいは今後新たな伝記的事実が発見されてゲイと認定されるだれでもよい大作家の)エクリチュールそのものにゲイ的なものを見いだすことは、どの程度可能であり、またどのような意味をもつのか。おそらくこれは答えのない問いであり、現在のレズビアン&ゲイ批評はむしろ、シェイクスピアを初めとして、ゲイとみなされてはいない作家たちの分析で大きな成果をあげるようになっている。
しかしバルトのセクシュアリティにこだわるミラーは、敬愛する批評家と自分とを「恥ずかしいほど」重ね合わせつつ、この問いを繰り返していく。その手続きは、対象デイヴィッド・コパーフィールドと書き手デイヴィッド・A・ミラーが、最初はほどんどセンチメンタルに、最後はきわめて不気味に重ね合される本書(『小説と警察』)第六章での議論に酷似している。そしてこうした同一化はいかにナルシスティックにみえようと、たんなるミラー個人についてよりもむしろ主体一般の問題に多くを語ることになるのである。



村山敏勝 D.A.ミラー『小説と警察』(国文社) 訳者解説より

小説と警察

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*1:Bringing Out Roland Barthes, D. A. Miller

Bringing Out Roland Barthes

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