HODGE'S PARROT

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表徴の帝国でのハッキング、スラッシング、スナイピング


マーク・デリー(Mark Dery)*1が批判する「ある種の」政治──またはありえない未来デザインの裏面で

政治的な戦略としては、こうした抵抗の儀式――あなたの用語に従えば「破壊/転覆の神話」は、国民国家の粗野な権力と、こういったものを急速に時代遅れなものに変えつつある多国籍巨大複合企業体との関係のうえに成り立っていますが、これは、たとえば、かつて紙と竹でできた放火装置をジェット気流に乗せてアメリカまで飛ばし、アメリカの森を焼き払おうとした日本の戦略が、同時に日本へのアメリカの原子爆弾投下との関係から成立していた、ということと同じようなものです。

こうしたことは、「不気味な欲望は、資本主義のひとつの大きな物語のなかで回収されて終わってしまうだけである」とか、われわれは「このナイーヴなテクノトピアな嵐が終わるまでただ待つ」べきだ、ということを意味しているのでしょうか? そんなことは絶対にありません。私は、ミクロポリティクスの抵抗に対する最後で最良の希望として、ポストモダン的なプリミティヴィズムや超ジェンダー的なアクティヴィズムや『スター・トレック』的なポルノグラフィや「おぞましいもの(アブジェクト)」をロマンティックに空想することに対しては疑いを持っています。その一方で、フランクフルト学派マルクス主義を受け継いで、サイバーカルチャーを救いのない支配による一望監視型の悪夢として捉える破滅型の傾向もまた疑わしく思っています。さらに、アーサー・クローカーがジャン・ボードリヤールから受け継いだ馬鹿げた「不幸=憂鬱症(ディスフォリア)」については非常に懐疑的です。このとてもディストピア的なヴィジョンは、われわれを取り巻く社会経済環境の問題を解決する方法を何も提示しないばかりか、SF的なジャーゴンにペシミズムをくくりつけ、こうした問題をアカデミックなテーマパークの中の軽薄なアポカリプスに放り込んでしまっています。これこそが、ヴァルター・ベンヤミンが人間の「自己疎外が、自分自身の破滅をその最初の美的な喜びとして感じることができるまで来てしまった」と警告するときに語っていたことなのです。

(中略)

「デジタルな無神論」が、サイバーカルチャーに浸透している新グノーシス主義的な、あるいはニュー・エイジ的なテクノ超越論に対抗する必要があるのかどうかはわかりません。論理のかみそりは、それに関わっている具体的な政治という砥石によって研がれ、まさに正しく用いられるべきなのです。率直にいって、私が驚かされるのは、オンラインに加入している人数が人間の脳のニューロンの数と同じになったとき、ガイア的な精神が「生まれる」(それが実際何を意味しているのかはさておき)だろうというジョン・ペリー・バーロウの信念や、すべての人間がフィードバックと反復を通じて現実を最大限再デザインする能力があるという『サイベリア』でのダグラス・ラシュコフの主張を含むような事柄を誰もが無防備に信じ込もうとすることです。格好のいい新しいデータスーツにだまされてはいけません。


『進歩的で実践的な未来主義を構築すること』(ヘアート・ロフィンクによるマーク・デリーの電子メール・インタビュー、毛利嘉孝 訳、InterCommunication No.19)


もっとも、このマーク・デリーのテキスト自体が孕む新語、専門語(ジャーゴン)の氾濫によって「カルチャー・ジャミング」というムーブメントが「ある種の」エリート主義に陥っているのではないか、という疑問も否めない──もしかすると、そういった疑問を投げかけることも狙った両義的な問題提起を企図したテキストなのかもしれない。



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*1:エスケープ・ヴェロシティ 世紀末のサイバーカルチャー』が翻訳されている。

エスケープ・ヴェロシティ―世紀末のサイバーカルチャー

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