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ただのXが救えなかった世界が、ただのYに救えるはずもない  上野千鶴子の『女は世界を救えるか?』より

「女性が世界を救う」という標語を支持する女たちの気負いと、男たちの無責任なおだてと高見の見物ぶりとは、こっけいなだけでなく危険でもある。女性性のそうした称揚は、女性性の蔑視の反転したネガにすぎず、少しも新しくはない。

(中略)

男の側からは、「オレたちが救えなかった世界を、今度はキミたちが救ってくれるのかい」という期待とも揶揄ともつかぬ反応があるが、これに対しては、男が救えなかった世界を同様に女が救えるはずがなく(女性は被害者であると同時に、またある点では男性にとって加害の加担者、その受益者でもあったのだから)女性の能力の過大評価は、その過小評価と同じくらい、迷惑で危険だと言っておけば足りる。

(中略)

「差別のない区別」説の支持者が、女性文化の復権と優位性を唱えるとすれば、実は、この主張じたいが論理矛盾を起こし、「差別もろとも区別」をも解体する方向へ向かわざるをえない。「エコロジカル・フェミニズム」なるものは、「合理的・科学的・分析的・競争的・断片的」な男性原理が優越してきた近代社会の行き詰まりを、「直観的・神秘的・統合的・全体的」な女性原理によって置き換え、打開しなければならないと説くが、もし女だけが女性原理の担い手になるという特権もしくは不公平を排するとすれば、男もまたこの女性原理へと招き入れられるべきであり、だとすれば、最終的には性隔離の垣根はとり払われることになるからである。女性原理/男性原理という象徴体系の中の性的分離のイデオロギーと、現実の女/男が、その象徴領域に排他的に性的に配当される、ということとは、区別して考えなければならない。

女性原理は、もしかして「世界を救う」かもしれない。しかし現実の女性は、女性原理を文化によって配当されてきただけであり、女性原理の枠内に封じこめられる理由もなければ、それを気負いこんで引き受ける理由もない。現実の個人としての女性は、男性と同じく、それ以上偉いわけでも劣っているわけでもない。ただの男が救えなかった世界が、ただの女に救えるはずもない。「女が世界を救う」という、期待と賛美であれ、揶揄と嘲笑であれ、そのいずれかの形の性差別にも、私たちは加担する必要がないのである。人類社会の多様な性別編制のあり方について注意深い観察者、ロザルドは、「もっとも平等主義的な社会は、男性が家庭生活の領域に高い価値を置き、それに参加している社会だ」と説く。これは結果的に、社会空間の性的隔離にではなく、その解消に導く。広汎な比較文化観察を通じて、ロザルドは、「女性の地位を向上するには、二つの設定が構造的に考えられる。女性が公的社会へ進出することと、男性が私的領域へ参加することである」と結論する。

(中略)

性差別の起源を近代主義に還元しつくせないように、女性解放の戦略を、エコロジスムに還元することもできない。イリイチが、フェミニストを反成長の陣営に引き入れようと説得したことに、エコロジカル・フェミニストは応じたのである。だが、「反成長」が「性差別を解消する」というテーゼは、「社会主義革命が女性を解放する」というテーゼと同じく、その裏返しの経済主義にすぎず、同じくらいあてにならない戦略である。

その上、エコロジスムは、数ある近代批判のうちの一つにすぎない。「近代=西欧」が支配し統制しようとした「自然」に、近代が復讐されているとして、「自然への回帰」が近代を超克する唯一の道だとするのは、「自然」の一種の神秘化に他ならない。しかも、「女性」がこの「自然」を代表するとしたら、それは文化/自然の二項対立の図式のうち、自然の側に女性を割り当てる男性優位の文化イデオロギーを実は前提とし、受け入れていると言える。このイデオロギー的なジェンダーの配当こそが問われなければならないのに、自らすすんで「自然」を引き受け、それを代表するのは、男性文化の策略にはまることであろう。女性には、(男性と同じく)「自然」をもっぱら独占して代表する権利もなければ、根拠もない。「自然」という神秘的なオールマイティを体現して、「女性が世界を救う」番だとのり出せば、男たちは揶揄と冷笑に満ちた期待をこめて、「やってごらん」と言うだけだろう。



上野千鶴子『女は世界を救えるか?』(『現代思想』1985 vol.13-1、青土社


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