HODGE'S PARROT

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偽預言者を警戒しなさい、彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である



ロジャー・キンボードの『終身在職権をもったラディカルたち』には、最近の流行にのった軽簿な教授たちの姿がそれにふさわしい軽蔑の念をこめて描かれているが、わたしはその中の一節に修正を加えたい。キンボールによると、六〇年代のラディカルはいまや一流大学の要職についているという。これでは甘すぎる。いまのアメリカの大学に在職する左翼にくらべたら、うちのハッティーおばちゃんのほうがよほどラディカルだ。
六〇年代の真のラディカルたちはほとんどが大学院に進まなかった。たとえ進んだとしても途中でドロップアウトした。たとえなんとか卒業しても、仕事につくのに苦労したり、勤めをまっとうできなかったりした。彼らはあくまでも一匹狼で、孤立し、中心から外れている。いまの大学に巣食う左翼たちは、かっこつけの出世亡者、臆病者の点取り虫だ。単位をとるのに躍起になって図書館通いをしたり、先輩教授にごまをすったりするのに忙しくて、そのあいだに六〇年代は過ぎてしまった。
彼らの政治的な主張はあとからとってつけたもの、手垢にまみれた中古品、パリから輸入された思想に熱中した七〇年代の流行をそのままとりいれたものにすぎない。そういう人びとがトップの座についたのは、システムに異議を申し立てたからではなく、システムにうまく順応したからだ。そういう連中は社畜と同じ。ローゼンクランツとギルデンスターンだ。特権に甘んじるオポチュニスト、流行の波に乗る人びと。



カミール・パーリア『セックス、アート、アメリカンカルチャー』(野中邦子 訳、河出書房新社) p.286-287 *1


クィア関係者」は国家や社会に対して「抵抗」することを、いったい何の権限があるのかわからないが、「特定の人たちに対して」命じる。そのときに使われる「国家」や「社会」というものが、ときとして非常に抽象的で曖昧な場合がある一方、その中にピンポイントで狙って具体的なものを指定してくるときがある。その一つが同性婚だ。
「このパターン」にどうしても引っ掛かる。まるで受験数学の「解法パターン」が透けて見えるような「できあいの問題設定」に思えてくる──だから、そこから、逆に「出題者の心理」を探りたくなる。突き詰めて考えてみたくなる。「このパターン」を一度、抽象化してみる。一般化してみる。その上で、具体的な対象として「クィア関係者」に当てはめてみる。このことを突き詰めて考えると、そこに欺瞞が見えてくる。「クィア関係者」が他人に対して、いったい何の権限があるのかわからないが、国家や社会に対して「抵抗」を命じるとき、抽象的なものと具体的なものを都合よく組み合わせた「アンバランスさ」に、自分たちの特権を上手に「回避させる」作為が見いだせる。だから「クィア関係者」が誘導する「規範に抵抗」というものが意味する「抽象的なものと具体的なものを都合よく組み合わせたアンバランスさ」について突き詰めて考えなければならない。

事実として「特定の大学出身者」が国家機関──大学の教員を含め──の、その要職の大部分を占めていること。これが支配ではなくていったい何なんだろう。そういった支配体制がなぜ「クィア理論に則って」問題化されないのか。なぜ「クィア」はそこを突かないのか? そういった特権構造に対して、どうして「クィア」によって異議申し立てがなされないのか。
事実として「特定の大学出身者」による国家機関の支配があるのならば、そして「もしクィアが主張するように」、市民が国家機関により支配され、抑圧されているのならば、そういった支配構造、差別構造を解消するために、市民にはいったい何ができるのか。抑圧構造を維持・強化・永続化している特権者の権力をいかにして奪うことが可能なのか。
事実として「学歴ロンダ」と呼ばれるものが存在している。それは「特定の大学出身者になる」ための一つの手段であろう。それは「幸せの筋立て」と呼ばれるものに則った選択であろう。ただ、気になることがある。「学歴ロンダというショートカットの幸せの筋立て」において、「ある特定の大学」が「ロンダ元」を異様な比率で占めているとしたら、何か不自然さを、すなわち「アンバランスさ」を感じるは自然だろう。そこに何かしらの疑問を感じるのはやはり自然だろう。どういう経緯で「こういう現象」が起きているのだろう。というより、なぜ、こんなに、「学歴ロンダ組」が多いのだ? 「規範に抵抗!」っていったい何だ?

むしろこう言ったほうがいいだろう。「大学で地位を築いているクィア」は、様々な場面で「ある特定の人たち」を支配下において(そのように振舞い、他の分野の人たちにもまるで「縄張り」であるように知らしめ既成事実化している)、まるで「ボス猿」のように振舞っている。「特権をもったクィア」であるから、他人を支配し「使役させる」ことに対して、何の疑問ももっていない。それが当然だと思っている。まさに「ボス猿きどり」が言葉遣いの端々から伺える。だから、それを見習い、それを規範としてうけいれ、「自分もああいうふうになりたい」という「他学校からの進学」が、ある界隈で、蔓延っているのだろう。「ボス猿」になれなくても、せめてその子分のように。そして実際、「ボス猿」の真似をして偉そうに振舞っている。加えて、他人の結婚にも口が挟めると思っている。なぜそこまで思い上がれるのか。

闘争のなかでは、「専任教授」と「非常勤講師」間の驚くほどの格差も明らかになっていった。これこそまさに大学側が隠したかったものだろう。非常勤講師らもうすうすは知っていたものの、まさかここまでのものだったとは、と驚きを隠せなかったという。

非常勤講師組合が2007年に発表した調査結果によると、非常勤講師の平均年齢は45.3歳、平均年収は306万円。44%の人が年収250万円以下だった。

一方早稲田の専任教授の年収は1350万円。専任教授の就業規程によれば、義務とされている授業のコマ数は週4コマである。

非常勤講師が4コマの授業を担当した場合、1コマ約3万円なので、年収は144万円。同じように大学院を卒業して、場合によっては非常勤講師の側は博士号をもっており、専任教員はもっていないにもかかわらず、その年収には10倍近い開きが生じるのだ。


早稲田大学で起こった「非常勤講師雇い止め紛争」その内幕(田中 圭太郎) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

クィアで資産形成しているクィア」が「自分たちを利している社会構造を変える」だなんてまったく思えない。「クィアで大学のポストを狙うクィア大学院生」が「自分たちを有利な立場に導いてくれる制度を変える」だなんてまったく思えない。「抽象的なものと具体的なものを都合よく組み合わせたアンバランスな問題設定」によって「他人を誘導」し、自分たちが浴している特権を「回避させる」ために、そして他人を「下部のクィア」として位置づけるために、自分の研究対象に勝手に組入れ(勝手に組入れることができる特権、好き勝手に組入れることができると思っている傲慢さ、勝手に自分の研究対象に貶めていいと思っている思いあがり、そういったことを実際すべて可能にしている特権意識)、「クィア」という名を勝手に強引に与え、「クィア」で呼び直し改名し、「その言葉」でもって支配し、他人を自分たちの出世のための「資源」にすること。「クィア学者」がやっていることは、市民を〈臣民〉にしようとする権力者とどこが違うのだ? 私たちは「クィア学者」の〈臣民〉では決してない。市民を踏み台にして出世を計るような「クィアなんちゃら学者」ども。その「見習いクィア院生」ども。踏み台にするために、踏み台にするために「特定の市民」を選びだし、自分たちの研究材料に貶め、米国あたりの学者の言ってることを「棒読み」しているだけで何か言った気になって、たかがそれだけのことで権威面して、他人を搾取し、出世の道具にし、「結婚の平等」を「言いがかり」をつけ、しかもそれに加え「ペドフィリアの擁護活動という裏の政治活動」まで行っている。こういう「クィアというもの」を問題化するために、市民が「超党派で」監視する制度をつくらなければならない。こんなものに国の税金が注がれていることを問題にしなければならない。メディアに訴えていかなければならない。

彼らは少しでも高い地位と給料を追い求めて、きょろきょろしている。イアソンの金羊毛をまんまと手に入れ、黄金のパラシュートで自分だけの大金を手に入れようとチャンスをうかがっている。学会はまさにインチキくさいインサイダー取引、奇抜な新作コマーシャルのキャッチフレーズをわめきながら密閉包装の製品を売りつける出世志向のセールスマンも顔負けの足のひっぱりあいだ。学会にただよう現実離れした感覚は人を惑わす。


カミール・パーリア『セックス、アート、アメリカンカルチャー』 p.302

「現実主義でいこう、われわれ左翼学者は、体制が与えてくれる特権をすべて享受しながら、外面的には批判的でありたいのだ。そのために、体制に対して不可能な要求をなげつけよう。そうした要求がみたされないことは、みな分っている。つまり、実際には何も変わらず、われわれがこれまで通り特権化されたままでいられることは確かなのだ」。



スラヴォイ・ジジェク『操り人形と小人』 p.68

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